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15話

マーサは当然反対した。


「駄目です」


「でも」


「駄目です」


「まだ何も――」


「侍女の格好をして外交行事に潜り込もうとしている時点で、十分です」


「……はい」


「皇女が何を考えているんです」


「すみません」


「ばれたらどうするつもりです」


「……走る?」


「捕まります」


「ですよね」


リリーは小さくなった。


それでも、諦めきれなかった。


エルディアの文化交流団が来るまで、あと数日。


相変わらず、リリーのもとには何の知らせも届いていない。


本宮では、晩餐会、文化交流の催し、音楽会、工芸品の展示など、いくつもの行事が予定されているらしい。


セリーヌをはじめ、皇族の子どもたちも参加する。


リリーだけが呼ばれていない。


予想していたことだった。


だから悲しいというより、やっぱり、という気持ちのほうが強かった。


「……マーサ」


「何です」


「やっぱり駄目?」


「何度聞いても答えは同じです」


「そう」


リリーはそれ以上言わなかった。


エルディア語の本を開く。


でも、なかなか頭に入らない。


実際に使えるかもしれないと、あれほど楽しみにしていた言葉。


今はただ、紙の上に並んでいる。


マーサは何も言わず、その様子を見ていた。


リリーはしばらく本を眺めていたが、やがて小さく呟いた。


「……一度でいいから、話してみたかったな」


マーサの手が止まる。


「エルディアの人と?」


「うん」


リリーは本のページをそっと撫でた。


「本で覚えた言葉が、本当に通じるのか知りたかったの」


「……」


「それに、エルディアのことも、直接聞いてみたかった」


少し笑う。


「でも、仕方ないよね」


マーサは何も答えなかった。


リリーが本を閉じる。


その音が、静かな部屋に小さく響いた。


しばらくして。


マーサは深いため息をつき、立ち上がった。


「……まったく」


「?」


「殿下は昔から、妙なところで諦めが悪い」


「……そう?」


「そうです」


マーサはリリーを見た。


「本宮の者たちに、顔を覚えられているわけではありませんね?」


「え?」


「普段、殿下が本宮へ行かれることはほとんどないでしょう」


「……うん」


「給仕の者たちとも?」


「ほとんど話したことないと思う」


「ほとんど、では困ります」


「……はい」


マーサは眉間に皺を寄せた。


「もし仮に、ですよ」


「うん」


「仮に、殿下とよく似た者が本宮へ入り込んだとして」


「……うん」


「誰かに怪しまれたら、すぐに引き返すことです」


リリーが目を瞬く。


「マーサ?」


「それから、一人で勝手な場所へ行かないこと。人目のないところへ入り込むなど、もってのほかです」


「……」


「知らない者についていかない。騒ぎが起きたら、何も見ようとせず、すぐに戻る」


「……マーサ」


「返事は?」


「はい!」


マーサは、さらに深いため息をついた。


「……どうしてこう、面倒なことばかり思いつくんでしょうね」


そう言って、机の上の書類をまとめ始める。


「……そういえば」


「?」


「衣装庫の整理をしなくてはいけませんね」


「衣装庫?」


「ええ」


マーサは何でもない顔で言った。


「西棟の裏に、小さな保管室があるでしょう」


「……あったっけ」


「ありますよ」


「知らない」


「殿下が使用人用の場所なんて見る必要ありませんからね」


マーサは書類を揃えながら続ける。


「古くなった侍女服なんかが、まとめて置いてあります」


リリーの手がぴたりと止まった。


「……侍女服?」


「ええ」


マーサはリリーを見ない。


「新しい制服に切り替えたときの古いものとか」


「……」


「退職した者が置いていったものとか」


「……」


「処分前のものが、まだ残っていたはずです」


リリーはじっとマーサを見る。


マーサは何でもない顔で、棚の埃を払っている。


「マーサ」


「何です」


「それって」


「はい」


「私に教えてる?」


「何をです?」


「侍女服がある場所」


マーサがゆっくり振り返る。


「私はただ」


真顔だった。


「保管室の話をしただけですが」


「今?」


「今です」


「このタイミングで?」


「偶然ですね」


絶対、偶然ではない。


「……行ってもいい?」


「何をしに?」


「保管室」


「さあ」


マーサは肩をすくめる。


「鍵は壊れていますから、誰でも入れるんじゃないですか」


「…………」


