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私のデスクに並んだおびただしい数の数表と羊皮紙を白々と照らし出している。
「アイリス……頼む、頼むから、せめて僕の『午後の特製マカロン予算』だけでも復活させてくれないか……! あれがないと、僕の繊細な精神が午後からの政務に耐えられないんだ……!」
ソファーにだらしなく突っ伏して、パルミニア王国第一王子ルディが、まるでこの世の終わりのような情けない声を上げている。金髪を振り乱し、碧眼に涙を浮かべたその姿は、確かに絵画から抜け出してきたように美しいが、中身がこれでは完全に「維持費ばかり高くて利回りの悪い不良債権」である。
私は手元の羽根ペンを動かす手を一切止めず、冷淡に視線だけを彼に向けた。
「殿下。昨日の最高経済会議の議事録は、もうお読みになりましたか? 南部国境の関税特区を巡るミュラー男爵領との泥沼のシーソーゲームにより、我が国の来期の歳入見込みは、コンマ数パーセントのブレすら許されない極限状態にあります。国民が明日のパンの価格に一喜一憂しているこの非常時に、王族が一個で農家の金貨一枚分もする特製マカロンを貪るなど、財政規律の観点からも、国民感情の観点からも、到底認められません」
「でも! 今日のおやつに出てきたの、乾燥させただけのパサパサの芋だよ!? これ、噛むと顎がミシミシ鳴って凄く痛いんだ!」
「食物繊維が豊富で、顎の発育と健康維持に最適です。日頃の運動不足な殿下にはちょうど良いプロテイン代わりでしょう。予算要求書――通称『マカロン購入申請書』は、財政健全化法第ハ条に基づき『却下』といたします。……ライナス、次の案件へ」
「御意に」
私のデスクの傍らに控えていたライナスが、銀縁の眼鏡を冷ややかに光らせ、手にした重厚な木製スタンプをルディ王子の申請書に叩き込んだ。
『却下』
容赦のない赤い印影が書類に刻まれると、ルディ王子は「ううっ、僕、第一王子なのに……権力ってなんだろう……」と机の隅で小さく丸まり、支給された干し芋を恨めしそうに齧り始めた。完全にマスコット枠、あるいは空気である。
そんな王子の介護(という名の放置)を終えたところで、ライナスが真剣な面持ちで一枚の分厚い報告書を私の前に提示した。
「お嬢様、ルディ殿下のマカロンよりも、遥かに深刻かつ厄介な動きが王都市場で観測されました。こちらのデータをご覧ください」
「……何かしら」
私が書類を受け取り、そこに並ぶ数字の羅列に目を走らせた瞬間、前世の財務省キャリア官僚としての血が、一時に沸騰するのを感じた。
「王都の穀物市場において、ここわずか三日間で、小麦の卸売価格が『二五%』も急騰している……!? 馬鹿な、今期は天候も安定していたし、南部からの物流ショックも発生していないはずよ。供給側に致命的な要因がないのに、なぜこんな異常なボラティリティ(価格変動)が発生しているの?」
ライナスは眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、淡々と、しかし確実な証拠を伴った口調で告げた。
「『仕掛けられた』と見るべきでしょう。我が公爵家の隠密、および財務方の調査によれば、王都の最大手穀物ギルドである『デンプスター商会』が、市場に出回る小麦の現物を、通常の三倍の買い付けレートで片端から買い漁っています。彼らは王都に流入する穀物の流通経路を、上流で完全に堰き止めている状況です」
「デンプスター商会……。王都の穀物シェアの四割を握る大物ね。しかし、いくら大手とはいえ、単一のギルドがこれほど大規模な買い占め(コーナーリング)を行うための原資がどこにあるの? 穀物の現物買いは、莫大なキャッシュが必要なはずよ」
「資金の出所ですが、複数の小規模な外国籍ペーパーカンパニーを経由しており、一見すると分散投資のように偽装されていました。ですが――その資金調達の源流を徹底的に遡ったところ、やはり、あの場所に突き当たりました」
ライナスが指し示した書類の最下部。そこには、見覚えのある洗練された紋章が刻印されていた。
「『ミュラー男爵領・新産業開発投資組合』……。やっぱりね、シャルロッテ!」
私は手にした扇を、机の上にバンと叩きつけた。
すべてが繋がった。昨日の最高経済会議で、私が「国内農業の保護と反ダンピング関税の正当性」を完璧なロジックで主張し、彼女の関税特区拡大案を瀬戸際で阻止した。その仕返しとして、彼女は今度は「市場」という名の戦場にゲリラ戦を仕掛けてきたのだ。
「あの泥棒猫、やり方が相変わらずえげつないわね。人為的なインフレを引き起こして、王都市民の胃袋を人質に取る気よ。そして、明日の朝あたりに、彼女の息のかかった壁新聞や世論を使ってこう騒がせるつもりだわ」
私はシャルロッテの可憐な、しかし計算高い声を真似てみせた。
「『皆様、ご覧なさい! ブライトナー公爵家が古い規制や関税にしがみついているせいで、市場の小麦価格が暴騰し、皆様の明日のパンが買えなくなっていますわ! 今すぐ南部特区を拡大し、ガルニア帝国の安い小麦を自由に流入させれば、一発で解決するのに!』……ってね」
