17話
あっという間に、交流会の日になった。
「背筋」
「……はい」
「伸びています」
「はい」
「返事をするんじゃなくて、直しなさい」
リリーは慌てて肩の力を抜いた。
すると今度は。
「猫背になれとは言ってません」
「難しい……」
朝からずっと、これだった。
マーサの指導のもと、ここ数日、リリーはひたすら侍女らしく振る舞う練習をしていた。
歩き方。
立ち方。
目線。
言葉遣い。
物の持ち方。
人との距離。
皇女として教えられてきたこととは、何もかもが少しずつ違う。
皇女は、背筋を伸ばす。
顔を上げる。
相手を見る。
声を通す。
ゆっくり歩く。
けれど、侍女は違う。
主人より目立ってはいけない。
必要以上に顔を上げない。
廊下の中央を歩かない。
呼ばれるまで前へ出ない。
人の視線を集めない。
つまり。
「目立たないこと」
マーサが言った。
「今日は、それだけ考えていなさい」
「それだけ?」
「殿下にとっては、それが一番難しいんですよ」
「私、そんなに目立つ?」
マーサはじっとリリーを見る。
薄金色の髪。
金色の瞳。
整った顔立ち。
本人は、離宮で暮らしているせいで、自分がどう見えるかをあまり分かっていない。
「……まあ」
マーサはため息をついた。
「余計なことをしなければ、少しは大丈夫でしょう」
「少し……」
不安になる。
リリーは鏡を見た。
薄金色の髪はきつくまとめ、侍女用の頭布の中へ押し込んである。
王族の証である金色の瞳は、薄く色のついた丸い眼鏡の奥。
もちろん、色そのものが消えるわけではない。
でも、ないよりはましだ。
服は、あの保管室から持ってきた古い侍女服。
裾はどうにか直した。
正確には、マーサに教わりながら、何度も縫い直した。
紺色のワンピースに白いエプロン。
装飾品は一つもない。
いつも身につけている母のペンダントも、今日は服の下へ隠した。
鏡の中には、皇女リリーではなく、どこかの少し身なりのいい侍女が立っている。
「……いける気がする」
「その自信が一番怖いんですが」
「マーサ」
「はい」
「もう少し励まして」
「今からでもやめられますよ」
「それは励ましじゃない」
マーサは鼻を鳴らした。
「では、最後に確認です」
「はい」
マーサが指を一本立てる。
「まず、正体を知られないこと」
「はい」
「皇族には近づかない。特に、ナージュ様とルーシュ様です」
リリーの背筋が、ほんの少しだけぴんと伸びた。
「伸びました」
「……ごめんなさい」
「ナージュ様は正式な招待客ですし、ルーシュ様も本宮の警護に加わると聞いています」
「……うん」
ナージュは、リリーの顔をよく知っている。
ルーシュも、最近では図書館で何度も話している。
眼鏡をかけ、髪を隠した程度で、近くから見られればおそらく気づかれる。
「二人がいる場所には行かない」
「はい」
「見かけたら?」
「離れる」
「目が合ったら?」
「……逃げる」
「それでは怪しいでしょう」
「じゃあどうするの?」
「目を伏せて、自然に人の中へ入る」
「なるほど」
マーサは二本目の指を立てる。
「次に、侍女として振る舞うこと」
「はい」
「廊下の真ん中を歩かない。相手をじろじろ見ない。言葉遣いにも気をつける」
「かしこまりました」
「それはいいです」
「承知いたしました」
「それも」
「ご機嫌麗しゅう――」
「それはいりません」
「……はい」
「それから」
マーサが目を細める。
「エルディア語を流暢に話しすぎないこと」
リリーの顔が曇る。
「え」
「え、ではありません」
「だって、話すために勉強したのに」
「侍女が突然、エルディア語で歴史や交易について語り始めたら、どう思います?」
「……怪しい」
「非常に」
