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中央銀行王都の市場に活気が戻ったのも束の間、ブライトナー公爵家の財務方執務室には、再び凍りつくような緊張感が漂っていた。
窓から差し込む朝日は眩しいほどだが、私のデスクの上に積み上げられたのは、美しく整えられた数表ではなく、王都市中から回収されたばかりの「歪な輝きを放つ金貨」の山である。
「お嬢様、やはりこれらは全て『改鋳』されたものです」
ライナスが、白い手袋をはめた指先で金貨の一枚を掲げ、拡大鏡で厳重にチェックしながら告げた。彼の冷徹な横顔が、眼鏡の奥で一層鋭さを増している。
「パルミニア王国の正規のパルミ金貨は、金含有率が『九二%』と定められています。しかし、ここ数日で王都の市場に突如として大量に流入し始めたこの金貨は、金の含有量がわずか『四五%』。残りは銅と亜鉛で水増しされています。表面には見事な金メッキが施され、重量も巧妙に調整されていますが……我々財務方の監査の目を欺くことはできません」
「金を半分以上もケチって銅を混ぜるなんて、ずいぶんと古典的で、同時に最悪な金融犯罪を仕掛けてくれたものね……」
私は手にした扇を顎に当て、不快感を隠さずに机の上の「悪貨」を睨みつけた。
前世の記憶が、私の脳裏に忌々しい過去の事例を呼び起こす。
歴史上、財政難に陥った国家や強欲な権力者が通貨の質を落として大量に鋳造し、一時的なシニョリッジ(貨幣発行益)を得ようとした例は枚挙に暇がない。だが、その結末は決まって同じだ。
『グレシャムの法則』――悪貨は良貨を駆逐する。
人々は質の良い本物の金貨を手元に溜め込み(退蔵)、市場には質の悪い偽金貨ばかりが流通するようになる。結果として通貨の信用は失墜し、制御不能の猛烈なハイパーインフレが発生して、経済は根底から崩壊するのだ。
「前回の穀物買い占め戦で、私に『含み損』を強制決済させられたシャルロッテとハンスの奴ら、資金繰りが完全にショートしたからって、まさか王国の通貨制度そのものを人質に取るとはね……」
「ええ、恐るべき往生際の悪さです」
ライナスは冷淡に同意した。
「彼女たちの背後にあるミュラー投資組合は、高値で掴んだ小麦の損切りで、推定で金貨数万枚規模の巨額の債務を負いました。まともな事業では返済不可能です。そこで、手元に残ったわずかな純金貨を一度ドロドロに溶かし、銅を混ぜて二倍の量の『水増し金貨』を作り出して市場に流した。これで負債を帳消しにしつつ、王国の金融システムを麻痺させる……一石二鳥のテロ行為と言えます」
「だけど、ライナス。いくら男爵領に私設の鋳造所があるからって、一介の領主が王国の法定貨幣を勝手に改鋳して流通させるなんて、明らかな国家反逆罪(大逆罪)よ。いくらなんでも、そこまでのリスクを冒す大義名分が彼らにあるかしら? 流石にそこまで頭が悪くはないはずだけど……」
私が疑問を口にした、その時だった。
「あ、あの……アイリス、ライナス……。ちょっと、僕、相談というか、告白しなければならないことが、ある、かもしれない、的な……」
部屋の隅、いつもの「予算削減執行ソファー」の陰から、金髪の頭が恐る恐る上がった。
第一王子ルディである。彼は両手の指をもじもじと絡ませながら、私とライナスの視線を浴びて、目に見えてガクガクと震え始めた。
私はゆっくりと立ち上がり、彼のもとへと歩み寄る。
「殿下。その『告白』の内容次第では、来期の殿下の娯楽予算だけでなく、今後、生存に必要な最低限のカロリーの配給すら、明日から『全面凍結』される可能性がありますが、よろしいですね?」
「ひっ……! い、芋すら無くなるのは嫌だ! でも、言わないと後で首が飛びそうだから言うよ……! あのね、数日前の夜、シャルル(シャルロッテ)がね、シクシク泣きながら僕の部屋に来たんだ……」
ルディ王子は、涙目で当時の状況を語り始めた。