「恐ろしいほど正確な予測です、お嬢様」
ライナスが感心したように深く頷いた。
「実際に、王都のいくつかの平民街では、すでに小麦の買い溜めによる軽いパニックが起き始めています。このまま物価高騰が続けば、民衆の不満の矛先は、現行の財政と市場を管理している我がブライトナー公爵家、および財務方に向くでしょう。政策の正当性を世論によってひっくり返す――それが、シャルロッテ令嬢と、その秘書ハンス・ケラーの狙いです」
「ふん。スピード感と資金力だけが武器の、絵に描いたようなアグレッシブ・ショート(空売り仕掛け)ね」
私は冷酷な笑みを浮かべ、ソファーに深く背を預けた。
前世の日本でも、ヘッジファンドや強欲な投資銀行が、実需に基づかない投機目的で原油や穀物の先物価格を吊り上げ、世界中の庶民を苦しめる光景を嫌というほど見てきた。そのたびに、私たち官僚組織がどれほどの書類を作り、規制の網を編み、彼らの「市場操縦」を叩き潰してきたか、あの泥棒猫は知らないらしい。
「いいわ。資本主義のルールを異世界に持ち込んで無双した気になっているベンチャー企業もどきに、国家権力というものの本当の恐ろしさを教えてあげる」
私は立ち上がり、ライナスに向かって電撃的な速度で指示を飛ばした。
「ライナス! まず、王室および公爵家が管轄する『緊急事態用備蓄兵糧』の第一種から第三種倉庫を全て開放しなさい」
「備蓄の放出ですか? しかしお嬢様、現在の異常に吊り上がった価格の市場にそのまま小麦を放出すれば、デンプスター商会にさらに安値で買い叩かれ、彼らの在庫をますます分厚くするだけの結果になりかねませんが……」
「普通に売ればそうね。だから、ただの売却ではなく『時間差の段階的売りオペレーション(ステルス・マーケット・サプライ)』を行うのよ。王都の複数の零細商人をダミーとして使い、デンプスター商会が感知できない小口のルートで、市場の『底値』を狙ってひたすら供給し続ける。彼らの買い占め原資が尽きるか、こちらの供給量が勝つか、徹底的な持久戦を仕掛けるの」
「なるほど、市場の流動性を人工的に過剰にするわけですね。しかし、それだけではデンプスター商会の背後にいるミュラー家の資金力を削りきるには時間がかかります」
「もちろん、本命の攻撃は市場の外からよ」
私は不敵に微笑み、ライナスの眼鏡の奥にある聡明な瞳を見つめた。
「デンプスター商会が、これほど短期間に不当な買い占めを行っていることは、明らかに王国の『健全なる通商秩序の維持に関する基本法』――通称、独占禁止法に抵触するわ。ライナス、今すぐ奴らの本拠地へ『臨検(抜き打ち特別監査)』をかけるわよ」
「臨検……強制捜査ですか。しかしお嬢様、現行の王国通商法の規定では、ギルドへの立ち入り調査には『一週間前の事前通告』と『内政省の承認』が必要ですが……ハンス・ケラーの事ですから、その法的防壁は完璧に固めているはずです」
「古い法典をそのまま読むからそうなるのよ、ライナス。法というものは、解釈と運用の組み合わせ次第で、いくらでも強力な武器になるわ。……ねぇ、殿下?」
私は、いまだにソファーの陰で干し芋をモグモグしているルディ王子に、満面の笑みを向けた。
「な、何、アイリス……? 急に優しい笑顔でこっち見ないでよ、怖いから……!」
「殿下。今から百五十年前、パルミニア王国が大飢饉に見舞われた際、時の国王が発布した『王室令第三八条』をご存知ですか?」
「え? ええと……歴史の授業で聞いたような、聞いてないような……」
「『戦時、または公共の福祉に重大かつ緊急の危機が及ぶ場合、王室は一切の手続きを経ず、市場を乱す不当な徒党に対し、即時の査察および財産差し押さえを行う緊急権を有する』。これ、実は一度も廃止されずに、王室の隠された特権法として残っているのです。さぁ、殿下。ここにサインと、玉璽の捺印を」
私は、あらかじめライナスに爆速で起草させた『緊急査察執行命令書』をルディ王子の目の前に叩きつけた。
「ええっ!? で、でも、僕、そんな独断でサインなんてしたら、後で内政省の伯父上たちに怒られちゃうよ……!」
「サインしてくださるなら、来期の予算に『特製マカロン一ヶ月分』を特別交付金として計上することを前向きに検討いたします」
「書く!!! 今すぐ書くよ!!! 」
餌に釣られた哀れな王子は、驚異的な速度で羽根ペンを走らせ、重厚な印章を書類に押し当てた。これでよし。国家最高権力の「大義名分」は完全に我が手に落ちた。
「素晴らしいわ、殿下。やはり殿下は、我が国の素晴らしいマスコット(予算案の調整弁)です。……さぁ、ライナス。財務方の精鋭査察官と、王宮衛兵の突撃部隊を招集しなさい。ベンチャー気取りの泥棒猫を、徹底的に『お買い上げ(査察)』しに行くわよ!」
「御意。長年温めていた、税務調査のノウハウを存分に発揮いたしましょう」
ライナスが、ゾッとするほど美しい悪魔のような微笑を浮かべ、書類を鞄に収めた。




