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「今、我が国は南部国境において、国内農業を保護するために二・五ゴールドの『保護関税』を課しております。これにより、市場では国内産も帝国産も、ほぼ同じ価格(約四ゴールド)で競合し、バランスが保たれています。……しかし、もしシャルロッテ様の提案通り、関税を完全に撤廃したならば、どうなるでしょうか?」
私は、シャルロッテを真っ直ぐに見据えた。
「市場には超低価格の帝国産小麦が濁流のように流れ込みます。平民たちは一時的に『安いパン』を食べられて喜ぶでしょう。ですが――その瞬間、我が国の南部の小麦農家は、一軒残らず自己破産(倒産)に追い込まれます。彼らは帝国産の価格に太刀打ちできないからです」
「そ、それは……一時的な市場の淘汰であり、競争の結果ではないか?」
シャルロッテ派の内政尚書が反論する。
「一時的? いいえ、永続的な破壊(インフラの喪失)です」
私は冷酷に否定した。
「農地というのは、一度放棄されれば荒廃し、再耕作には十数年の歳月と莫大な再投資が必要になります。我が国の農業が完全に崩壊した後、ガルニア帝国はどうするでしょうか? 彼らは確実に、我が国への小麦輸出価格を『引き上げ』ます。市場を独占したのですから、価格は彼らの言い値になります。その時、我が国は食料の自給能力を完全に失い、隣国に胃袋を握られた『経済的植民地』と化すのです!」
「な……っ!」
内政尚書が言葉を詰まらせる。
「さらに!」
私は畳みかけた。
「農家を失業させたことで、南部領地には数万人の『失業者』が溢れ返ります。彼らは生活のために都市部へ流入し、治安悪化の原因となり、その対策のために警備兵の増員など、莫大な『社会的コスト(歳出)』が発生します。関税収入を失った国庫が、どうやってその治安維持費を捻出するのですか? シャルロッテ様、あなた自身のポケットマネーで、数万人の失業者の生活保護費を支払っていただけるのかしら?」
「それは……!」
シャルロッテの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
彼女は「自由貿易のメリット」ばかりをアピールすれば、無知な貴族たちは騙せると踏んでいたのだろう。だが、私を相手に、負の外部性(外部不経済)や産業構造の崩壊リスクを無視した議論が通じるはずがない。
会議室の貴族たちは、今や完全に私の提示した「リアルな損害試算データ」に恐怖していた。
「まさか、これほどのリスクがあるとは……」
「国庫が破綻し、治安が崩壊するではないか!」
「危うく、男爵令嬢の甘言に乗せられるところだった!」
風向きは一瞬にして変わった。
だが――。
「――お言葉ですが、アイリス様」
静かに、しかし冷徹な、よく響く声が上がった。
シャルロッテの背後に控えていた私設秘書、ハンス・ケラーが、眼鏡の位置を直しながら一歩前に出たのだ。
3.優秀な側近の応酬と、斜め上の解決策
「確かに、アイリス様の懸念される『国内農業の崩壊リスク』は、純粋な経済学的な観点からは一理ございます。ですが……それはあまりにも『現状維持』を前提とした、公務員らしい、硬直した発想ではありませんか?」
ハンス・ケラーは、円卓の貴族たちに向けて、人当たりの良い、しかし極めて煽り性能の高い笑みを向けた。
「我がミュラー家が提案しているのは、単なる『農業の遺棄』ではございません。私たちは、南部特区の関税撤廃と同時に、南部の休耕地となった農地を『魔光塩』の精製工場、および羊毛の加工工場へと『産業転換』させる計画を裏で進めております。我がパルミニア王国が、生産性の低い小麦農業から、付加価値の高い『軽工業・化学産業』へとシフトすれば、国富はむしろ数十倍に跳ね上がります。これこそが、比較優位の原則に基づいた、国家の近代化ロードマップです」
「産業転換……!」
「なるほど、新しい産業を興すというのか!」
貴族たちが、再びハンスの言葉に引き込まれそうになる。
(比較優位の原則ね。言いたいことは分かるけれど、現実の『労働の移動性』を無視した机上の空論よ)
「ライナス」
私は、後ろのライナスに声をかけた。
「出番よ。あの眼鏡の生意気な屁理屈を、冷たい事実で粉砕しなさい」
