南部特区の罠と、予算を削られた王子
「――というわけで、お嬢様。これがルディ殿下の来期公務予算および私的交際費の査定案、通称『第一王子財政健全化ロードマップ』でございます」
翌朝、ブライトナー公爵領の王宮執務室。
まだ朝靄の残る窓辺から差し込む光を浴びながら、私の優秀な財務補佐官であるライナスは、いつものように歪みのない完璧な仕草で書類を私のデスクに置いた。
銀縁の眼鏡の奥にある瞳は、冷徹な事務処理能力の輝きを放っている。
私は運ばれてきたばかりの、渋みの強いダージリンティーを一口すすり、差し出された羊皮紙に目を通した。
「ふむ……。ルディ殿下の愛馬の新規購入費、却下。宮廷詩人に支払う『パルミニアの夜空を讃える歌』の制作委託費、却下。王立薔薇庭園の『ルディ殿下専用温室』の維持管理費、却下。……あら、ライナス。この『社交用高級ワインの年間一括購入予算』が前年比九〇パーセント削減になっているけれど、これだと彼、お客様に安ワインしか出せなくなるわよ?」
「問題ございません。殿下がお召し上がりになるのは、糖度の高い果実酒ばかりで、ヴィンテージワインの価値などお分かりになりませんから。お客様には『公爵家が選定したリーズナブルかつ高品質な国内産新酒』を提供いたします。これは国内のワイン醸造農家への実質的な需要創出(公共事業)にもつながります」
「素晴らしいわ。さすがは私の事務次官。無駄な歳出を徹底的にカットしつつ、それを国内産業の呼び水にするなんて、まさに官僚の鑑ね」
私は満足げに微笑んだ。
前世、財務省の主計局で「一円単位の予算削減」のために各省庁の担当者と徹夜で怒鳴り合っていた私にとって、この手の予算査定は呼吸をするよりも簡単で、そして何よりもアドレナリンが出る。
しかも、今回はあの気弱で優柔不断な婚約者――昨晩、私を断罪しようとして口ごもった挙句、ライバル令嬢のシャルロッテに操られていたルディ王子の財布を握るのだ。日頃のストレス解消としても最高である。
その時、執務室の重厚な扉が、品格の欠片もない勢いでバァンと開け放たれた。
「アイリス――ッ! あ、いや、アイリス様……ッ! これ、これは一体どういうことなんだい!?」
噂をすれば影。息を切らせて部屋に飛び込んできたのは、第一王子ルディ殿下その人であった。
昨晩の豪華な正装とは異なり、少し着崩した上着を手にして、手にはライナスが発行したばかりの「予算削減通知書」を握りしめている。
彼の後ろでは、王宮の近衛兵たちが「止めようとしたのですが……」と申し訳なさそうな顔で立っていた。私は手で彼らを下がらせ、殿下に向き直った。
「これはルディ殿下。早朝から我が公爵家の執務室にまで足を運ばれるとは、いささか義務教育課程におけるマナーの再履修が必要なご様子ですね。何か私どもに『予算に関する陳情』でもおありでしょうか?」
私は優雅に椅子から立ち上がり、カーテシーをしながらも、目は完全に「融資を打ち切る金融機関の査定担当者」のそれになっていた。
「陳情というか……これだよ、これ!」
ルディ王子は、涙目で書類を私の目の前に突き出した。
「僕の来期の私的交際費が、昨年の十分の一になっている! これでは、今月末に予定している『シャルル(シャルロッテ)とのプライベートなピクニック』で、特製の高級馬車を用意できないじゃないか! 彼女に『なんて頼りない王子様なんだろう』と思われてしまう!」
(いや、すでに十分、頼りないっていうか、ポンコツの極みなんだけどね)
私は心の中でそう毒づきながら、隣のライナスに視線を送った。
ライナスは静かに一歩前に出ると、冷徹な声でスラスラと説明を始めた。
「殿下。現在、我がパルミニア王国の国債発行残高は、対GDP比で一二〇パーセントを突破しております。さらに、昨今の南部国境における関税収入の減少に伴い、基礎的財政収支は悪化の一途をたどっております。このような財政危機において、王位継承権第一位であられる殿下が、一男爵令嬢との『私的なピクニック』のために、国庫から数千ゴールドもする特注のサスペンション付き馬車を購入するなど、納税者たる平民に対する背信行為にほかなりません」
「う、うぐっ……」
ルディ王子は、ライナスの放つ「マクロ経済の正論」に、早くも気圧されている。
「さらに付け加えるならば」
私は、紅茶のカップをソーサーに戻し、冷たく言い放った。
「殿下がご所望のその特製馬車は、シャルロッテ様の実家であるミュラー男爵領の息がかかった『帝国系の輸入業者』から購入する計画になっておりました。つまり、殿下は王国の税金を使って、わざわざ隣国への外貨流出(貿易赤字)を手伝おうとされていたのです。これをおバカさん(経済的無知)と言わずして、何と言いましょう?」
「お、おバカさん……っ!?」
王子は、自分の婚約者(仮)から直接浴びせられた罵倒に、胸を押さえてよろめいた。
「で、でも、シャルルは言っていたよ……? 『お買い物をすることで、市場にお金が回って、みんなが幸せになるの。これをお化粧政策って言うのよ』って……!」
(出たわね、泥棒猫のリフレ派擬き発言。市場に流すお金の経路と乗数効果を無視した、ただの身内への利権誘導じゃないの)
「市場にお金を回す(流動性の供給)というのは、適切な投資対象(インフラ整備や研究開発)があって初めて効果を発揮するものです。ただの王族の贅沢品購入は、単なる『死荷重』を生み出すだけでございます、殿下」
