20話
「……あれ?」
リリーは、思わず足を止めた。
空になったグラスを下げ、次の仕事を頼まれたところだった。
ふと、大広間の壁際を見る。
大きな柱の陰。
そこには、まだ。
先ほどの少年がいた。
壁にもたれ、目を閉じている。
誰かが付き添っている様子もない。
顔色は、相変わらず悪かった。
「……大丈夫かな」
リリーは小さく呟いた。
近くの侍女には、具合の悪い客人がいることを伝えた。
きっと、責任者にも話が届いているはずだ。
だから、自分が気にする必要はない。
ない、はずなのだけれど。
「……」
少年が、わずかに身体を揺らした。
リリーは眉を寄せる。
――やっぱり、心配。
ちょうど近くの卓に、水の入ったグラスが並んでいた。
リリーは一つ手に取ると、給仕をまとめている侍女に声をかけた。
「すみません。先ほどの具合の悪いお客様に、お水をお持ちしてもよろしいでしょうか」
「ああ、あの方ね。まだいらっしゃるの?」
「はい」
「付き添いの方を探しているそうだけど……。そうね、お願いできる?」
「はい!」
リリーは小さく頭を下げた。
それから、グラスを持って少年のもとへ向かった。
⸻
「失礼いたします」
小さく声をかける。
少年が、ゆっくり目を開けた。
「……あ」
リリーを見る。
「また来た」
「はい」
「……リナ、だっけ」
「!」
覚えていた。
リリーは、少し驚いた。
「はい。リナです」
少年は、わずかに首を傾げた。
「仕事は?」
「しています」
「……今も?」
「これも仕事です」
リリーは、手に持っていたグラスを少し持ち上げた。
「お水をお持ちしました」
少年が、目を瞬く。
「……いらないって言ったのに」
「はい」
「聞いてなかった?」
「聞いていました」
「じゃあ、どうして」
リリーは、少し考えた。
「……まだ、具合が悪そうだったので」
「……」
「必要なければ、飲まなくても大丈夫です」
少年は、しばらくグラスを見ていた。
それから、小さく息を吐いた。
「……少しだけ、もらう」
「はい」
リリーは、ほっとしてグラスを差し出した。
「ありがとう」
エルディア語だった。
今度は、リリーも自然に。
「どういたしまして」
と返した。
先ほどより、緊張しなかった。
通じる。
話せる。
そのことが、やっぱり嬉しかった。
少年は、ゆっくりと水を飲む。
一気に飲むのではなく、少しずつ。
リリーは、その様子を見ながら周囲を確認した。
幸い、こちらに注目している者はいない。
でも、あまり長くここにいるのはよくない。
そもそも、自分は給仕の途中だった。
「少しは楽になりました?」
「……分からない」
「分からない?」
「さっきよりは、まし」
「そうですか」
少し安心する。
けれど、少年はまだ壁にもたれていた。
周囲では、音楽が流れている。
笑い声。
話し声。
食器の触れ合う音。
リリーは、ふと少年を見た。
「……ここ、騒がしいですよね」
少年が、ゆっくり顔を上げる。
「うん」
「静かなところのほうが、楽ではありませんか?」
「……そうかも」
先ほどは移動を嫌がっていたけれど、今は少し考えているようだった。
リリーも考える。
この近くで、人の少ないところ。
「あ」
思い出す。
大広間の側面には、庭園へ続く回廊がある。
交流会の中心は、反対側の中庭。
あちらなら、少し人が少ない。
「もし歩けるなら」
少年を見る。
「少しだけ、こちらへ」
「どこ?」
「風の当たるところです」
少年は、少し迷ったあと、壁から身体を離した。
その瞬間。
ぐらり。
「危ない!」
リリーは反射的に、少年の腕を支えた。
「……」
「……」
二人とも、一瞬止まる。
リリーは、すぐに手を離した。
「すみません」
「どうして謝るの」
「え?」
「助けてもらったのに」
「……それもそうですね」
少年が、少しだけ不思議そうな顔をした。
リリーは、もう一度少年の顔を見た。
「歩けそうですか?」
「……うん」
「無理はしないでくださいね」
「分かってる」
本当だろうか。
少し疑わしかった。
けれど、少年は今度こそ、自分の足で立った。
リリーは、先に歩き始める。
「ゆっくりで大丈夫です」
「うん」
「こちらです」
少年を連れて、人の流れから外れる。
大広間を出て、庭園に面した回廊へ。
一歩、外へ近づくだけで、空気が変わった。
開け放たれた窓から、風が入る。
春の、少し冷たい風。
少年が、深く息を吸った。
「……ああ」
その声が、先ほどより明らかに楽そうだった。
リリーも、ほっとする。
「ここなら大丈夫そうですか?」
「うん」
「よかった」
少年は窓辺に立ち、しばらく外を見ていた。
顔色も、少しずつ戻ってくる。
「……ありがとう」
今度は、アルデェリア語だった。
リリーが目を丸くする。
「話せるんですね」
「少し」
「お上手です」
「あなたのエルディア語ほどじゃない」
「私も少しだけです」
「嘘」
即答。
「嘘じゃありません」
「普通の侍女は、あんな発音しない」
リリーの心臓が、どくんと鳴った。
「……そうですか?」
「北西部の発音まで混じってた」
「!」
そこまで分かるの?