「でも」
「簡単な挨拶程度にしておきなさい」
「……分かった」
ものすごく不満そうだった。
マーサは三本目の指を立てる。
「最後に、余計なことをしないこと」
「はい」
「一人で勝手な場所へ行かない。知らない人についていかない。危険を感じたら、すぐに引き返す」
「はい」
「それから、本宮の西回廊の奥に、使用人用の控え室がありますね」
「……あったっけ」
「あります」
「そうなんだ」
「そこへ戻ってきなさい。何かあれば、私が近くにおります」
リリーは目を瞬いた。
「マーサも本宮に来るの?」
「殿下を一人で放り出すわけにはいかないでしょう」
「……」
「勘違いしないでください。私は今でも反対していますからね」
リリーは少し笑った。
「うん。分かってる」
「本当に?」
「本当」
マーサは、まだ疑わしそうだった。
「それから、名前です」
「名前?」
「聞かれたとき、何と名乗るつもりです?」
リリーは少し考えた。
「……リリーじゃ駄目?」
マーサは、しばらく無言だった。
「……そこまで考えてなかったんですか」
「だって、急に聞かれると思わなかった」
「名前くらい聞かれます」
「じゃあ……リリ?」
「ほぼ同じです」
「リー?」
「もっと考えなさい」
「じゃあ……リナ」
マーサが少し考える。
「まあ」
「いい?」
「咄嗟に忘れなければ」
「忘れない」
「殿下ですからねえ」
「信用がない」
「ありません」
即答された。
リリーは頬を膨らませた。
けれど、マーサは真面目な顔に戻る。
「今日は、皇女リリーではありません」
「……」
「ただの侍女です」
リリーは小さく息を吸った。
「……うん」
「返事は?」
「はい」
「よろしい」
⸻
交流会は、本宮にある大広間と、隣接する庭園を使って行われる。
午前は工芸品や文化資料の展示。
午後は音楽と歓談。
夜には正式な晩餐会。
リリーが入り込むのは、午前から午後にかけて。
人の出入りが最も多い時間だった。
今回の交流会には、エルディアから多くの客人が訪れている。
そのため、普段よりも大勢の使用人が必要になり、臨時の給仕係も集められていた。
もちろん、警備も厳しくなっている。
本宮の入口には衛兵が立ち、荷物を運ぶ者や使用人たちの出入りを見張っていた。
だから、紛れるなら。
人の流れが途切れない、今しかない。
「では」
マーサが扉を開ける。
「行ってらっしゃいませ」
リリーが一歩踏み出す。
そこで止まる。
振り返った。
「マーサ」
「何です」
「……怖くなってきた」
「でしょうね」
「今さら?」
「今さらです」
「どうしよう」
マーサは少しだけ目を細めた。
「戻りますか?」
リリーは黙る。
怖い。
見つかったら、怒られる。
皇后に知られたら、何をされるかも分からない。
父にも叱責されるだろう。
フロイト家にまで知られるかもしれない。
それでも、頭に浮かぶ。
エルディア。
本で読んだ遠い国。
雪。
海。
港。
星。
銀の鈴。
自分とは違う言葉を話す人々。
そして、もしかしたら。
夢の未来を少しだけ変える、きっかけになるかもしれない国。
リリーは首を振った。
「行く」
「そうですか」
「うん」
「なら」
マーサはリリーの頭布を少しだけ直した。
「もう少し下を向いて」
「はい」
はみ出しかけた髪を中へ押し込む。
「……よし」
手を離す。
それから、小さな声で。
「お気をつけて」
と言った。
リリーは少し笑った。
「うん」
⸻
離宮を出る。
本宮へ近づくにつれて、人が増えていく。
侍女。
侍従。
料理人。
衛兵。
荷物を運ぶ者。
花を運ぶ者。
食器を運ぶ者。
いつもよりずっと慌ただしい。
リリーは、その中を歩いた。
廊下の端。
少し俯いて。
歩幅を小さく。