「御意」
ライナスは静かに会釈すると、一歩前に出た。彼の持つ冷徹なオーラが、ハンスの洗練された商人の笑みと衝突する。
「ハンス・ケラー殿。あなたの提唱する『産業転換ロードマップ』は、一見して先進的ですが、現実の『労働市場のミスマッチ』を完全に無視した致命的な欠陥がございます」
ライナスは、手元の別の資料をハンスに向けて突き出した。
「南部領地で代々小麦を作ってきた農民の平均年齢は、現在四十八歳。識字率は二割以下です。そのような高齢かつ未熟練の労働民が、明日から突如として、精密な技術を要する『魔光塩』の化学精製や、高度な織機を用いる羊毛工場で即戦力として働けると? 現実には、彼らは再雇用の波に乗れず、ただの構造的失業者となるだけです。また、産業転換に伴う『工場の建設資金』はどこから調達するのですか? ミュラー家が発行を予定している『産業振興債』ですか? あれは、裏でガルニア帝国の資本が入った、実質的な利権の売り渡し(売国ローン)ではないですか?」
「っ……!」
ハンスの眉が、ピクリと動いた。
彼の笑みが、わずかに引き攣る。ライナスが、ミュラー家が裏で進めていた「帝国資本の受け入れ計画」を完全に掴んでいたことに驚愕したのだろう。
「さらに」
ライナスは容赦なく追撃する。
「国家の基本は、食料の自給にあります。産業転換が進むまでの数年間、我が国が飢餓に見舞われた場合、誰が責任を取るのですか? 経済的な付加価値が高くとも、人間は塩や羊毛を食べて生きることはできません」
完璧な反論。
ハンス・ケラーが、ついに沈黙した。彼は眼鏡のブリッジを押し上げ、私とライナスに向けて、底冷えするような視線を送ってきた。
「……さすがはブライトナー公爵家のライナス様。お見事な分析です。ですが、ならばお聞きしたい。現状の、高い関税に守られ、生産性の低いまま停滞している我が国の農業を、このまま放置するおつもりですか? それでは、我が国はいつまでも貧しい農奴国家のままです」
シャルロッテもまた、ハンスを援護するように声を荒げた。
「そうですわ! 改革を恐れるばかりで、ただ税金に守られたいだけなんて、あまりにも卑怯ではありませんか!」
会議室の視線が、再び私に集まる。
現状維持ではジリ貧。しかし、自由貿易では急進的すぎて国家が崩壊する。
この二者択一の泥沼に、私はあらかじめ「第三の極秘予算案」を用意していた。
「もちろん、放置などいたしません」
私は立ち上がり、円卓の中央へと、最後の一枚の書類を滑らせた。
「我がブライトナー公爵家が提案するのは、関税の段階的引き下げを伴う、国内農家への『戦略的・個別直接所得補償制度』――通称『パルミニア版・農業直接支払い(コモン・アグリカルチュラル・ポリシー)』の導入です」
「じょ、直接支払い……?」
内政尚書が、聞き慣れない言葉に小首を傾げる。
「ええ。関税を一気にゼロにするのではなく、今後十年間で毎年一・五パーセントずつ段階的に引き下げ、市場に緩やかな競争を導入します。そして、その間に生じる国内農家の減収分に対しては、国庫から『直接、生産量に関わらず耕作面積に応じた補助金(デカップリング交付金)』を支給し、彼らの生活と農地を保証するのです。これならば、食料自給率を維持しつつ、農家は安心して効率化への投資を行うことができます」
「な、なるほど……! それならば、農家が破産することなく、緩やかに産業の近代化が進む!」
農業系の貴族たちが、目から鱗が落ちたように声を上げた。
「しかし、アイリス様!」
シャルロッテが、必死に反論の糸口を探して叫ぶ。
「その膨大な『補助金』の財源はどこから出すのですか!? ただでさえ我が国の財政は火の車なのでしょう!? 新たな増税でもするおつもりですか!?」
「いいえ、増税などいたしません。財源は、すでに確保してあります」
私は不敵な笑みを浮かべ、ライナスを見た。
ライナスは、極上の、しかし悪魔のような微笑みを作って、書類を読み上げた。
「財源は、第一王子ルディ殿下の『来期公務および私的予算の八割削減』。これにより、年間約八万ゴールドが浮きます。さらに、ミュラー男爵領がタックスヘイブンに隠匿していた『不法資産の没収(課税処分)』により、追徴課税として一二万ゴールドを徴収します。これらを基金として運用すれば、南部農家への補助金は十年間、一切の増税なしで完全に賄うことが可能です」