「『ルディ殿下……我が領の領民が、先の経済混乱で飢え死にしそうなのです。せめて、領内の流通を活性化させるために、我が領独自の【一時的な記念地域振興コイン】を発行するお許しをいただけないでしょうか。これは王国のマクロ経済(覚えたての言葉)には一切影響を与えない、小さな、小さなお願いなのです……』って、ウルウルした目で頼まれて……」
私は額に青筋が浮かぶのを自覚した。
「それで? 殿下はなんと?」
「ぼ、僕、シャルルがあまりにも可哀想だったし、あと……『もしサインしてくれたら、王宮の財政方に内緒で、特製マカロンの密輸ルートを確保して毎日お届けします』って言われて……。つい、王印を押した臨時の『特例鋳造許可証』を、彼女に渡しちゃったんだ……」
「「…………」」
執飾室が、絶対零度の静寂に包まれた。
隣でライナスが持っていた羊皮紙が、彼の握力によってギリギリと音を立てて歪んでいく。
「お、お黙りなさい、このポンコツマスコット(不良債権)があぁぁぁーーーっっっ!!!」
私の怒声が王宮の天井を揺るがした。
「ひゃうっ!!! ごめんなさいごめんなさい! マカロンに目が眩んだ僕が馬鹿だった! でも、ちゃんと国全体の貨幣じゃなくて『領内限定』って書類には書いてあったんだよ!?」
「あんな狡猾な泥棒猫が、そんな限定条項を守るわけがないでしょうが!」
私は王子の胸ぐらを掴み上げたい衝動を必死に抑え、自分の髪を乱暴にかきむしった。
「彼女たちは、殿下から毟り取ったその『特例許可証』の文言を巧妙に解釈(拡大解釈)して、『王室が認めた正当な新貨幣』として王都の市場に堂々と悪貨を流し込んでいるのよ! これで彼女たちの行為は、形式上は『違法な偽札作り』ではなく、王室の許可を得た『正当な通貨発行』という法的盾を手に入れてしまったの! なんてことしてくれたのよ、この無能王太子!!」
「あわわわ、ごめんなさいぃぃ!」
ルディ王子はソファーの上で完全に丸くなり、頭を抱えて縮み上がった。
ライナスがすかさず、私の前に新たなグラフを提示する。その目はすでに、怒りを通り越して「完全なる殲滅対象」を見るそれに変わっていた。
「お嬢様、感情の整理は後回しです。事態は一刻を争います。市場ではすでに、この水増し金貨(悪貨)が急速に浸透し始めており、それを察知した大商人たちが、純度の高い旧金貨(良貨)を金庫に隠し始めました。これにより、実質的な購買力が低下。今日の正午時点で、王都の食堂のスープ一杯の価格が、通常の『二倍』に跳ね上がっています。典型的な通貨信用不信によるインフレです」
「……シャルロッテとハンスめ。手口が鮮やかすぎて、逆に清々しいわね」
私は深く息を吐き、冷徹な理性を強引に取り戻した。
前世で何度も直面した、極限状態の予算折衝や金融危機の修羅場。あの時のヒリつくような感覚が、私の全身の細胞を呼び覚ます。
「彼らの狙いは、この悪貨を王都中に溢れさせてハイパーインフレを引き起こし、現行のパルミ金貨の価値を紙屑にすること。そして、王国の経済が崩壊したところで、彼らがかねてよりガルニア帝国から引き込もうとしていた『ガルニア帝国金貨』を、パルミニア王国の新たな『基軸通貨』として導入させることね」
「一国の『通貨主権』を隣国に売り渡す、完全な国家転覆計画ですね」
ライナスが眼鏡を冷たく光らせる。
「通貨の命は『信用』です。一度失われた信用を取り戻すのは、並大抵のことではありません。お嬢様、いかがいたしますか? 今すぐミュラー領の私設鋳造所に、力尽くで軍を派遣して差し押さえますか?」
「いいえ、ライナス。それでは遅いのよ。軍を動かせば、彼らは『王室が不当に地方領主を弾圧している』と騒ぎ立て、さらに通貨の信用不安を煽るでしょう。市場が一度パニックになれば、軍隊では物価の上昇を止められないわ」
私は机の上の悪貨の一枚を指先で弾いた。キィン、と鈍い音が響く。
