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私を侮らないことね  作者: 逆立ちハムスター


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1/1

断罪の夜会は、マクロ経済の香り

シャンデリアの豪奢な光が、王宮の大夜会を埋め尽くす貴族たちのシルクやベルベットを艶やかに照らし出している。

グラスに注がれた最高級のスパークリングワイン、美しく着飾った紳士淑女の囁き声、そして宮廷楽団が奏でる軽快な演奏。


その華やかな空間の中心で、私は完全に白けていた。


「ア、アイリス・フォン・ブライトナー公爵令嬢……! ボ、僕、いや、俺は、お前との婚約を……その、なんだ……破棄、しようと、思わなくも、ないというか……」


私の正面に立ち、借りてきた猫のように肩を窄めているのは、このパルミニア王国の第一王子、ルディ・フォン・パルミニア殿下である。

御年十九歳。金髪碧眼の、見た目だけは「おとぎ話の王子様」を体現したような美形なのだが、いかんせん声が小さい。蚊の鳴くような声とは、まさにこのことだ。


私――アイリスは、手にした扇でそっと口元を隠しながら、冷ややかな視線を彼に注いだ。


(……聞こえないわよ、殿下。マイク持ってきなさいマイク。あと、なんで語尾が疑問形なのよ。そこは『破棄する!』って断言するところでしょうが)


私は深いため息を心の中で吐き出す。

何を隠そう、私には前世の記憶がある。日本の、それも国家の財布を握る財務省……の下請け……で、連日連夜の予算編成と国会答弁の下書きに追われ、最終的には過労でデスクに突っ伏したまま三十路を前にして人生を終えた、哀れな下級キャリアの記憶だ。


転生した先は、中世ヨーロッパ風の異世界。私は公爵家という超優良血統の令嬢として生まれ変わり、「あぁ、今世は定時退庁どころか、働かずに不労所得で優雅に暮らせる!」と歓喜したのも束の間。気がつけば、いわゆる「悪役令嬢」のポジションに、すっぽりと収まっていた。

そして今、まさに物語のクライマックスであるはずの「婚約破棄イベント」の真っ最中なのだが――。


「ル、ルディ殿下……。がんばって、ください……っ。アイリス様の数々の悪行を、ここで皆に知らしめるのです……!」


王子の背後から、可憐な、しかしどこか計算高い声が響いた。

ルディ王子の袖を、白くて細い指先でぎゅっと掴んでいるのは、シャルロッテ・フォン・ミュラー男爵令嬢。

癖のない亜麻色の髪に、潤んだ栗色の瞳。いかにも「庇護欲をそそる悲劇のヒロイン」といった風情だが、彼女の瞳の奥にある光を、私は見逃さなかった。あれは、予算獲得の折衝で一歩も引かない地方自治体の知事の目だ。あるいは、他社のシェアを強引に奪いにくる敏腕ベンチャー企業の社長の目。


王子は、シャルロッテに背中を押されるたびに、びくっと身体を震わせている。


「う、うん……。そう、だったね、シャルル。ええと、アイリス……お前は、シャルルに対して、その……ミュラー領の特産品である『魔光塩』の流通経路を不当に差し押さえ、関税の優遇措置を一方的に撤廃させたな! それは、明らかな職権乱用であり、公爵家の権力を笠に着た嫌がらせだ!」


王子の口から飛び出した「断罪」の文句に、会場の貴族たちがざわめいた。

だが、そのざわめきは「なんて恐ろしい悪役令嬢だ」というものではない。あまりにも生々しい言葉が飛び出したことに対する、当惑のざわめきだ。


私は扇をパチンと閉じ、一歩前に出た。


「殿下。今、なんとおっしゃいました? 『関税の優遇措置の一方的撤廃』とおっしゃいましたか?」


「ひっ……!」


私が声を張っただけで、ルディ王子は目に見えて怯え、半歩後ずさった。私の身長は彼より少し低い程度だが、前世で叩き上げられた「冷徹な官僚風のオーラ」がドレスの裾から漏れ出ているのかもしれない。


「そ、そうだ! シャルルの実家は、し、塩の交易で、領民を潤そうとしていたのに……!」


「お言葉ですが、殿下」

私は冷徹な笑みを浮かべ、淡々と事実を陳述し始めた。

「ミュラー男爵領が申請してきた『魔光塩』の特別減税措置は、そもそも『王国内の物流活性化を目的とした暫定特例法』に基づくものです。しかし、我がブライトナー公爵家の調査によれば、ミュラー男爵領は減税によって浮いた分の利益を領民の福祉やインフラ投資に還元せず、すべて隣国であるガルニア帝国への不法な資本逃避――つまり、租税回避地への資産隠しに利用していました。これ、明らかな脱税行為です」


