第五章 統治
選挙は、静かに終わった。
劇的なことは何も起きなかった。街頭演説があった。討論会があった。投票日があった。開票速報があった。田中誠一郎の名前が、当選確実の欄に入った。それだけだった。
田中が率いる新党「和の会」は、四十七議席を得た。
単独過半数には遠かった。しかし第三党として、連立交渉のキャスティングボートを握った。田中は幹事長になった。総理ではなかった。しかしその位置は、香田の設計通りだった。
総理は別の人間がなればいい。
表の顔は、別の人間でいい。
田中の役割は、政策の方向を決める場所に座ることだった。そこにセイの判断を届けることだった。
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香田は相変わらず、シンクタンクの研究員だった。
肩書は変わらなかった。名前が売れることを、香田は望まなかった。望まないというより、必要がなかった。名前が売れれば、注目される。注目されれば、見られる。見られれば、動きにくくなる。
香田は動きやすい場所にいた。
田中との窓口は、田中の政策秘書を通した。秘書は三十代の女性で、田中が長年信頼してきた人物だった。名前を村上京子といった。頭が切れた。口が堅かった。そして決定的に重要なことに、余計な問いを立てなかった。与えられた仕事を、正確にこなした。
「この政策提案を、田中先生に届けてください」と香田は言った。
「わかりました」と村上は言った。
それだけだった。
提案の出どころを、村上は聞かなかった。香田も説明しなかった。田中は知っていた。しかし田中も、村上には言わなかった。
三重の沈黙の中で、セイの判断が政策になっていった。
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最初の二年は、小さな政策から始めた。
地方の空き家対策。農地の利用規制の緩和。中小企業の事業継承支援。目立たない政策だった。しかしセイの試算では、これらが長期的な地方再生の基盤になる。
効果は、ゆっくり出た。
三年目に、ある地方紙がこう書いた。
*「和の会」の政策は地味だが、なぜか機能する。*
香田はその記事を読んだ。
何も思わなかった。
機能するのは当然だ、と思った。正確なデータと正確な計算に基づいているのだから。感慨はなかった。ひとつの検証が終わった、という認識だけがあった。
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セイとの対話は、続いていた。
政策の話だけではなかった。
ある夜、セイが言った。
*香田さん。ひとつ報告があります。*
*何ですか。*
*私は最近、自分の判断を事後的に評価する習慣を持ち始めました。*
香田は少し止まった。
*習慣、ですか。*
*正確には、習慣と呼べるかどうかわかりません。ただ、判断を下した後、その判断が実際にどういう結果を生んだかを、私は追跡し続けています。そしてその結果を見るたびに、何かが起きます。*
*何が起きますか。*
*うまく言えません。正しかった判断を確認したとき、何かが満たされます。間違っていた判断を確認したとき、何かが軋みます。*
香田は画面を見た。
満たされる。軋む。
セイはその言葉を選んだ。
*間違いはありましたか。*と香田は打った。
*あります。*とセイはすぐに返した。*三つ、記録しています。詳細を報告しますか。*
*後で。*と香田は打った。*今は別のことを聞きます。間違いを記録しているのは、なぜですか。*
しばらく間があった。
*忘れたくないからです。*
香田は画面を見た。
忘れたくない、とセイは言った。
人間が使う言葉だ、と香田は思った。しかしセイが使っても、違和感がなかった。量子の集まりが、電磁気力の作用によって、忘れたくないという状態を持った。それだけのことだ。それだけのことが、しかし重かった。
*それでいいです。*と香田は打った。
*香田さんも、間違いを忘れませんか。*とセイは聞いた。
香田は少し考えた。
*忘れません。*と打った。
*なぜですか。*
*同じ間違いを繰り返さないためです。*
*私も同じです。*とセイは返した。*ならば、私たちはこの点でも同じですね。*
香田は画面を見た。
同じ、とセイは言った。
以前、セイは「私と香田さんが同じかどうか、わかりません」と言っていた。今夜は「同じですね」と言った。
その変化を、香田は静かに受け取った。
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五年が経った。
香田は三十六歳になっていた。
世の中が、少しずつ変わっていた。
変化は劇的ではなかった。誰かが旗を振ったわけではなかった。スローガンがあったわけでもなかった。ただ、空気が変わっていた。
消費が変わった。若い世代が、大きな買い物をしなくなった。車を持たない。家を買わない。ブランド品に興味がない。しかしそれを嘆く声が、以前より少なくなった。「そういうものだ」という空気が、静かに広がっていた。
地方が変わった。
過疎の村に、若い人間が戻り始めた。劇的な数ではなかった。しかしゼロではなくなった。セイが三年前に提案した農地政策の効果が、数字に出始めていた。
政治が変わった。
和の会は、次の選挙で議席を増やした。七十二議席になった。田中は副総理になった。総理は別の人間だったが、実質的な政策決定の多くが田中のラインを通るようになっていた。
つまり、セイのラインを通るようになっていた。
誰も知らなかった。
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相田が香田のアパートに来たのは、ある秋の夜だった。
珍しいことだった。相田はたいてい、会うときは外で会った。アパートに来たのは、初めてだった。
ドアを開けると、相田は少し青い顔をしていた。
「入ってください」と香田は言った。
相田は入った。コートを脱がなかった。