ライナスの容赦ない追撃が、王子の心臓を的確に射抜く。
ルディ王子は、もはや言葉を返す気力もなく、床に両膝をついてガックリと項垂れた。金髪の美形王子が、財務省の事務方に完全敗北した瞬間である。
「……あ、足が、痺れた……。それに、頭が痛い……」
「まぁ、お可哀想に。では、そこのソファーで、我が国の税制に関する初等教科書でも読んで頭を冷やしていらっしゃいな。私たちはこれから、最高経済会議に出席しなければなりませんので」
私は、哀れな不良債権(王子)を放置し、ライナスと共に部屋を出た。
いよいよ、本日のメインイベントである。
王宮の本館、重厚なオークの円卓が置かれた「金の間」。
ここが、パルミニア王国のすべての経済政策を決定する、いわば意思決定の最高機関である。
円卓の周囲には、王国の重鎮である各大臣や、富裕な有力貴族たちがズラリと席を並べていた。私の父であるブライトナー公爵は名目上の財務尚書(最高責任者)であるが、本日は「偏頭痛」を理由に欠席し、すべての権限を名代である私に委任している。
(お父様、また面倒な政治闘争から逃げたわね。まぁいいわ、その方が私の好きにできるもの)
私は公爵家の席に座り、背後にライナスを控えさせた。
そして、円卓の対角線上に目を向ける。
そこには、淡いピンクの、しかし一見して非常に洗練された「活動的かつ簡素に見える」ドレスを着たシャルロッテ・フォン・ミュラー男爵令嬢が座っていた。
彼女は本来、この会議に出席する資格などない。しかし、彼女の後ろ盾である「商業都市連合」の推薦状と、昨日彼女に骨抜きにされた内政尚書(内政大臣)の特別許可を盾に、オブザーバーとして強引に割り込んできたのだ。
そして、彼女の背後には――。
仕立ての良いグレーの衣服に身を包んだ、切れ者の男が立っていた。
ハンス・ケラー。ミュラー家の私設秘書であり、シャルロッテの優秀な助言役だ。彼は細い金のフレームの眼鏡をかけ、常に薄い笑みを浮かべている。その視線は、獲物を値踏みする冷徹な商人のそれだった。
ハンスが私に気づき、慇懃無礼に頭を下げてくる。私もまた、極上の「営業用スマイル」でそれに応えた。
「――それでは、本日の最高経済会議を始める」
議長である内政尚書が、古めかしい木槌を叩いた。
「議題は、ミュラー男爵領および商業都市連合から提出された『南部国境における関税不徴収特区の拡大申請』についてである」
きたわね、と私は内心で身構えた。
シャルロッテが、すっと手を挙げ、可憐でありながら通る声で発言を始めた。
「皆さま、本日はお時間をいただき感謝いたします。私、シャルロッテ・フォン・ミュラーは、我がパルミニア王国の『大いなる繁栄』のために、この建白書を提出いたしました。現在の南部特区は極めて限定的なエリアに留まっておりますが、これを南部国境全域、さらには主要街道にまで拡大すべきだと考えます」
円卓の貴族たちがざわめく。
「関税の完全撤廃か?」「それは、市場が活性化するのではないか?」と、主に商業系の貴族たちが色めき立っている。
シャルロッテは、彼らに向けて甘い微笑みを振りまきながら、プレゼンテーションを続けた。
「関税をゼロにすれば、隣国であるガルニア帝国からの物資が、かつてない安さで我が国に流入します。パンの原材料となる小麦、日々の生活に欠かせない安価な木綿、これらが今の半分の価格で手に入るようになるのです! これは、日々貧しさに喘ぐ我が国の『平民の生活を、劇的に豊かにすることでしょう! これこそが、民を救うための『自由貿易』でございます!」
「おお……!」
「民のため、か!」
「なんと素晴らしい慈悲の心だ!」
会議室の半分を占める、人道派(を装った商売人)の貴族たちが拍手を送る。
シャルロッテは、ちらりと私の方を見て、勝利を確信したような歪んだ笑みを浮かべた。その表情は「どう? 大衆迎合と自由貿易の美名に、既得権益の塊である公爵令嬢がどう反論するのかしら?」と語っていた。
(……やれやれ。やっぱりその程度の浅い経済学で攻めてくるのね)
私は静かに立ち上がった。
拍手がピタリと止まり、会議室に張り詰めた緊張感が漂う。
「シャルロッテ様。大変に美しく、情緒に満ちたご意見、感服いたしました。ですが――」
私は、デスクの上に、ライナスが夜を徹して作成した分厚い『損害試算報告書』の束をドン、と置いた。
「これは『感情論』ではなく『数理』の会議でございます。あなたの提案する『関税ゼロのユートピア』が、我が国にどのような壊滅的打撃をもたらすか、具体的な数字をもってご説明いたしましょう」
私はライナスに合図を送る。
ライナスは一礼し、書類を素早い手つきで各大臣や貴族たちの手元へと配り始めた。
「まず、皆さま、資料の3ページ目をご覧ください」
私は、前世の国会答弁で鍛え上げた、明瞭で説得力のあるトーンで語りかける。
「現在、我が国の南部領地における小麦農家の生産コストは、一ブッシェルあたり約四ゴールドです。対して、隣国ガルニア帝国は、広大な平原と『奴隷的な低賃金労働者』を用いた大規模農業を行っており、彼らの小麦生産コストは一ブッシェルあたり、わずか一・五ゴールドに過ぎません」
貴族たちが、手元の数字を食い入るように見つめる。




