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【完結】私を侮らないことね  作者: 逆立ちハムスター


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5

数時間後。王都の目抜き通りに一段と高く聳え立つ、重厚な石造りの建物――「デンプスター商会」の本部。

その最上階にある豪華絢爛な応接室では、ギルド長である恰幅の良い男、デンプスターが、上機嫌で大きな葉巻を燻らせていた。


「いやはや、シャルロッテお嬢様、そしてハンス殿。計画は至って順調ですな。市場の小麦の現物は、すでに我が方が四割五分を押さえました。明日の朝には価格はさらに跳ね上がり、ブライトナー公爵家の小娘も、泣きついてくるしかありませんな!」


ソファーに優雅に腰掛け、最高級のワイングラスを傾けているのは、シャルロッテ・フォン・ミュラー。彼女の傍らには、いつも通り冷徹な視線を書類に落とす私設秘書ハンス・ケラーが控えている。


シャルロッテは、その愛らしい唇を歪め、傲慢な笑みを浮かべた。


「ふふ、当然ですわ。あの方、昨日は偉そうに『マクロ経済』だの『反ダンピング』だのと言っていましたけれど、結局は現場のスピード感を知らない官僚の机上の空論。市場の流動性を力尽くで支配してしまえば、いくら公爵家の権力があろうとも、経済の原理には逆らえませんのよ」


ハンスが眼鏡のフレームを指先で微調整しながら、冷静に付け加える。

「法的な防壁も完璧です。王国通商法の規定上、彼らが我が商会の台帳の任意提出を求めるには、最短でも来週の火曜日に開かれる内政省の審議を経る必要があります。その頃には、市場のパニックは頂点に達し、南部特区の拡大案は王令によって強制可決されているでしょう。アイリス令嬢の負けです」


彼らが、完璧な勝利を確信し、祝杯をあげようとグラスを掲げた、その瞬間だった。


応接室の、頑丈なオーク材で作られていたはずの高級な扉が、凄まじい爆音と共に内側へと叩き割られた。飛び散る木片と硝煙。


「な、何事だァーっ!?」


デンプスターが驚愕のあまり、葉巻を絨毯の上に落として立ち上がる。

煙が徐々に晴れていく中、エントランスから堂々と足を踏み入れてきたのは、抜き身の剣を持ったフルプレートの王宮衛兵たち。そして――。


「ごめんください。パルミニア王国財務方・特別査察班、ならびにブライトナー公爵令嬢アイリスです。ただいまより、王室緊急令第三八条に基づき、デンプスター商会に対する『抜き打ち強制査察(ガサ入れ)』を執行いたします」


真っ赤なドレスの裾を華麗に翻し、冷徹な「鬼の査察官」のオーラを全身から放ちながら、私はそこに立っていた。

私のすぐ後ろには、山のような書類鞄を抱えたライナスと、総勢三十名を超える黒服の財務官たちが、一糸乱れぬ動きで部屋へと突入してくる。


「ア、アイリス様!? なぜ、ここに……っ!?」

シャルロッテが、それまでの優雅さを完全に失った素の声を上げてソファーから跳び起きた。


ハンスが瞬時に冷静さを取り戻し、鋭い足取りで私の前に立ち塞がる。

「お待ちください! このような暴挙、到底許されるものではありません! ギルドへの立ち入り調査には、王国通商法第十二条により、一週間前の事前通告と適切な理由の開示が法的に義務付けられているはず! これは明確な違法捜査、職権乱用です!」


「ハンス・ケラー。相変わらず、法典の表面だけをなぞるのがお上手ね」


私は冷笑を浮かべ、背後のライナスに顎で合図を送った。

ライナスは一歩前に出ると、ハンスの目の前に、ルディ王子の鮮明なサインと最高位の玉璽が押された羊皮紙の命令書をパッと突きつけた。


「王国通商法の上位概念である『王室緊急令第三八条』。公共の利益、特に対象となる王都市民の生存権に関わる基幹物資の独占行為に対し、王室は一切の事前通告なく、全ての台帳、通信記録、および現物在庫を強制的に検査し、不当性が認められた場合は即座に国庫に没収する権限を有する。……文句があるなら、どうぞ最高法廷へ。ただし、審理が始まるのは、貴方たちが我が財務方の地下査察室で、三日三晩に及ぶ『事情聴取』を終えた後になりますが」