「経済の戦いで流された血は、経済のシステム(仕組み)で拭うのが、プロの官僚のやり方よ。……ねぇ、ライナス。泥棒猫たちが『悪貨は良貨を駆逐する』という法則を信じ切っているなら、私たちはその前提を根底からひっくり返してあげましょう」
「前提を、ひっくり返す……?」
「そうよ。悪貨が良貨を駆逐するなら――その悪貨の存在自体を、一瞬にして『ただの鉄クズ』に変える、超大規模な【新貨交換】および【金融引き締め】を執行するわ!」
私はペンを取り、羊皮紙に電撃的な速度で新たな経済政策の骨子を書き殴り始めた。
「ライナス! 今すぐブライトナー公爵家、および王宮財務方の全総力を挙げて、以下の三つのオペレーションを同時並行で発動しなさい!」
「はっ。命じられたし!」
「第一に、明日朝一番をもって、現在の『パルミ金貨』の流通を全国内で【無期限停止】とする!」
「なっ……!?」
ソファーの陰で聞き耳を立てていたルディ王子が、驚愕のあまり素っ頓狂な声を上げた。
「つ、通貨の流通を止める!? そんなことをしたら、それこそ国中の経済が完全にストップしちゃうよ!?」
「静かにしていなさい、マカロン王子」
私は一喝し、ライナスに向き直る。
「当然、ただ止めるだけではないわ。同時に、我がブライトナー公爵家が密かに保有する最高純度の金地金を担保とした、臨時の【新・パルミ政府紙幣】を発行、流通させるのよ! そして、市場の商人たちに対し、手持ちの『旧・良質金貨(純度九二%)』を持参した場合に限り、この新紙幣と【一対一】の等価で、最優先で交換すると布告しなさい!」
ライナスが、瞬時に私の意図を察し、その美しい瞳を驚嘆に。そして歓喜に染めた。
「なるほど……! では、シャルロッテ令嬢たちが大量に鋳造した『水増し悪質金貨(純度四五%)』を持ってきた者に対しては……?」
「もちろん、交換比率は【二対一】、あるいは【三対一】の大幅なディスカウント(減価)を適用するわ。それだけじゃない。その悪質金貨の鋳造元である『ミュラー領の刻印』が入った貨幣に関しては、臨時の『不当貨幣流通税』として、交換時に【七割の重税】を課しなさい!」
「素晴らしい……! そうなれば、市場の商人たちは、手元にあるミュラー領の悪貨を大急ぎで手放そうとするか、あるいは価値が激減することを見越して、一切の受け取りを拒否するようになります。悪貨が市場を駆逐するどころか、市場から『一瞬で排除』されるわけですね!」
「その通りよ。さらに第二の手よ、ライナス。新紙幣の導入に伴い、公爵家系の中央銀行(ブライトナー預金講)の『法定金利』を、一気に【年率一五%】まで引き上げなさい(超金融引き締め)」
「一五%!? そこまでの高金利にすれば、市場に出回る新紙幣はすべて、利息目当てで公爵家の金庫へと猛烈な勢いで回収されていきます。つまり……」
「市場の通貨供給量が強制的に急減するわ。結果として、シャルロッテたちが引き起こした人工的なインフレは、一晩にして強烈な『デフレ(物価下落)』へと反転する。明日の朝には、スープ一杯の価格は元の適正価格……いや、それ以下まで暴落するわよ」
これぞ、前世の近代国家がインフレを力尽くで圧し潰すために用いた、中央銀行による「電撃的利上げ」と「通貨改革」の合わせ技である。個人ベンチャーの手遊びのような偽札作りなど、国家規模の金融マニピュレーション(市場操作)の前には、蟷螂の斧に過ぎない。
「そして第三の手よ。……この金融殲滅作戦のトドメを刺すために、私たちは『現場』へ直接、引導を渡しに行くわよ。ライナス、準備は?」
「いつでも。我が財務方の精鋭、および新紙幣の第一陣の輸送部隊は、すでに私の合図一つで動ける状態です」
「いいわ。泥棒猫さんに、中央銀行総裁(代理)の本当の権力を見せてあげましょう」
私は乗馬鞭をパチンと鳴らし、凍りつくような、しかし最高に愉悦に満ちた笑みを浮かべた。




