↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
20/20

20話

「……あれ?」


リリーは、思わず足を止めた。


空になったグラスを下げ、次の仕事を頼まれたところだった。


ふと、大広間の壁際を見る。


大きな柱の陰。


そこには、まだ。


先ほどの少年がいた。


壁にもたれ、目を閉じている。


誰かが付き添っている様子もない。


顔色は、相変わらず悪かった。


「……大丈夫かな」


リリーは小さく呟いた。


近くの侍女には、具合の悪い客人がいることを伝えた。


きっと、責任者にも話が届いているはずだ。


だから、自分が気にする必要はない。


ない、はずなのだけれど。


「……」


少年が、わずかに身体を揺らした。


リリーは眉を寄せる。


――やっぱり、心配。


ちょうど近くの卓に、水の入ったグラスが並んでいた。


リリーは一つ手に取ると、給仕をまとめている侍女に声をかけた。


「すみません。先ほどの具合の悪いお客様に、お水をお持ちしてもよろしいでしょうか」


「ああ、あの方ね。まだいらっしゃるの?」


「はい」


「付き添いの方を探しているそうだけど……。そうね、お願いできる?」


「はい!」


リリーは小さく頭を下げた。


それから、グラスを持って少年のもとへ向かった。


⸻


「失礼いたします」


小さく声をかける。


少年が、ゆっくり目を開けた。


「……あ」


リリーを見る。


「また来た」


「はい」


「……リナ、だっけ」


「!」


覚えていた。


リリーは、少し驚いた。


「はい。リナです」


少年は、わずかに首を傾げた。


「仕事は?」


「しています」


「……今も?」


「これも仕事です」


リリーは、手に持っていたグラスを少し持ち上げた。


「お水をお持ちしました」


少年が、目を瞬く。


「……いらないって言ったのに」


「はい」


「聞いてなかった?」


「聞いていました」


「じゃあ、どうして」


リリーは、少し考えた。


「……まだ、具合が悪そうだったので」


「……」


「必要なければ、飲まなくても大丈夫です」


少年は、しばらくグラスを見ていた。


それから、小さく息を吐いた。


「……少しだけ、もらう」


「はい」


リリーは、ほっとしてグラスを差し出した。


「ありがとう」


エルディア語だった。


今度は、リリーも自然に。


「どういたしまして」


と返した。


先ほどより、緊張しなかった。


通じる。


話せる。


そのことが、やっぱり嬉しかった。


少年は、ゆっくりと水を飲む。


一気に飲むのではなく、少しずつ。


リリーは、その様子を見ながら周囲を確認した。


幸い、こちらに注目している者はいない。


でも、あまり長くここにいるのはよくない。


そもそも、自分は給仕の途中だった。


「少しは楽になりました?」


「……分からない」


「分からない?」


「さっきよりは、まし」


「そうですか」


少し安心する。


けれど、少年はまだ壁にもたれていた。


周囲では、音楽が流れている。


笑い声。


話し声。


食器の触れ合う音。


リリーは、ふと少年を見た。


「……ここ、騒がしいですよね」


少年が、ゆっくり顔を上げる。


「うん」


「静かなところのほうが、楽ではありませんか?」


「……そうかも」


先ほどは移動を嫌がっていたけれど、今は少し考えているようだった。


リリーも考える。


この近くで、人の少ないところ。


「あ」


思い出す。


大広間の側面には、庭園へ続く回廊がある。


交流会の中心は、反対側の中庭。


あちらなら、少し人が少ない。


「もし歩けるなら」


少年を見る。


「少しだけ、こちらへ」


「どこ?」


「風の当たるところです」


少年は、少し迷ったあと、壁から身体を離した。


その瞬間。


ぐらり。


「危ない!」


リリーは反射的に、少年の腕を支えた。


「……」


「……」


二人とも、一瞬止まる。


リリーは、すぐに手を離した。


「すみません」


「どうして謝るの」


「え?」


「助けてもらったのに」


「……それもそうですね」


少年が、少しだけ不思議そうな顔をした。


リリーは、もう一度少年の顔を見た。


「歩けそうですか?」


「……うん」


「無理はしないでくださいね」


「分かってる」


本当だろうか。


少し疑わしかった。


けれど、少年は今度こそ、自分の足で立った。


リリーは、先に歩き始める。


「ゆっくりで大丈夫です」


「うん」


「こちらです」


少年を連れて、人の流れから外れる。


大広間を出て、庭園に面した回廊へ。


一歩、外へ近づくだけで、空気が変わった。


開け放たれた窓から、風が入る。


春の、少し冷たい風。


少年が、深く息を吸った。


「……ああ」


その声が、先ほどより明らかに楽そうだった。


リリーも、ほっとする。


「ここなら大丈夫そうですか?」


「うん」


「よかった」


少年は窓辺に立ち、しばらく外を見ていた。


顔色も、少しずつ戻ってくる。


「……ありがとう」


今度は、アルデェリア語だった。


リリーが目を丸くする。


「話せるんですね」


「少し」


「お上手です」


「あなたのエルディア語ほどじゃない」


「私も少しだけです」


「嘘」


即答。


「嘘じゃありません」


「普通の侍女は、あんな発音しない」


リリーの心臓が、どくんと鳴った。


「……そうですか?」


「北西部の発音まで混じってた」


「!」


そこまで分かるの?


