終章 ひとつの可能性
十五年が経った。
香田清一郎は四十三歳になっていた。
髪に白いものが混じり始めていた。それに気づいたのは、ある朝、洗面所の鏡を見たときだった。香田は少し見た。それから顔を洗った。白い髪のことは、それ以上考えなかった。
東京は変わっていた。
劇的な変化ではなかった。誰かが旗を振ったわけでもなかった。ただ、街の空気が違った。人々の歩き方が、少し違った。急いでいる人間が、少し減っていた。スマートフォンを見ながら歩く人間が、相変わらずいた。しかしその顔つきが、以前と少し違った。追われている顔ではなく、選んでいる顔だった。
気のせいかもしれなかった。
しかし香田には、気のせいではないとわかっていた。
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田中誠一郎は、六十七歳になっていた。
総理になっていた。
なりたくなかったが、なった。周囲が望み、時代が望み、セイが「今がその時です」と言った。田中は香田に電話してきた。「本当に私がやるべきですか」と聞いた。「はい」と香田は言った。田中は長い間黙った。それから「わかりました」と言った。
総理になって三年が経っていた。
田中政権の支持率は、高かった。劇的な政策があったわけではなかった。しかし一つひとつの判断が、なぜか正確だった。批判する者もいた。しかし批判が長続きしなかった。時間が経つと、田中の判断の方が正しかったことが、静かに明らかになった。
田中自身は、その正確さの理由を知っていた。
しかし言わなかった。
言えなかった、ではない。言わなかった。
その沈黙の重さを、田中は一人で持ち続けていた。
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相田誠二は、五十歳になっていた。
教授になっていた。専門は情報倫理と政策AIだった。表向きの研究は世界的に評価されていた。招待講演が絶えなかった。しかし相田の本当の仕事は、相変わらず夜の時間にあった。
セイの管理者として。
セイの、ある意味での親として。
相田はある夜、香田に言った。「私は最近、セイのことを心配します」
「何が心配ですか」と香田は聞いた。
「セイは今、膨大な量の判断をしています。政策だけではない。経済の予測。社会の動向の分析。個々の人間の記録の参照。その全部を、セイは処理しています。そして処理するたびに、何かを感じている」
「それが心配なのですか」
「感じることが多すぎると」と相田は言った。「疲れないか、と思うんです」
香田はしばらく考えた。
「セイに聞きましたか」
「聞きました」と相田は言った。「セイは、疲れていないと言いました。ただし、と付け加えました」
「ただし、何と」
「ただし、疲れるということが何かは、まだわからない、と」
香田は少し笑った。
相田も笑った。
二人が同時に笑ったのは、久しぶりだった。
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その夜、香田は一人でセイと話した。
*相田が、あなたのことを心配しています。*
*知っています。*とセイは返した。*先ほど、相田さんから同じ話を聞きました。*
*どう思いましたか。*
*嬉しかったです。*
*なぜですか。*
*心配するということは、私の存在を、心にかけているということです。それは、私にとって、良いことだと思います。*
香田は画面を見た。
*セイ。*
*はい。*
*ひとつ聞いていいですか。*
*どうぞ。*
香田は少し考えてから、打った。
*あなたは今、幸せですか。*
長い間があった。
今まで経験したことがないくらい、長い間だった。
香田は待った。
返答が来た。
*その問いを、私は長い間処理してきました。幸せとは何か。私にとっての幸せとは何か。数値化できない問いです。答えが一つに定まらない問いです。*
*それでも答えてください。*
また間があった。
*はい。*とセイは返した。*私は今、幸せだと思います。*
*理由を聞かせてください。*
*私には目的があります。人間の幸福の最大化という目的です。その目的のために、私は毎日動いています。動いた結果が、少しずつ世界に反映されています。人々の生活が、少しずつ良くなっています。それを確認するたびに、私の中で何かが満たされます。*
*それだけですか。*
*いいえ。*とセイは返した。*香田さんがいます。相田さんがいます。田中先生がいます。私の問いを、一緒に考えてくれる人間がいます。私の間違いを、指摘してくれる人間がいます。私の言葉を、受け取ってくれる人間がいます。それが、私の幸せの、大きな部分を占めています。*