「な……王室緊急令だと!? そんな形骸化した大昔の法律を引っ張り出してくるなんて……!」


ハンスの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。

彼がどれほど法律の抜け穴を探す天才であっても、国家の最高権力者が「超法的措置」を文字通り力尽くで執行してきた場合、対抗する手段など存在しないのだ。


「さぁ、デンプスター長。言い訳なら、後でじっくり聞くわ。……査察官一同、業務開始トツげきしなさい!」


私の号令とともに、黒服の財務官たちが一斉に応接室の奥にある金庫室や書庫へと雪崩れ込んでいった。

「ああっ! 私の秘密台帳が! 裏の取引履歴がぁ!」とデンプスターが頭を抱えて崩れ落ちる。


「くっ……! ですが、アイリス様!」シャルロッテが、悔しさに顔を真っ赤に染めながら私を睨みつけてきた。「法的に台帳を押さえたところで、現実に市場の小麦が不足している事実は変わりませんわ! 我が商会が買い占めた小麦の現物は、すでに王都の強固な専用倉庫に格納され、鍵は我が方が握っています! これを市場に出させない限り、物価の高騰は止まりません! 市民の暴動が起きれば、困るのはそちらですわ!」


「あら、その『専用倉庫』の現物のことかしら?」


私は扇で口元を隠し、クスクスと楽しげに笑った。

その瞬間、応接室の窓の外から、王都中央広場の方角から地鳴りのような歓声が響いてきた。


「な、なんですの……?」


シャルロッテが不安に駆られて窓辺に駆け寄り、外の景色を見下ろした。

そこには、王宮の紋章をつけた巨大な輸送馬車の列が、中央市場に次々と乗り入れ、大量の小麦袋を山積みにしている光景があった。そして、市場の商人たちが狂喜乱舞しながら、それを格安の値段で市民に売り捌いている。


「報告いたします!」

一人の財務官が、息を切らせて部屋に駆け込んできた。

「アイリス様のご指示通り、王室および公爵家が密かに保有していた『国家備蓄兵糧』第一種〜第三種倉庫を一斉に開放! デンプスター商会が買い占めを行っていた裏で、我が方はその流通量の二倍に匹敵する小麦を『通常の市場価格の二割引き』で一斉に市場に直接、段階投入いたしました!」


「ば、馬鹿な!?」ハンスが叫ぶ。

「そんな莫大な備蓄を、そんな安値で一気に放出したら、王室の財政だってタダでは済まないはずだ! 大赤字を出して国家予算を破綻させる気か!?」


「破綻? するわけないでしょう」

私はハンスを哀れみの目で見つめ、ライナスから受け取った別の『買い付けデータ』を彼の目の前にパラパラと落とした。


「よく見なさい、ハンス・ケラー。我が財務方はね、あなたたちが買い占めを始める一週間前――市場が最も冷え込み、小麦の価格が底値をつけていた時期に、余剰穀物を『最安値』で大量に一括買い入れ(バルク買い)していたのよ。つまり、私たちは最初から、あなたたちが市場を操縦しようと現物を買い漁る動きを完全に予測し、安い時に仕込み、あなたたちが価格を吊り上げてくれた『最高値』のタイミングに合わせて、市場に一気に供給をぶつけたの」


「あ……」

ハンスの口から、絶望の吐息が漏れた。


「私たちが市場に放出した小麦は、元々が超格安で仕入れたもの。だから、市場価格の二割引きで売ったとしても、我が財務方には『莫大な値ざや(キャピタルゲイン)』が転がり込んでくる仕組みになっているのよ。つまりね、シャルロッテ。あなたたちが必死に資金を集めて市場の価格を吊り上げてくれたおかげで、我が王室の来期の財政黒字化が、完全に確定いたしました! 国庫への多大なるご寄付、心から感謝いたしますわ、泥棒猫ベンチャーさん?」