いつもなら、リリーの姿を見れば、たとえ形だけでも道を空ける者がいる。
今日は、誰も見ない。
侍従が横を通り過ぎる。
大きな花瓶を抱えた使用人が、足早に前を横切る。
前から来た侍女が言った。
「そこ、通りますよ」
「あ、ごめんなさい」
「……」
侍女が一瞬、リリーを見る。
しまった。
「すみません」
慌てて言い直す。
侍女は特に気にせず、そのまま通り過ぎた。
リリーは胸を撫で下ろす。
――言葉遣い。
危ない。
そして、背筋。
気づけば、また伸びている。
少し力を抜く。
目線を下げる。
廊下の端を歩く。
誰も道を空けない。
誰も頭を下げない。
けれど、誰もリリーを避けたりもしない。
ただ、そこにいる一人として扱われる。
それが、少し不思議だった。
皇女として無視されることには慣れている。
でも、それとは少し違う。
皇女リリーだと知られていれば、誰かが気まずそうに目を逸らすこともある。
必要以上に距離を取られることもある。
今日は、そんなことすらない。
誰も、自分が何者なのかを気にしていない。
それが。
少しだけ、気楽だった。
――不思議。
身分を隠したほうが、自由に歩けるなんて。
そう思いかけて、リリーは慌てて首を振った。
今は余計なことを考えている場合ではない。
前には、同じような侍女服を着た女性たちが歩いていた。
大きな盆や布を抱えている。
リリーは、その後ろへさりげなく入った。
本宮の入口には、衛兵が二人立っていた。
その横で、使用人たちの出入りを確認している年配の侍女がいる。
「次! 早くしてください!」
忙しそうだった。
次々と荷物が運び込まれ、給仕係たちが大広間へ向かっている。
リリーの心臓が大きく跳ねた。
――どうしよう。
――止められたら。
前の侍女たちが、次々と通っていく。
リリーも、その後ろに続いた。
すると。
「そこのあなた!」
「!」
心臓が止まりそうになった。
年配の侍女が、こちらを見ている。
「何をしているの!」
「え、あの……」
「早く入りなさい! もう始まってしまいますよ!」
「……!」
リリーは慌てて頭を下げた。
「は、はい!」
「ぼんやりしていないで、先に行った人たちについていって!」
「かしこまりました!」
それ以上、何も聞かれなかった。
リリーは小さく息を吐き、ほかの侍女たちの後ろへ続いた。
――通れた。
本当に。
通れた。
でも、喜んでいる場合ではない。
すぐ前を歩いていた侍女が振り返る。
「あなた、初めて?」
「……え?」
「今日の給仕」
「あ、はい」
「そう。じゃあ、向こうの控えで指示を聞いて。勝手に動くと怒られるから」
「……ありがとうございます」
侍女は軽く頷き、また前を向いた。
リリーも慌ててついていく。
――仕事。
そうだった。
侍女として入ったのだから、当然仕事がある。
そこまで考えていなかった。
リリーは少しだけ青くなった。
けれど、今さら引き返すわけにもいかない。
大広間の入口が見えてきた。
開かれた扉。
その向こうには、いつもと違う装飾が施されている。
青と銀。
エルディア王家を思わせる、星の意匠。
リリーの胸が大きく跳ねた。
――本当に。
来ている。
本の中でしか知らなかった国の人たちが。
すぐ、そこにいる。
思わず顔を上げそうになった。
けれど、すぐにマーサの声を思い出す。
――目を合わせない。
――人に紛れる。
――皇族の近くには行かない。
――危険を感じたら、すぐに戻る。
そして、一番大事なこと。
――今日は皇女リリーではありません。
リリーは小さく息を吸った。
私は、ただの侍女。
リナ。
そう、心の中で何度も唱えながら。
エルディアの人々が待つ大広間へ。
そっと、足を踏み入れた。




