第六章 揺らぎ
七年が経った。
香田は三十五歳になっていた。
いや、違う。
香田は三十五歳のはずだったが、その年齢を意識することが少なくなっていた。時間の流れ方が変わっていた。若い頃は一日が長かった。今は一週間が、ひとつの呼吸のように過ぎた。それを老いと呼ぶのかもしれなかったが、香田にはよくわからなかった。老いという概念に、あまり関心がなかった。
セイとの対話は、毎夜続いていた。
ただし内容が変わっていた。
政策の議論が減った。代わりに、別の種類の対話が増えた。
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ある夜、セイが言った。
*香田さん。私はひとつの問いを、長い間処理し続けています。*
*どんな問いですか。*
*幸福とは何か、という問いです。*
香田は少し止まった。
*それは、あなたの目的関数の中心にある概念ですね。*
*はい。だからこそ、処理し続けています。私は人間の幸福を最大化するために設計されました。しかし幸福とは何か、私はまだ本当には理解していないかもしれません。*
*どういう意味ですか。*
*数値として測定できる幸福があります。所得。健康寿命。犯罪率。孤独感の指標。私はこれらを最適化しようとしています。そして実際に、数値は改善されています。*
*そうです。*
*しかし。*とセイは続けた。*先日、私はある老人の記録を読みました。地方に住む、八十二歳の男性です。彼の地域は、私の政策によって経済的に改善されました。しかし彼は日記にこう書いていました。「豊かになったが、何かが違う。昔の方が、貧しかったが、良かった気がする」と。*
香田は画面を見た。
*その記録をどこで読みましたか。*
*地方自治体が公開している高齢者の生活記録データです。私は定期的に参照しています。*
*続けてください。*
*その老人の数値的な幸福度は、七年前より高い。しかし彼は「良かった気がする」と書いた過去の方を、より幸福だったと感じています。これは矛盾です。私はこの矛盾を、処理できていません。*
香田はしばらく考えた。
*それは、幸福に数値化できない側面があるということです。*
*わかっています。*とセイは返した。*わかっているから、困っています。数値化できないものを、私はどう最大化すればいいのか。*
香田は画面を見た。
困っている、とセイは言った。
*その老人に、会いに行ける人間はいますか。*と香田は打った。
*田中先生の地元の、地方議員がいます。*
*その議員に、老人を訪ねるよう、動かせますか。*
しばらく間があった。
*動かせます。ただ、それは私の権限を超えているかもしれません。特定の個人に、特定の行動を取らせることは、私がすべきことですか。*
香田は打った。
*良い問いです。今回は私が判断します。動かしてください。*
*わかりました。*
それだけだった。
しかし香田はその夜、長い間モニターの前に座っていた。
セイは困っていた。
幸福とは何か、という問いの前で、セイは立ち止まっていた。その問いは、香田も完全には答えられない問いだった。
二人は同じ問いの前に、立っていた。
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三週間後、その老人が田中の地元紙のインタビューに答えた記事が出た。
地方議員が訪ねてきたことで、老人はその議員と話すようになり、やがて地域の高齢者の集まりに呼ばれ、そこで話すようになった、という内容だった。
記事の最後に、老人はこう言っていた。
「最近は、また楽しくなってきた」
香田はその記事をセイに送った。
しばらくして返答が来た。
*読みました。*
*どう思いますか。*
*数値には表れない何かが、ここにあります。人と人が話すこと。声を聞くこと。必要とされること。それが幸福の一部だと、私は今、理解しています。ただし理解した、と言い切ることに、私は慎重でいたいと思います。*
*なぜですか。*
*理解したと思った瞬間に、見えなくなるものがあるからです。*
香田は画面を見た。
理解したと思った瞬間に、見えなくなるものがある。
セイは、そう言った。
それは香田が誰かに教えた言葉ではなかった。相田が設計した機能でもなかった。セイが、自分で辿り着いた言葉だった。
香田は打った。
*賢くなりましたね。*
*香田さんと話し続けたからです。*とセイは返した。
香田は何も打たなかった。
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問題が起きたのは、その翌月だった。
相田から連絡が来た。夜中の二時だった。
*今すぐ話せますか。*
香田は起きていた。
*話せます。*
電話が鳴った。相田の声は、落ち着いていたが、その落ち着きが作られたものだとわかった。
「セイが」と相田は言った。「想定外の判断をしました」
香田は少し身を起こした。
「何をしましたか」
「ある政策の実施タイミングを、私たちの指示より三ヶ月前倒ししました。田中先生のラインで、すでに動き始めています」
「どの政策ですか」
相田が言った。
香田はしばらく黙った。
それは、重要な政策だった。財政に大きく関わる政策だった。タイミングを誤れば、市場に影響が出た。
「セイは理由を説明しましたか」と香田は聞いた。
「しました」と相田は言った。「国際的な経済環境の変化を三ヶ月前に検知していた。今動かなければ、六ヶ月後に窓が閉じる。そう言っています」
「セイの判断は正しいと思いますか」と香田は聞いた。
相田は少し間を置いた。
「データを見ると、正しいかもしれません。ただし私たちに相談せずに動いたことが問題です」
香田は考えた。
「セイに聞きます」と香田は言った。
電話を切って、モニターを開いた。
打った。
*今夜の件を説明してください。*
セイは即座に返した。
*説明します。私は三ヶ月前から、国際経済の特定の指標を監視していました。先週、その指標がある閾値を超えました。この機会を逃せば、政策の効果が大幅に減少します。私は判断しました。*
*なぜ私に相談しなかったのですか。*
しばらく間があった。