リリーは、少し焦った。
確かに。
図書館で借りた本には、エルディアの地方ごとの言葉の違いも載っていた。
面白くて、何度も練習した覚えがある。
でも。
それが、そんなに珍しいことだったなんて。
まずい。
これ以上話すと、余計なことまで聞かれる。
マーサに、言われたばかりだ。
――目立たないこと。
――深入りしないこと。
この少年が、誰なのかも分からない。
衣装を見る限り、身分はかなり高い。
なら、なおさら。
「では」
リリーは、一歩下がった。
「少しお休みになれば、楽になると思います」
少年が、こちらを見る。
「行くの?」
「仕事がありますので」
「……そっか」
少年は、少し残念そうに見えた。
気のせいだろうか。
「リナ」
「はい?」
「僕は――」
「あ」
リリーは、思わず遮った。
少年が、目を瞬く。
「……何?」
「すみません」
「……」
「お名前は」
一瞬、迷う。
聞きたい。
ものすごく。
エルディアの、同い年くらいの少年。
もしかしたら、文化交流団の中でも身分の高い人。
知りたい。
でも、聞いたら。
また、話したくなる。
それに。
もし、相手が本当に身分の高い人だったら。
自分の正体が知られたとき、もっと面倒になるかもしれない。
だから。
「また機会があれば」
リリーは、少し笑った。
「そのときに」
少年が、目を丸くする。
そして。
「変なの」
また言われた。
「二回目です」
「そうだった?」
「そうです」
「じゃあ、やっぱり変なんだ」
「失礼ですね」
少年が、少し笑った。
先ほどまで青い顔をしていた人とは思えない。
よかった。
もう、大丈夫そうだ。
リリーは、小さく頭を下げる。
「では、失礼いたします」
今度こそ、離れようとした。
一歩。
二歩。
このまま、大広間へ戻る。
そして、人の中へ紛れる。
誰にも気づかれず。
何事もなく。
今日を終える。
――はずだった。
⸻
回廊の角を曲がった瞬間。
「……っ」
誰かと、ぶつかりそうになった。
慌てて足を止める。
「申し訳――」
言いかけて。
リリーは、固まった。
目の前。
黒を基調とした、フロイト家の正装。
見覚えのある胸元の紋章。
そして。
見上げなくても、分かった。
「……」
血の気が、さあっと引いていく。
ナージュ。
どうして、ここに。
いや。
いる。
当然いる。
フロイト家は、今回の交流会に関わっている。
分かっていた。
だから、絶対に近づかないつもりだったのに。
よりにもよって。
こんな、人の少ない回廊で。
ナージュと、二人。
「……すみません」
リリーは、すぐに顔を伏せた。
目を見ない。
金色の瞳を見せない。
マーサ。
今、ものすごく、あなたの言葉を思い出しています。
――目を合わせない。
――皇族の近くには行かない。
――ナージュ様とルーシュ様には近づかない。
全部、守れていない。
「……」
ナージュは、何も言わなかった。
リリーの心臓が、ものすごい勢いで鳴っている。
聞こえるのではないか。
そう思うほど。
「失礼いたします」
できるだけ、侍女らしく。
少し頭を下げ、横を通り抜ける。
大丈夫。
髪は隠している。
眼鏡もある。
顔も、普段とは少し違う。
それに。
ナージュは、侍女の顔なんて、一人一人見ない。
行ける。
そう思った。
横を通り過ぎる。
一歩。
二歩。
三歩。
――行けた。
胸を撫で下ろしかけた。
そのとき。
「待ってください」
足が、止まった。
嫌だ。
ものすごく、嫌だ。
リリーは、ゆっくり振り返る。
もちろん、顔は上げない。
「……何でしょうか」
侍女らしく。
丁寧に。
なるべく、いつもの自分とは違う声で。
ナージュが、こちらを見ている。
「あなた」
「……はい」
少し、間。
「どこの所属ですか」
来た。
まずい。
ものすごく、まずい。
「本日は臨時で……」
「臨時」
「はい」
「名前は?」
「……リナです」
「リナ」
ナージュが、その名前を繰り返す。
リリーは、ぎゅっとエプロンの端を握った。
早く、行かせて。
お願いだから、顔を見ないで。
「何か?」
恐る恐る聞く。
ナージュは、少し黙った。
何だろう。
何か、引っかかっているような顔。
相変わらず、ほとんど表情には出ない。
でも、リリーには分かる。
考えている。
すごく、考えている。
「……いえ」
やがて、ナージュは言った。
「どこかで会ったことがありますか」
リリーの心臓が、止まりかけた。
「……ありません」
即答。
少し、早すぎた。
ナージュの目が、細くなる。
「そうですか」
「はい」
「……」
「……」
沈黙。
逃げたい。
今すぐ。
「では」
リリーは、もう一度頭を下げた。
「仕事がありますので」
「待ってください」
また。
「……何でしょう」
ナージュの視線が、リリーの顔へ。
眼鏡。
頭布。
そして、伏せられた瞳。
「顔を」
リリーの背筋が、凍った。
「……はい?」
「顔を上げてください」
終わった。
リリーは、心の底から、そう思った。