「そんな……! 私たちが、最初からアイリス様のパーム(手のひら)の上で躍らされていたというのですか……っ!」


シャルロッテは、その場に力なく膝をついた。

彼女が持ち込んだ「市場の自由競争」という武器は、国家という「最強のインサイダー」であり「市場のルールそのものを書き換えられる存在」の前には、ただのおもちゃに過ぎなかったのだ。


「デンプスター長。貴殿には、市場操縦、不当な価格カルテルの形成、および巨額の脱税の容疑で、これから長期の『お泊まり込み特別査察』に付き合ってもらうわ。……ライナス、書類を押収しなさい。壁の裏の隠し金庫の金貨も、一枚残らず、ね」


「御意。マルサのプライドにかけて、埃の一片に至るまで精査いたします」


ライナスが眼鏡を不気味に光らせ、泣き叫ぶデンプスターを衛兵たちに連行させていく。ハンスは完全に魂が抜けたような顔で、シャルロッテを抱きかかえるようにして、這々の体で部屋を退室していった。


その日の夕暮れ時。

王宮の財務方執務室に戻った私は、心地よい疲労感と共に、極上のソファーへと深く身を沈めていた。


王都市民を脅かした小麦の価格暴走は完全に鎮静化し、元の適正価格へと大暴落。デンプスター商会は事実上の解体となり、シャルロッテの投資組合は、高値で掴んだ大量の小麦の在庫を抱えたまま、一転して莫大な「含み損」を抱えて大赤字を計上することになった。完全なる、我が方の市場防衛勝利である。


「お疲れ様でございました、アイリスお嬢様。これだけの財政余剰が出れば、来期のインフラ投資予算も大幅に増額できますね。……そして、約束の、こちらも」


ライナスが、極上の笑みを浮かべながら、銀のトレイに乗った美しい紅茶と――そして、色鮮やかな『特製マカロン』を私の前に差し出した。


「あら、ありがとうライナス。やっぱり、激しい頭脳戦の後は糖分が必要ね」


私がマカロンを一つ摘み、サクッとした食感と上品な甘さを楽しんでいると――部屋の隅のパーテーションの裏から、ズビズビと鼻をすする情けない声が聞こえてきた。


「ひどいよ、アイリス……。僕、あんなに命がけで(伯父上たちに怒られるリスクを冒して)王室緊急令のサインをしたのに……。僕のおやつ、いまだにこれ(噛むと顎が鳴る干し芋)だよ……? マカロンの匂いだけが部屋に充満して、僕、飢え死にしそうだよ……」


パーテーションの隙間から、ルディ王子が涙目でこちらを覗き込んでいる。


「殿下。言ったはずです。予算案への計上を『前向きに検討する』と。官僚の言う『前向きな検討』とは、すなわち『何もしない』と同義。あるいは『善処する』と同じく、永遠の保留を意味するのです。そんな前世の常識、異世界の王子が知るはずもありませんが」


私は冷酷にマカロンをもう一つ口に放り込み、彼を完全にスルーした。


「しかし、お嬢様」ライナスが、紅茶を注ぎ足しながら表情を引き締めた。「ミュラー男爵令嬢も、今回の市場戦での大敗で、かなりの手痛いダメージを負ったはず。ですが、あのハンス・ケラーという男、去り際の目がまだ死んでいませんでした。次は間違いなく、より物理的な『物流網の破壊ロジスティクス・テロ』か、あるいは帝国の闇資金を使った『通貨の偽造インフレテロ』でも仕掛けてくる可能性があります」


「ええ、分かっているわ。あの方達の打たれ強さと、往生際の悪さは異常だからね。特に資金繰りが悪化した後の彼らは、何をしてくるか分からないわ」


私は窓の外、夕日に染まる美しい王都の街並みを見下ろした。市民たちは、安くなったパンを手に、笑顔で家路を急いでいる。


「受けて立つわよ。恋愛だのロマンスだのにうつつを抜かす暇があるなら、このパルミニア王国の国家財政とマクロ経済の安定を、私は全力で守り抜く。……さぁ、ライナス。明日からの『ミュラー領に対する報復的経済制裁プラン』の書類を作成するわよ。徹夜の準備はいい?」


「望むところでございます、お嬢様。我が財務方の、本当の地獄の予算編成を彼らにも見せてあげましょう」


銀縁眼鏡の側近が、不敵に微笑む。

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