13話
ルーシュがその話を聞いたのは、父の執務室の前だった。
正確には、聞こうとして聞いたわけではない。
フロイト家が、近々王宮を訪れる外国使節団の護衛配置に加え、歓迎の宴をはじめとする催しの取り仕切りも任される。
その説明を父と家臣がしていた。
「エルディアからの文化交流団は、予定通り来月初旬に到着する」
その言葉に、ルーシュの足が止まった。
――エルディア。
最近。
嫌というほど聞いている国名だった。
『エルディアでは、旅立つ人に銀の鈴を渡すんです』
『エルディアの北部では発音が少し違うんですよ』
『海運がとても発達していて――』
『雪解けの祭りが――』
頭の中に勝手に一人の顔が浮かぶ。
本を抱えて楽しそうに話す。
リリー。
「……」
ルーシュは少し考えた。
これは教えたら、かなり喜ぶのではないだろうか。
たぶん、目を丸くする。
それから。
『本当に!?』
と聞く。
いや、皇女だから一応は丁寧に。
『本当ですか!?』
かもしれない。
そのあと絶対に質問が止まらなくなる。
誰が来るのか。
何人なのか。
どんな催しがあるのか。
一般の参加はできるのか。
王族は来るのか。
うるさそうだ。
でも、面白そうだった。
⸻
翌日。
ルーシュは、いつものように図書館へ向かった。
「また来たんですか」
机いっぱいに本を広げていたリリーが、顔を上げる。
「またとは失礼ですね」
「三日連続です」
「数えてるんですか」
「来るたび邪魔されますから」
「じゃあ帰りましょうか」
「どうぞ」
「……」
「……」
ルーシュが一歩、本当に扉のほうへ向く。
「……何か用があったんじゃないんですか」
すぐに声が飛んできた。
ルーシュが振り返る。
リリーは、何でもない顔で本を読んでいる。
「帰っていいんでしょう?」
「いいですよ」
「じゃあ」
「でも」
ちら。
「わざわざ来たなら、聞くだけ聞きます」
ルーシュは、笑いそうになった。
「気になるんですね」
「別に」
「顔に出てますよ」
「出てません」
最近、こういうやり取りにもずいぶん慣れた。
ルーシュは、リリーの向かいへ腰を下ろす。
「喜ぶと思って」
「何がです?」
「情報があります」
リリーが、少しだけ目を細めた。
「……また私をからかうつもりですか」
「失礼ですね」
「前科があります」
「今日は本当です」
「本当に?」
「本当に」
まだ、疑っている。
ルーシュは少し勿体ぶってから、言った。
「来月」
「はい」
「エルディアから文化交流の一団が来ます」
リリーの動きが止まった。
「…………え?」
予想通り。
目が、大きくなる。
「エルディアから?」
「はい」
「この国に?」
「はい」
「王宮へ?」
「そうです」
「本当に?」
「三回聞きます?」
ぱたん。
リリーが、勢いよく本を閉じた。
「本当ですか!?」
ルーシュは、思わず少しだけのけぞった。
予想していたより、ずっと反応が大きい。
「本当です」
「いつ!?」
「来月の初旬」
「誰が来るんです?」
「そこまでは知りません」
「文化交流って、何をするんです?」
「だから知りません」
「エルディアの工芸品も来ますか?」
「知りません」
「音楽は?」
「知りません」
「言葉を話せる人も当然いますよね?」
「それはいるでしょう」
「私、話してみたい!」
声が、完全に弾んでいる。
そして笑った。
ぱあっと。
本当に顔全部で。
「……」
ルーシュは、一瞬何も言えなかった。
教えたら喜ぶとは思った。
たぶん、かなり。
でも、想像したよりずっと可愛い顔で喜んだ。
「……何ですか」
リリーが、不思議そうに見る。
「いや」
ルーシュは少し視線を逸らした。
「思ったより喜ぶなと思って」
「だって!」
リリーは、まだ笑っている。
「本でしか知らなかった人たちが来るんですよ?」
「そうですね」
「実際の発音が聞けるかもしれないし」
「はい」
「文化も、本で読むのと実際に見るのでは全然違うでしょうし」
「はいはい」
「それに――」
ふと、リリーが止まる。
「……でも」
「何です?」
少しだけ、眉を下げた。
「私も参加できるのかな」
ルーシュが、首を傾げる。
「皇女なんだから、できるんじゃないですか」
「……」
リリーは、曖昧に笑った。
自分が他の皇族と同じように扱われていないことを、今は以前よりよく知っている。
式典。
晩餐。
外交行事。
呼ばれないことのほうがずっと多い。
「まあ」
ルーシュは軽く言った。
「皇族なら、知っていてもおかしくないでしょう」
「……知っていても?」
そこで、リリーの顔が急に変わった。
「ちょっと待ってください」