リリーの目が少しずつ大きくなる。


「マーサ」


「私は何も言ってませんよ」


「まだ何も言ってない」


「言いそうな顔をしています」


リリーは思わず笑った。


「……ありがとう」


「何のお礼です?」


すっとぼけた。


完璧に。


でも、マーサは最後にもう一度だけ、リリーを見た。


「……殿下」


「はい」


「約束は、守っていただきますからね」


その声は、いつもの小言よりもずっと真剣だった。


リリーも笑うのをやめる。


「……うん。約束する」


マーサは小さく頷いた。


「なら、結構です」


⸻


その日の午後。


リリーは西棟の裏へ向かった。


もちろん、こっそり。


あまり人が来ない場所だった。


本宮から離れ、古い物置や使われなくなった備品が置かれている。


教えられた通り、小さな扉があった。


取っ手を引く。


「あ」


開いた。


本当に鍵が壊れている。


中は少し埃っぽかった。


古いカーテン。


使わなくなった食器。


欠けた花瓶。


木箱。


そして、奥に。


布の山。


リリーはそっと近づいた。


侍女服だった。


何着も。


今の制服とは少し形が違う。


けれど、臨時に雇われる使用人なら、十分おかしくない程度のもの。


「……本当にある」


思わず声が出た。


一着、手に取る。


少し大きい。


次。


これも。


三着目。


「……これ」


肩を合わせる。


少し丈を詰めれば、着られそうだった。


紺色のワンピース。


白いエプロン。


飾り気はない。


鏡もないのに、リリーは身体の前に合わせてみた。


皇女の服とは、全く違う。


これを着れば。


自分は、リリー皇女ではなく。


ただの、名前も知られない侍女に見えるのだろうか。


胸がどきどきした。


悪いことをしている。


分かっている。


なのに、少しだけわくわくもしていた。


「……借りるだけ」


誰に言うでもなく呟く。


「終わったら戻す」


言い訳だ。


自分でも分かっている。


それでも、侍女服を布に包んだ。


そのとき。


「何してるんですか」


背後から声。


「ひっ!」


リリーは飛び上がった。


振り返る。


マーサ。


腕を組んで立っている。


「マーサ!」


「何でしょう」


「びっくりした!」


「それは結構」


「何でいるの?」


「古い布を取りに」


「本当に?」


「本当に」


怪しい。


ものすごく。


マーサの目が、リリーの手元へ落ちる。


布に包まれた侍女服。


沈黙。


「……」


「……」


リリーは少しずつ、それを後ろへ隠した。


「これは」


「聞いてません」


「でも」


「何も見てません」


「マーサ」


「私は古い布を取りに来ただけです」


そう言って、別の棚へ向かう。


そして、何でもないように。


「その服」


「!」


「……は」


一度、咳払い。


「古い型ですので」


「うん」


「今の本宮の侍女服とは、襟が少し違います」


リリーが瞬きをする。


「それじゃ、ばれる?」


「さあ」


マーサは相変わらずこちらを見ない。


「文化交流の日は、臨時の給仕も多いでしょうから」


「……」


「普段の侍女たちと少し服が違っても、すぐには怪しまれないかもしれませんね」


「……マーサ」


「独り言です」


「……」


それ、私に聞かせる独り言だ。


マーサは棚から布を一枚取る。


さらに。


「髪も」


「?」


「殿下は髪が目立ちます」


リリーが自分の髪へ触れる。


淡い金色の髪。


皇族には珍しくない色でも、使用人の中では目を引くかもしれない。


「きっちりまとめたほうがいいでしょうね」


「……」


「それから、顔を隠すことばかり考えても仕方ありません」


「顔?」


「侍女は、必要もないのに皇族の顔をじろじろ見ません」


「……」


「目を合わせすぎない。話しかけられたら、必要なことだけ答える」


「……うん」


「何より、目立つ行動をしないことです」


リリーは真剣に頷いた。


マーサはちらりと、その顔を見る。


「……本当に分かっているんでしょうね」


「分かってる!」


「返事だけは立派ですね」


「もう!」


マーサはふん、と鼻を鳴らした。


「それから」


「まだあるの?」


「背筋を伸ばしすぎないこと」


「……」


「歩くときも、皇女殿下みたいに堂々と真ん中を歩かないことですね」


リリーはしばらく黙っていた。


それから、小さく笑った。


「マーサ」


「はい」


「やっぱり助けてくれてるでしょう」


「いいえ」


「絶対」