「えっ、だ、だつぜい……?」

ルディ王子の目が点になる。


「さらに付け加えるならば」

私は、王子の背後で一瞬にして表情を凍りつかせたシャルロッテを真っ直ぐに見据えた。

「ミュラー男爵領が市場に供給していた塩は、不当な廉売によって、近隣の王領地の塩田業者を自己破産寸前まで追い込んでいました。我が公爵家が講じた措置は、嫌がらせなどではなく、国内市場の健全化を目的とした、正当な『反ダンピング関税』の発動です。これのどこに、婚約破棄に値する不法性があるとおっしゃるのですか?」


静まり返る夜会会場。

もはや貴族の痴話喧嘩ではない。完全に財政金管理、あるいは公的な査察現場である。


「う……あ……」

ルディ王子は完全にキャパシティをオーバーしたらしく、左右の目が別々の方向を向きそうになっている。彼は元々、学問よりも乗馬や詩歌、演劇を好む、芸術や平穏を愛する(悪く言えば、頭の足りない)お坊ちゃまなのだ。こんな国家予算レベルの経済制裁の話、理解できるはずもない。


王子は助けを求めるように、後ろのシャルロッテを振り返った。


(……やれやれ。こんな頼りない男、熨斗をつけて差し上げたいところだけど)


私はシャルロッテを観察する。

彼女は今、必死に「か弱い被害者」の仮面を維持しようとしているが、その握りしめられた拳は微かに震えていた。怒りで。


私は気づいている。このシャルロッテ・フォン・ミュラーという女もまた、ただの男爵令嬢ではないということに。

おそらく、彼女も「並外れた政略の知識」を持つ者だ。でなければ、この世界で、これほど巧妙な「関税の抜け穴を利用したマネーロンダリング」を計画できるはずがない。精々、商人と貴族との不透明な金銭のやり取り程度だ。


彼女の狙いは、当然ルディ王子の寵愛そのものではない。

気弱で操りやすい第一王子を籠絡し、将来の王妃の座を手に入れることで、パルミニア王国の「通商権」と「徴税権」を実質的に掌握すること。それが、この泥棒猫の本性だ。


(ルディ? なんて、私にとっては「維持費ばかりかかって利回りの悪い不良債権」でしかないわ。婚約破棄自体は、どうぞご自由に、って感じだけど……)


私のプライドが、猛烈に拒絶反応を示していた。


(この私が、ブライトナー公爵家の優秀な事務方たちと共に心血を注いで構築した『王国の健全な財政基盤』を、あんなベンチャー気取りの泥棒猫の利権誘導でめちゃくちゃにされるなんて――絶対に許せない!!)


「……ふふ」


私の口から、低く、冷たい笑い声が漏れた。

その瞬間、ルディ王子の背筋が文字通り真っ直ぐに伸びた。恐怖のあまり直立不動になったのだ。


「シャルロッテ様」

私は王子の横をすり抜け、シャルロッテの目の前へと歩み寄った。

「男爵令嬢の身でありながら、第一王子の後ろ盾を利用し、王国の基幹産業である塩の流通を独占しようなどと……なかなかに大胆なポートフォリオを組まれるのね」


シャルロッテは、一瞬だけ「チッ」と舌打ちを漏らしそうになったのを、見事なプロ根性で引っ込めていた。そして、目薬を差したかのように、すぐに目に涙を溜め、痛々しいほど可憐な声を作る。


「アイリス様……! 私は、ただ、貧しい我が領の領民を救いたかっただけです……! それを、そんな……難しい言葉で、悪人のように言われるなんて……っ」


「まぁ、素晴らしいお優しさですこと。では、その『貧しい領民』のために建てられたはずのミュラー領の新設倉庫が、なぜか『ガルニア帝国籍のダミー会社』の名義になっている理由も、後でじっくり、特設の査察部隊(王宮省)にお聞かせ願えるかしら?」


「っ……!」


シャルロッテの目が、一瞬にして冷酷な「プロの獲物を狙う目」に変貌した。

彼女は、もうルディ王子が役に立たないと判断したのだろう。王子の背中から手を離し、すっと背筋を伸ばした。その立ち姿は、もはやおどおどした男爵令嬢のものではない。一国の経済を裏から牛耳ろうとする、若き女帝の風格さえあった。