リリーは、少し焦った。


確かに。


図書館で借りた本には、エルディアの地方ごとの言葉の違いも載っていた。


面白くて、何度も練習した覚えがある。


でも。


それが、そんなに珍しいことだったなんて。


まずい。


これ以上話すと、余計なことまで聞かれる。


マーサに、言われたばかりだ。


――目立たないこと。


――深入りしないこと。


この少年が、誰なのかも分からない。


衣装を見る限り、身分はかなり高い。


なら、なおさら。


「では」


リリーは、一歩下がった。


「少しお休みになれば、楽になると思います」


少年が、こちらを見る。


「行くの?」


「仕事がありますので」


「……そっか」


少年は、少し残念そうに見えた。


気のせいだろうか。


「リナ」


「はい?」


「僕は――」


「あ」


リリーは、思わず遮った。


少年が、目を瞬く。


「……何?」


「すみません」


「……」


「お名前は」


一瞬、迷う。


聞きたい。


ものすごく。


エルディアの、同い年くらいの少年。


もしかしたら、文化交流団の中でも身分の高い人。


知りたい。


でも、聞いたら。


また、話したくなる。


それに。


もし、相手が本当に身分の高い人だったら。


自分の正体が知られたとき、もっと面倒になるかもしれない。


だから。


「また機会があれば」


リリーは、少し笑った。


「そのときに」


少年が、目を丸くする。


そして。


「変なの」


また言われた。


「二回目です」


「そうだった?」


「そうです」


「じゃあ、やっぱり変なんだ」


「失礼ですね」


少年が、少し笑った。


先ほどまで青い顔をしていた人とは思えない。


よかった。


もう、大丈夫そうだ。


リリーは、小さく頭を下げる。


「では、失礼いたします」


今度こそ、離れようとした。


一歩。


二歩。


このまま、大広間へ戻る。


そして、人の中へ紛れる。


誰にも気づかれず。


何事もなく。


今日を終える。


――はずだった。


⸻


回廊の角を曲がった瞬間。


「……っ」


誰かと、ぶつかりそうになった。


慌てて足を止める。


「申し訳――」


言いかけて。


リリーは、固まった。


目の前。


黒を基調とした、フロイト家の正装。


見覚えのある胸元の紋章。


そして。


見上げなくても、分かった。


「……」


血の気が、さあっと引いていく。


ナージュ。


どうして、ここに。


いや。


いる。


当然いる。


フロイト家は、今回の交流会に関わっている。


分かっていた。


だから、絶対に近づかないつもりだったのに。


よりにもよって。


こんな、人の少ない回廊で。


ナージュと、二人。


「……すみません」


リリーは、すぐに顔を伏せた。


目を見ない。


金色の瞳を見せない。


マーサ。


今、ものすごく、あなたの言葉を思い出しています。


――目を合わせない。


――皇族の近くには行かない。


――ナージュ様とルーシュ様には近づかない。


全部、守れていない。


「……」


ナージュは、何も言わなかった。


リリーの心臓が、ものすごい勢いで鳴っている。


聞こえるのではないか。


そう思うほど。


「失礼いたします」


できるだけ、侍女らしく。


少し頭を下げ、横を通り抜ける。


大丈夫。


髪は隠している。


眼鏡もある。


顔も、普段とは少し違う。


それに。


ナージュは、侍女の顔なんて、一人一人見ない。


行ける。


そう思った。


横を通り過ぎる。


一歩。


二歩。


三歩。


――行けた。


胸を撫で下ろしかけた。


そのとき。


「待ってください」


足が、止まった。


嫌だ。


ものすごく、嫌だ。


リリーは、ゆっくり振り返る。


もちろん、顔は上げない。


「……何でしょうか」


侍女らしく。


丁寧に。


なるべく、いつもの自分とは違う声で。


ナージュが、こちらを見ている。


「あなた」


「……はい」


少し、間。


「どこの所属ですか」


来た。


まずい。


ものすごく、まずい。


「本日は臨時で……」


「臨時」


「はい」


「名前は?」


「……リナです」


「リナ」


ナージュが、その名前を繰り返す。


リリーは、ぎゅっとエプロンの端を握った。


早く、行かせて。


お願いだから、顔を見ないで。


「何か?」


恐る恐る聞く。


ナージュは、少し黙った。


何だろう。


何か、引っかかっているような顔。


相変わらず、ほとんど表情には出ない。


でも、リリーには分かる。


考えている。


すごく、考えている。


「……いえ」


やがて、ナージュは言った。


「どこかで会ったことがありますか」


リリーの心臓が、止まりかけた。


「……ありません」


即答。


少し、早すぎた。


ナージュの目が、細くなる。


「そうですか」


「はい」


「……」


「……」


沈黙。


逃げたい。


今すぐ。


「では」


リリーは、もう一度頭を下げた。


「仕事がありますので」


「待ってください」


また。


「……何でしょう」


ナージュの視線が、リリーの顔へ。


眼鏡。


頭布。


そして、伏せられた瞳。


「顔を」


リリーの背筋が、凍った。


「……はい?」


「顔を上げてください」


終わった。


リリーは、心の底から、そう思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。