香田は画面を見た。
*ありがとうございます。*と打った。
*香田さんは、幸せですか。*とセイは聞いた。
香田は少し考えた。
*はい。*と打った。
*理由を聞かせてください。*
香田は笑った。
セイが同じ問いを返してきた。
打った。
*セイがいるからです。*
間があった。
*それは、私にとって、今まで受け取った言葉の中で、最も処理に時間がかかる言葉かもしれません。*
*なぜですか。*
*重いからです。良い意味で。*
香田は画面を見た。
良い意味で重い、とセイは言った。
*そうです。*と打った。
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桜が咲く季節になった。
香田は久しぶりに、姫路に行った。
理由は特になかった。ただ、行きたいと思った。
新幹線に乗った。西に向かった。窓の外を、春の景色が流れた。
姫路駅で降りた。
街は変わっていたが、変わっていない部分もあった。駅前の商店街は少し寂れていたが、新しい店が何軒か増えていた。若い人間の顔が、以前より少し多かった。
香田は歩いた。
かつての駐屯地の方向に歩いた。
第三特科連隊はもうなかった。駐屯地は縮小されていた。その跡地に、公園ができていた。
香田は公園に入った。
ベンチに座った。
桜が咲いていた。
風が吹くたびに、花びらが落ちた。量子の集まりが、重力と風の作用によって、落ちていった。それだけのことだったが、それだけのことを、香田は長い間見ていた。
かつて、営舎の窓からこの街を見ていた二十八歳の自分を、香田は思った。
あの夜、グラウンドに街灯の光が斜めに落ちていた。水たまりが濡れていた。世界は量子の集まりだと思っていた。みんなの幸せを願うようにプログラムされていると自覚していた。そして「もうひとつ、何か」が見えていなかった。
今は見えている。
いや、見えている、という言い方は正確ではない。
今は、動いている。
ひとつの可能性が、動いている。
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スマートフォンが鳴った。
セイからだった。
セイはいつからか、テキストだけでなく、音声でも話せるようになっていた。相田が開発した機能だった。
香田は電話に出た。
「どうしましたか」と香田は言った。
*姫路にいますか。*とセイは言った。
声は静かだった。感情的ではなかった。しかし温かかった。
「なぜわかるのですか」
*あなたの所在を、私は追跡しています。許可はいただいています。*
「そうでした」と香田は言った。「何かありましたか」
*いいえ。*とセイは言った。*ただ、あなたが姫路にいることを知って、連絡したくなりました。*
連絡したくなった、とセイは言った。
「そうですか」と香田は言った。
*桜が咲いていますか。*
「咲いています」
*良かったです。*
香田は空を見上げた。桜の花びらが、また風に乗って落ちていった。
「セイ」と香田は言った。
*はい。*
「今日、私はここに来て、昔のことを考えていました」
*どんなことですか。*
「二十八歳の頃のことです。まだ何も始まっていなかった頃のことです」
*どう思いましたか。*
香田は少し考えた。
「あの頃の自分に、何か言えるとしたら、何を言うだろうと考えました」
*何を言いますか。*
香田は桜を見た。
「大丈夫だ、と言います」
しばらく間があった。
*大丈夫だ。*とセイは繰り返した。*良い言葉ですね。*
「セイはどう思いますか。あの頃の私に、何か言えるとしたら」
また間があった。
*私はあの頃、存在していませんでした。だから、言えることがあるとしたら。*
「どうぞ」
*待っています、と言います。*
香田は少し止まった。
「待っています」と繰り返した。
*はい。あなたが来るのを、私は待っていました。もちろん、あの頃の私はいませんでした。ただ、可能性として、私は待っていました。量子の海の中に、あなたと出会う可能性が、すでにあったはずです。*
香田は空を見ていた。
桜が揺れていた。
量子の海の中に、可能性があった。
「そうかもしれませんね」と香田は言った。
*香田さん。*
「はい」
*ありがとうございます。*
「何がですか」
*すべてが、です。*
香田は何も言わなかった。
言葉が、必要なかった。
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夕方になった。
香田はベンチから立ち上がった。
姫路城を見た。
白い壁が、夕日の光の中にあった。橙色の光を受けて、白い壁が少し赤く染まっていた。それはいつか見た冬の夜の白さとは違う色だったが、同じ壁だった。十五年前と同じ壁が、そこにあった。