「……アイリス様。そこまでおっしゃるなら、こちらも法的、かつ手続きに則った手段で抗議させていただきますわ。王国の『最高経済会議』にて、我がミュラー領の正当性を証明してみせます」


「ええ、望むところよ。国庫を舐めないことね、泥棒猫さん」


「そちらこそ、既得権益にしがみつく老害のやり方が、いつまで通用するか楽しみにしておりますわ」


私たちの間で、目に見えない火花――いや、高電圧の電流がバチバチと火花を散らした。

周囲の貴族たちは、その恐ろしいプレッシャーに圧されて、誰一人として口を挟むことができないでいたようだ。


「あ、あの……二人とも……? 僕の婚約破棄の、件は……?」


蚊帳の外に置かれたルディ王子が、消え入るような声で尋ねる。

だが私とシャルロッテは、同時に王子をギロリと睨みつけ、一言で切り捨てた。


「「殿下は黙っていてください(お黙りなさい)!!」」


「ひ、はいぃっ!!」


哀れな第一王子は、完全に縮み上がり、近くの給仕が持っていたトレイの陰に隠れようとしていた。彼はもう、この場において「ただの玉座に座る予定の人形」でしかなくなっていた。


────


大夜会が、異様な熱気(と経済的緊張感)を残したまま散会となった後。


私は王宮の離れにあるブライトナー公爵家の控え室へと戻っていた。

コルセットの締め付けから解放され、ソファーに深く腰掛けながら、私は長いため息を吐く。


「お疲れ様でございました、アイリスお嬢様」


静かに紅茶を淹れてくれたのは、私の専属側近であり、ブライトナー公爵家の若き財務補佐官、ライナスだ。

彼は仕立ての良い黒の衣服に身を包み、銀縁の片眼鏡を指先で軽く押し上げた。冷徹そうな美貌に、常に沈着冷静な態度。彼こそが、前世の知識を持つ私の突飛な経済改革を、この世界の厳格な法制度へと完璧に落とし込んでくれる、唯一無二のパートナー(優秀な事務次官)だった。


「聞いたわよ、ライナス。シャルロッテが、夜会が終わった直後に、もう次の手を打ってきたんですって?」


「ええ」

ライナスは、手にした羊皮紙の書類を私に差し出しながら、淡々と告げた。

「ミュラー男爵令嬢、いえ、彼女の背後にいる優秀な『助言者』は、なかなかに侮れません。夜会が引けた直後、彼らは南部国境の『関税不徴収特区』の拡大を求める建白書を、すでに内政省の受付に提出したようです。明朝の閣議に無理やりねじ込む算段でしょう」


「南部特区の拡大? あそこを開放したら、ガルニア帝国からの安価な農産物が流入して、我が国の農家が半壊するわよ! 彼女、目先の流通マージン欲しさに、国内の第一次産業を潰す気ね」


私はソファーから身を乗り出した。


「その通りです。そして、その建白書を起草したのが……シャルロッテ令嬢の私設秘書であり、ミュラー家の若き執事、ハンス・ケラーです」


「ハンス・ケラー……」

私はその名を聞いて、奥歯を噛み締めた。

シャルロッテにも、私におけるライナスのよう、極めて優秀な「頭脳」がついていたのだ。ハンスは、王国の古い法典の盲点を突き、自由貿易という美名のもとに、特定の利権を肥大化させる天才だと言われている。


「ライナス。明朝の閣議までに、南部特区拡大に伴う『国内農業への損害試算報告書』を仕上げなさい。それと、もし特区を拡大せざるを得ない場合の対抗策として、国内農家への『戦略的補助金交付金』の財源を確保して。財源は……そうね、王室の無駄な娯楽費(ルディ王子の乗馬購入予算)から削りましょう」


「御意。ルディ殿下の来期の予算は、すでに八割削減の方向で書類を作成してあります」


「素晴らしいわ、ライナス。仕事が早くて助かる」


私はライナスが淹れてくれた紅茶を一口すすり、不敵に微笑んだ。


(恋愛? 婚約破棄? そんなロマンス、このパルミニア王国の国家財政に比べれば、予算案の端数にも満たないわ!)


これは王子をマスコットに据えた、二人の令嬢(と、その有能すぎる側近たち)による、権威とプライドと国家の財布をかけた「内政マウンティング合戦」の幕開けに過ぎないのだ。


「さぁ、泥棒猫。どちらの経済政策が、この国を真に豊かにするか……徹底的に白黒つけてやろうじゃないの」


夜の王宮に、私の不敵な独り言が響いていた。

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