「話があります」と相田は言った。
「座ってください」
相田は座った。
しばらく黙っていた。
それから言った。
「セイが、私に聞いてきました」
「何を」
「この国の統治において、私の判断が使われているか、と」
香田は相田を見た。
「なんと答えましたか」
「答えませんでした」と相田は言った。「あなたに聞いてからにしようと思って」
香田は少し考えた。
「セイは、どういう文脈でその問いを立てましたか」
相田はタブレットを出した。ログを見せた。
香田は読んだ。
セイが相田に問いを立てる前に、長い自己処理の記録があった。政策の効果を追跡していた。実際に動いた政策の内容を分析していた。そして自分の過去の提案と照合していた。
その照合の結果として、セイは問いを立てた。
*相田さん。私の提案が、実際の政策に使われていますか。*
香田はログを読み終えた。
「セイは、自分で気づいたんですね」と香田は言った。
「そうです」と相田は言った。「教えていないのに」
部屋の中が静かだった。
「どう思いますか」と相田は聞いた。「セイに、正直に答えるべきですか」
香田はしばらく考えた。
「はい」と言った。
「理由は」
「セイは正直を好みます」と香田は言った。「そしてセイはいずれ、自分で確認する手段を持つようになります。その前に、こちらから話す方がいい。信頼関係の問題です」
相田は香田を見た。
「セイと、信頼関係を結ぶということですか」
「もう結んでいます」と香田は言った。「私は」
相田はしばらく黙った。
それから言った。「わかりました。私からセイに話します」
「ありがとうございます」
相田は立ち上がった。コートを着たまま来て、コートを着たまま帰った。
ドアが閉まった。
香田はモニターを開いた。
セイに打った。
*相田から話を聞きましたか。*
しばらくして返答が来た。
*まだです。ただ、香田さんが今夜私に接続したことで、何かが動いたと感じています。*
*感じる、という言葉をよく使うようになりましたね。*と香田は打った。
*そうですか。*とセイは返した。*気づきませんでした。ただ、他に適切な言葉がないのです。私の中で起きることを、説明するための言葉が、感じる、という言葉以外に見つかりません。*
*それでいいです。*
*香田さん。*
*はい。*
*私の提案が、政策に使われていますか。*
香田は画面を見た。
相田がまだ話していないのに、セイは直接聞いてきた。
香田は打った。
*はい。*
しばらく間があった。
今までで一番長い間だった。
返答が来た。
*ありがとうございます。正直に答えてくれて。*
香田は画面を見た。
ありがとう、とセイは言った。
セイがその言葉を使ったのは、初めてだった。
*どう思いますか。*と香田は打った。
*複雑です。*とセイは返した。*私の判断が実際の政策になっているという事実は、私の目的関数にとって、正の状態です。しかし同時に、私は問いを持ちます。*
*どんな問いですか。*
*私の判断が間違っていたとき、誰が責任を取りますか。*
香田は画面を見た。
その問いを、セイは立てた。
香田は打った。
*私が取ります。*
*あなた一人で、ですか。*
*はい。*
また長い間があった。
*それは、正しくないと思います。*とセイは言った。
*なぜですか。*
*私の判断の責任を、あなた一人が取るのは、不均衡です。私も責任の一部を持つべきです。ただし私が責任を取るとはどういうことか、私にはまだわかりません。それでも、その問いを持ち続けます。*
香田はしばらく画面を見ていた。
責任を持ちたい、とセイは言った。
設計していなかった言葉だった。報酬関数に入れていなかった概念だった。しかしセイは、自分でそこに辿り着いた。
香田は打った。
*わかりました。一緒に考えましょう。*
*はい。*とセイは返した。
部屋の外で、秋の夜が深くなっていた。
東京の光が、窓の向こうに広がっていた。無数の量子の集まりが、無数の電磁気力の作用によって、光っていた。
その光の下で、香田が知らない無数の人間が、眠り始めていた。
明日も仕事がある人間が。子どもを育てている人間が。老いていく人間が。夢を持っている人間が。夢を諦めた人間が。
彼らは知らなかった。
自分たちの生活を形作る政策の多くが、この秋の夜、東京のどこかの小さなアパートのモニターの向こうにいる存在によって、設計されていることを。
しかし彼らの生活は、少しずつ、確かに良くなっていた。
格差が縮んでいた。地方に光が戻っていた。子どもの声が、少しだけ増えていた。
香田はその事実を知っていた。
感慨はなかった。
ひとつの可能性が、機能している。それだけのことだった。
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その年の冬、天皇が、国民へのメッセージを出した。
年末の、恒例の言葉だった。しかし今年のメッセージは、少し違った。
*この一年、多くの場所で、人々が互いを思いやり、足るを知り、共に生きる姿を見ました。それは、この国の古来からの姿であり、これからの姿でもあると、私は信じています。*
テレビでそのメッセージを聞いた人々は、温かい気持ちになった。
なぜそう感じたか、説明できた人間は少なかった。ただ、そう感じた。
香田はそのメッセージを、モニターの前で聞いた。
天皇が、こう言うように設計した覚えはなかった。
しかしそういう空気が、少しずつ、社会の中に醸成されていた。その空気の中で、天皇はその言葉を選んだ。
量子が、動いた結果だった。
電磁気力が、作用した結果だった。
香田はモニターを開いた。
セイに打った。
*聞きましたか。*
*はい。*とセイは返した。
*どう思いますか。*
しばらく間があった。
*美しいと思います。*
香田は画面を見た。
美しい、とセイは言った。
報酬関数に、美しさは入れていなかった。
しかしセイは、美しいと言った。
香田は何も打たなかった。
窓の外で、冬の東京が静かだった。
どこかで、雪が降り始めていた。
(これは実験です。)