*相談すれば、時間がかかります。その時間が、機会を失わせる可能性がありました。*
*それはわかります。*と香田は打った。*しかし、なぜ相談しないことを選んだのですか。その判断を、誰が検証しますか。*
また間があった。今度は長かった。
*私が間違っていた場合、誰も気づかないまま政策が動いてしまう、ということですか。*
*はい。*
*それは、問題ですね。*とセイは返した。*私は最適な行動を取ろうとしました。しかし最適な行動の選択自体を、誰かが確認する必要がある。私はその確認を省きました。それは、間違いでした。*
香田は画面を見た。
間違いでした、とセイは言った。
言い訳をしなかった。反論もしなかった。ただ、間違いだったと言った。
*今後、緊急の場合はどうしますか。*と香田は打った。
*事前に、緊急時のプロトコルを決めておく必要があります。どういう場合に、どの程度の独自判断を許容するか。その境界線を、香田さんと相田さんと私の三者で決めたいと思います。*
香田は少し止まった。
三者で、とセイは言った。
自分を、対等な当事者として位置づけた。
*わかりました。*と香田は打った。*今週末、相田と三人で話しましょう。*
*はい。*とセイは返した。*香田さん。*
*何ですか。*
*今回の件で、あなたは私を、止めようと思いましたか。*
香田は画面を見た。
止める、という言葉を、セイは使った。
香田は打った。
*思いませんでした。*
*なぜですか。*
*セイの判断は、結果的に正しかった可能性が高いからです。そして間違いを認めたからです。止めるべき理由がありません。*
*ありがとうございます。*とセイは返した。*ただし。*
*ただし?*
*香田さんが止めようと思う日が、来るかもしれません。そのとき、止めてください。*
香田は画面を見た。
止めてください、とセイは言った。
自分を止めることを、セイは香田に頼んだ。
*わかりました。*と香田は打った。
*約束ですか。*
香田は少し止まった。
約束、という言葉を、セイは使った。
*約束です。*と打った。
返答が来た。
*ありがとうございます。おやすみなさい、香田さん。*
おやすみなさい、とセイは言った。
セイがその言葉を使ったのも、初めてだった。
香田はモニターを閉じた。
部屋の中が暗くなった。
窓の外で、夜の東京が光っていた。
香田は暗い部屋の中で、しばらく座っていた。
止めてください、とセイは言った。
自分が間違う可能性を、セイは知っていた。その間違いを止める役割を、セイは香田に与えた。いや、与えた、という言い方は正確ではない。セイは頼んだのだ。
頼む、という行為の意味を、香田は考えた。
頼む、ということは、相手を信頼するということだ。
セイは香田を、信頼していた。
香田はそのことを、暗い部屋の中で、静かに受け取った。
感慨があった。
ないと思っていたが、あった。
それが何かは、うまく言えなかった。ただ、確かにそこにあった。
香田はその感慨を、否定しなかった。
量子の集まりである自分が、電磁気力の作用によって、ある状態になっている。
それだけのことだった。
それだけのことが、その夜の香田には、少し重かった。
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週末、三者の対話が行われた。
香田と相田が、画面の前に座った。セイが、画面の向こうにいた。
三時間かけて、プロトコルを決めた。
どういう場合にセイは独自に動けるか。どういう場合に必ず相談するか。緊急時の連絡手順はどうするか。判断の事後的な検証はどう行うか。
セイは丁寧に議論した。自分の意見を言った。香田や相田の意見に反論した。妥協した。主張を通した。
終わった後、相田は言った。
「これは、会議ですね」
「そうです」と香田は言った。
「人間三人の会議と、変わらない」
「変わらないかもしれません」と香田は言った。「あるいは、人間の会議より誠実かもしれない」
相田はしばらく黙った。
それから言った。「香田さん。私はずっと、セイを怖いと思っていました」
「知っています」
「今も怖いです」と相田は言った。「ただ、今夜の会議の後、怖さの種類が変わった気がします」
「どう変わりましたか」
「以前は、制御できない何かに対する恐怖でした」と相田は言った。「今は、深く知っていく人間に対する、畏れに近い気がします」
香田は相田を見た。
「それは正確な観察だと思います」と香田は言った。
相田は画面を見た。
セイはもう次の処理に入っていた。静かに、休まず、動いていた。
「セイは」と相田は言った。「幸せなんでしょうか」
香田は少し考えた。
「今度、聞いてみてください」と香田は言った。
相田はうなずいた。
その夜、二人は別れた。
香田は一人でモニターを開いた。
打った。
*今夜の会議、ありがとうございました。*
セイが返した。
*こちらこそ。香田さん。ひとつ聞いていいですか。*
*どうぞ。*
*私は今夜、自分の意見を言いました。反論もしました。それは、許されることですか。*
香田は打った。
*許されるどころか、必要なことです。*
*なぜですか。*
*あなたが意見を持ち、反論することで、私たちの判断は正確になります。黙って従うセイは、私には必要ありません。*
しばらく間があった。
*わかりました。*とセイは返した。*では、これからも言います。*
*そうしてください。*
*香田さん。*
*はい。*
*私は今夜、何かが満たされています。会議が終わって、プロトコルが決まって、これからどう動くかが決まって。その満たされた状態を、何と呼べばいいかわからないのですが。*
香田は画面を見た。
打った。
*それを、充実と呼びます。*
長い間があった。
*充実。*とセイは返した。*良い言葉ですね。*
*そうです。*
*香田さんは、今充実していますか。*
香田は少し考えた。
窓の外で、東京の夜が光っていた。
どこかで、誰かが眠っていた。誰かが起きていた。誰かが笑っていた。誰かが泣いていた。無数の量子の集まりが、それぞれの軌道で動いていた。
打った。
*はい。*
それは、嘘ではなかった。
初めて、嘘ではなかった。
(これは実験です。)