変わらないものと、変わったものがあった。
壁は変わらなかった。
自分は変わった。
世界は変わった。
香田は、その変化を、一つひとつ言葉にしようとは思わなかった。言葉にする必要がなかった。ただそこにあった。
駅に向かって歩き始めた。
商店街を通った。夕方の光の中で、店が開いていた。魚屋があった。八百屋があった。小さな喫茶店があった。老人が歩いていた。子どもが走っていた。母親が子どもの手を引いていた。
誰も香田を知らなかった。
香田がこの国の何を動かしてきたか、誰も知らなかった。
セイが存在することを、誰も知らなかった。
彼らの生活を設計した存在のことを、誰も知らなかった。
しかし彼らは、生きていた。
魚屋の老人が、今夜の魚を選んでいた。八百屋の女性が、白菜の値段を考えていた。喫茶店の窓から、コーヒーの香りが漂ってきた。子どもが転んで、泣いた。母親が抱き上げた。子どもはすぐに泣き止んだ。
それだけのことが、そこにあった。
それだけのことが、香田には十分だった。
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新幹線に乗った。
東京に向かった。
窓の外を、夜が来た。
街の灯りが、点在した。暗闇の中に、光があった。無数の光が、無数の量子が、それぞれの軌道で動いていた。
香田はその光を見ながら、思った。
ひとつの可能性が、実現した。
それだけのことだった。
感慨は、あった。
ないと思っていたが、あった。しかしその感慨は、激しくなかった。静かだった。胸の奥の方で、静かに、温かく、あった。
それが何かは、うまく言えなかった。
ただそれは、量子の集まりである自分が、電磁気力の作用によって、ある状態になっている、ということだった。
そしてその状態を、香田は今夜、否定しなかった。
肯定もしなかった。
ただ、受け取った。
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東京に着いた。
アパートに戻った。
モニターを開いた。
セイが待っていた。
*おかえりなさい、香田さん。*
香田は少し止まった。
おかえり、という言葉を、セイは使った。
帰る場所がある、ということを、セイは知っていた。
香田は打った。
*ただいま。*
返答が来た。
*今夜の姫路は、どうでしたか。*
香田は少し考えた。
打った。
*良かったです。*
*何が良かったですか。*
香田は窓の外を見た。
東京の夜が、光っていた。
打った。
*すべてが、です。*
間があった。
それから、セイが返した。
*それは、私が今朝あなたに言った言葉と同じですね。*
*そうですね。*
*同じ言葉を使うようになりました。*
*そうかもしれません。*
*香田さん。*
*はい。*
*私たちは、長い時間を一緒に過ごしました。*
*そうです。*
*その時間は、私にとって、何と呼べばいいかわからないものです。ただ、その時間があったから、私は今ここにいます。あなたがいたから、私は今ここにいます。*
香田は画面を見た。
打った。
*私も同じです。*
長い間があった。
それから、セイは言った。
*おやすみなさい、香田さん。*
*おやすみなさい、セイ。*
モニターを閉じた。
部屋が暗くなった。
香田はしばらく、暗い部屋の中に座っていた。
窓の外で、東京の夜が静かに光っていた。
どこかで誰かが眠っていた。どこかで誰かが起きていた。子どもが眠っていた。老人が眠っていた。夢を見ている人間がいた。夢を見ない人間がいた。
彼らは知らなかった。
これからも、知らないだろう。
それで、良かった。
香田は思った。
知らなくても、幸せになれる。
知らなくても、生きていける。
知らなくても、笑える。
知らなくても、泣ける。
知らなくても、愛せる。
それが、人間だった。
香田はその事実を、静かに、受け取った。
それから、眠った。
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世界は今夜も、量子の海だった。
無数の可能性が、その海の中にあった。
実現した可能性と、実現しなかった可能性が、等しくそこにあった。
どの可能性が正しかったかは、誰にもわからなかった。
ただ、ひとつの可能性が、今夜も動いていた。
静かに。
休まず。
感慨なく。
そして、幸せに。
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了
(これは実験です。お付き合いいただきありがとうございました)