「いいえ」


「……ありがとう」


マーサがようやくリリーを見る。


眉間に皺。


「私は、殿下が何かしでかしたときのことを心配しているだけです」


「うん」


「勘違いしないでください」


「うん!」


「……返事が軽い」


けれど、その声はいつもより少しだけ弱かった。


⸻


その夜。


リリーは自室で、こっそり侍女服を広げた。


やっぱり少し大きい。


裾を少しだけ縫う。


針仕事は得意ではない。


何度か指を刺した。


「いたっ」


小さく声を上げる。


それでも続けた。


糸が絡まったり。


縫い目が曲がったり。


思っていたより、ずっと難しい。


いつもなら、マーサや侍女たちが当たり前のように直してくれることだった。


けれど、今回は自分でやりたかった。


自分が勝手に決めたことだから。


ようやく、着られるくらいになった。


鏡の前に立つ。


紺色の服。


白いエプロン。


髪を低い位置でまとめる。


いつもの皇女リリーとは、ずいぶん違う。


「……侍女に見える?」


鏡の中の自分へ聞く。


当然、返事はない。


リリーは少し首を傾げた。


それから、背筋を伸ばす。


……違う。


マーサに言われたことを思い出し、慌てて肩の力を抜いた。


少し俯いてみる。


「……こう?」


鏡の中の少女も、同じように俯く。


なんだか、おかしかった。


思わず笑ってしまう。


「……頑張ろう」


小さく呟いた。


⸻


翌朝。


マーサが部屋へ入ってきた。


リリーは慌てて侍女服を畳もうとしたが、間に合わなかった。


マーサの目が、椅子に置かれた服へ向く。


「……その裾は」


「……」


「殿下が?」


「うん」


マーサは服を手に取った。


縫い目を見る。


「……」


「そんな顔しないで」


「何も言っておりません」


「顔が言ってる!」


「……随分と個性的な縫い目ですこと」


「マーサ!」


「糸が絡まっておりますよ」


「頑張ったの!」


「それは見れば分かります」


マーサは、もう一度裾を見る。


そして、小さくため息をついた。


「……歩いている途中で解けたら、どうするおつもりです」


「……困る」


「でしょうね」


マーサは服を畳み直した。


「後で裁縫道具を持ってきなさい」


「……え?」


「縫い目の始末くらい、教えて差し上げます」


リリーの顔がぱっと明るくなる。


「マーサ!」


「ただし、縫うのは殿下ご自身です」


「うん!」


「まったく……」


マーサは呆れたように首を振った。


それから、椅子の上に小さな箱を置いた。


「これ何?」


「古い化粧道具です」


「……」


「もう使わないものです」


「……」


「処分してください」


リリーは箱を開ける。


中には、髪の色を少し暗く見せる粉。


肌の色を少しくすませる化粧。


目元の印象を抑えるための道具。


どう見ても、変装に使える。


リリーはゆっくりマーサを見る。


「マーサ」


「何です」


「これ、すごいちょうどいい」


「偶然ですね」


「……」


「……」


リリーは箱の中をもう一度見た。


それから、そっと蓋を閉じる。


「……ありがとう」


マーサは答えなかった。


ただ、リリーの手元をちらりと見て。


「……使い方を間違えないように」


とだけ言った。


「うん」


「それから」


「?」


「殿下」


マーサは真っ直ぐリリーを見る。


「もし、少しでも危ないと思ったら」


「……」


「必ず戻ってくるんですよ」


その声は、静かだった。


リリーも、真剣に頷いた。


「……約束する」


マーサはしばらくリリーを見つめていた。


それから、ふん、と鼻を鳴らす。


「では、私は仕事に戻ります」


「うん」


マーサが扉へ向かう。


リリーは、その背中を見送った。


そして。


「マーサ」


「……何です」


「本当に、ありがとう」


マーサは振り返らなかった。


「……まったく」


小さな声。


「誰に似たんでしょうね」


そう呟いて、部屋を出ていった。


リリーは、しばらく閉じた扉を見つめていた。


それから、小さく笑う。


少しだけ、怖さが減った。


もちろん、ばれたら大変なことになる。


マーサにも迷惑をかけてしまうかもしれない。


それは分かっている。


だからこそ、絶対に約束を守ろうと思った。


文化交流団が来るまで、あと三日。


リリーのとんでもない侍女作戦は、少しずつ、本当に実行できそうな形になっていた。

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