「何です」
「ルーシュ様」
「はい」
「その話」
じっと、ルーシュを見る。
「どこで聞いたんですか?」
「家で」
「家で?」
「父上が交流会について話していました」
「……」
リリーが少し黙る。
そして、声を落とした。
「それ……まだ公表されていない話では?」
ルーシュが、ほんの少し目を逸らした。
「まあ、そうですね」
「そうですね!?」
「でも、皇族ならみんな知ってる――と思いますよ」
「今、一瞬言葉遣い崩れませんでした?」
「気のせいです」
「絶対です」
「そこはどうでもいいでしょう」
「よくないです」
「とにかく」
ルーシュは、涼しい顔で続ける。
「皇女が知っていても、おかしくありません」
「でも私、知らなかったです」
「それは」
一瞬。
言葉に詰まる。
リリーがじっと見る。
「……まあ」
「まあ?」
「殿下が王宮の情報に疎いだけでは?」
「ひどい!」
予想通り怒った。
でも、すぐにまた顔が明るくなる。
「でも、本当に来るんですね」
「来ます」
「エルディアの人が」
「はい」
「……楽しみ」
小さく呟く。
その顔がまた嬉しそうで、ルーシュはなんとなく、自分まで少し気分がよくなった。
「そんなに?」
「そんなにです」
「本ばっかり読んでた甲斐がありましたね」
「本ばっかりって言わないでください」
「実際に会える」
「そうなんです!」
「エルディア語で話しかけるんですか」
「できたら」
「通じなかったら?」
「……」
「どうするんです」
「もう一回言います」
「強い」
「それでも駄目なら」
「はい」
「笑って誤魔化します」
ルーシュが吹き出した。
「一ヶ月以上勉強してそれ?」
「緊張するかもしれないでしょう!」
「殿下、意外と度胸ないですね」
「ルーシュ様は外国の人にいきなり剣術勝負してくださいって言えるんですか」
「言えます」
「……言えそうなのが嫌」
「何ですそれ」
二人の笑い声が小さく図書館に響く。
⸻
その少し離れた場所に一人、足を止めた少年がいた。
ナージュだった。
「ルーシュは?」
王宮へ来てしばらくして、弟の姿が見えないことに気づいた。
護衛に尋ねると。
「図書館へ向かわれました」
と答えた。
図書館。
またか。
最近、ルーシュは王宮へ来るたび図書館へ行っている。
本が嫌いなわけではない。
けれど、わざわざ自由時間を使ってまで、図書館に通うような弟ではなかった。
理由はなんとなく分かっている。
リリー。
最近、図書館にいるらしい。
そして、ルーシュが彼女と会ったことも知っている。
だから、少しだけ様子を見に来た。
本当に。
それだけ。
「――だから、私だってちゃんと話せます!」
遠くから声が聞こえた。
ナージュの足が止まる。
リリー。
顔を見るのはあの日以来だった。
『今日は帰ってください』
泣いて。
怒って。
そう言われた。
それから手紙もない。
会ってもいない。
けれど、今リリーは笑っていた。
机の向こう側には。
ルーシュ。
二人で何かを話している。
「絶対、発音間違えてますって」
「間違えてません!」
「じゃあ言ってみてください」
「嫌です!」
「自信ないんだ」
「あります!」
「じゃあ」
「もう!」
ルーシュが笑う。
リリーがむっとする。
けれど、すぐにリリーも笑った。
「……」
ナージュは何となく、そこから動けなくなった。
以前、リリーがあんなふうに楽しそうに話している時、その向かいにいたのはたいてい、自分だった。
『ナージュ様!』
『聞いてください』
『今日は――』
いつもリリーから、話しかけてきた。
一人でたくさん話して。
一人でよく笑った。
自分はただ答えていただけ。
それでも、その顔を今はルーシュに向けている。
「……」
なぜだか、胸の奥が落ち着かない。
ルーシュは弟だ。
二人が話をすることに何の問題もない。
むしろ、リリーが沈んでいるよりずっといい。
それに、自分は彼女の気持ちに応えるべきではない。
父から、そう教えられている。
いずれ、婚約はなくなる。
必要以上に深く関わるべきではない。
だから、これでいい。
そう思った。
そのとき。
「それでね!」
リリーが身を乗り出した。
「エルディアでは――」
嬉しそうに話している。
ルーシュもちゃんと聞いている。
時々、意地悪を言う。
リリーが怒る。
また、笑う。
「……」
ナージュの胸の奥にほんの少しだけよく分からないものが、引っかかった。
不快。
というほどではない。
怒ってもいない。
ただ妙に気になる。
――ルーシュは。
いつからあんなに、リリーと話すようになったのだろう。