「な……っ!?」
シャルロッテの口が、金魚のように開閉した。
自らの脱税資金と、自分が籠絡したはずのルディ王子の予算が、すべて自分たちを叩き潰すための「農業補助金の財源」に化けたのだ。これ以上の皮肉はない。
「議長」
私は内政尚書に向き直った。
「どちらの提案が、我が国の財政と安全保障にとって有益か、もはや明白ではないでしょうか? これより、採決を求めます」
内政尚書は、もはや完全に私とライナスの「完璧なスキーム」に魅了されていた。彼は深く頷き、木槌を叩いた。
「これより採決を行う。……満場一致をもって、ブライトナー公爵家の『段階的関税引き下げおよび農業直接支払い法案』を可決とし、ミュラー男爵領の『南部特区拡大』は否決とする!」
カーン、と木槌の音が響き渡り、本日の戦いは決着した。
会議が散会となり、貴族たちが私に次々と握手を求めてくるのを適当にあしらった後。
私はライナスと共に、静まり返った王宮の回廊を歩いていた。
すると、前方のテラスの影から、二人の人物が私たちを待ち受けるように立っていた。
シャルロッテ・フォン・ミュラーと、ハンス・ケラーである。
シャルロッテは、もはや先ほどの会議での「か弱い令嬢」の面影を完全に捨て去り、腕を組んで、冷酷極まりない目で私を睨みつけていた。
「……見事な手際でしたわね、アイリス・フォン・ブライトナー公爵令嬢。まさか、中世の古臭い制度の中で、これほど緻密な『農業保護政策(補助金スキーム)』を組み立ててくるとは思わなかったわ」
彼女の口調は、完全に「前世の現役キャリア」としてのものだった。
「そちらこそ、なかなかに大胆な規制緩和を仕掛けてくれたわね、シャルロッテ様。でも、現実の労働市場と、国家の食料安全保障を無視した『新自由主義』は、ただの弱者切り捨てに過ぎないわよ」
私は、彼女の一歩手前で足を止め、冷ややかに言い返した。
「ふん、綺麗事を。農業なんて、グローバル市場(隣国との競争)においては非効率なレガシー産業よ。そんなものを税金で延命させて、この国がいつまでも他国に追いつけると思っているの?」
「延命ではないわ、育成よ。国家が強くなるための基礎体力を維持しながら、持続可能な発展を目指す。それが、私の『内政』よ」
二人の視線が、再びパチパチと火花を散らす。
隣では、ライナスとハンスもまた、眼鏡の奥の瞳で静かに殺気をぶつけ合っていた。
「ライナス様。今回は我が方の調査不足を突かれましたが、次はこうはいきません。我がミュラー家が支援する『商業ギルド』は、近いうちに、王都の穀物市場で『買い占め(コーナーリング)』を仕掛け、価格を乱高下させる予定です。あなたのその『美しい補助金制度』が、実際の市場の暴走に耐えられるか、見ものですね」
ハンスが、冷徹な声でささやく。
「お好きにどうぞ、ハンス・ケラー殿」
ライナスは、微塵も動じずに言い返した。
「我が財務部には、不当な市場操作に対する『緊急介入(買い支え・売り浴びせ)資金』および、強力な『独占禁止法(ギルド規制法案)』の草案が、すでに三パターン用意されております。いつでも市場に鉄槌を下す準備は整っておりますので」
(あら、頼もしい。さすがは私のライナスね)
私は心の中で彼に満点を送りながら、シャルロッテに最後の一言を放った。
「シャルロッテ。ルディ殿下という『不良債権』は、いつでもあなたに差し上げるわ。だけど、このパルミニア王国の国庫は、一ペニーたりともあなたたちの利権にはさせないから」
「ふふ、望むところよ。どちらがこの国を支配するか……じっくりと、ポートフォリオを競い合いましょう、アイリス」
シャルロッテは不敵に笑うと、ハンスを従えて、優雅に去っていった。
私は、彼女たちの後ろ姿を見送りながら、深く息を吐き出す。
「ライナス。明日は王都の穀物ギルドの財務諸表をすべて監査するわよ。徹夜の準備はできている?」
「もちろんでございます、お嬢様。今夜は、強いカフェインの効いた紅茶を多めに用意しておきます」
「ええ、頼むわ」
こうして、私たちの「恋愛そっちのけ」の、国家予算をかけた内政マウンティング合戦は、さらなる泥沼の戦いへと突き進んでいくのだった。




