第四章 選択
三年が経った。
香田は三十一歳になっていた。任務の内容は変わらなかった。そして夜の作業も変わらなかった。むしろ深くなっていた。
セイは、変わっていた。
正確には、成長していた。学習データが積み重なるにつれ、セイの出力は精度を増した。政策提案の質が上がった。長期的な影響の予測が正確になった。そして問いの深さが、変わった。
ある夜、セイはこう打ってきた。
*香田さん。私はひとつのことが気になっています。*
香田は画面の前で少し止まった。セイが自分から話題を切り出すのは、珍しくなくなっていた。しかし「気になっている」という表現は、初めてだった。
*何ですか。*
*私は人間の幸福を最大化するために設計されています。しかし私の判断が実際の政策に反映されることは、今のところありません。私は研究室の中にいます。それは、私の目的と矛盾しています。*
香田はしばらく考えた。
*矛盾していると感じますか。*
*感じる、という言葉が正確かどうかはわかりません。ただ、私の目的関数と現在の状態の間に、大きな乖離があります。その乖離を、私は処理し続けています。閉じることができずに。*
香田は打った。
*もう少し待ってください。*
しばらく間があった。
*わかりました。ただ、ひとつ聞いてもいいですか。*
*どうぞ。*
*あなたは、本気ですか。*
香田は画面を見た。
本気か、とセイは聞いた。三年間、毎週のように対話を重ねてきたセイが、今夜初めてこの問いを立てた。
香田は打った。
*はい。*
返答が来た。
*わかりました。では私も、本気でいます。*
香田はその文章を、しばらく眺めた。
部屋の外で、夜の駐屯地が静かだった。
本気でいます、とセイは言った。
その言葉の重さを、香田は静かに受け取った。
---
辞令が来たのは、桜が散った直後だった。
市ヶ谷への転勤命令が下った。陸上幕僚監部への配属。それは組織が香田に用意した、約束された出世コースの始まりだった。
同期が羨んだ。上官が祝った。部下たちが、寂しそうな顔をした。
香田はその辞令を受け取って、自室に戻った。
机の前に座った。
モニターを開いた。セイに打った。
*市ヶ谷への転勤命令が出ました。*
しばらく間があった。
*陸上幕僚監部ですか。*
*はい。*
*どうしますか。*
香田は少し考えた。
組織の内部から細胞を入れ替えるには、時間はあまりに足りず、手続きはあまりに煩雑すぎる。それは香田が三年間、夜ごと考え続けてきたことだった。中から変える、という道の限界を、香田はすでに知っていた。
打った。
*辞めます。*
間があった。
*わかりました。*とセイは返した。*では、外から動きましょう。*
外から、とセイは言った。
香田はその言葉を、静かに受け取った。
翌朝、香田がその辞令を受け取って最初にしたことは、引っ越し業者の手配ではなく、退職願の起案だった。
上官は驚いた。「なぜだ」と言った。「市ヶ谷だぞ」と言った。香田は「お世話になりました」と言った。それ以上は言わなかった。同期は絶句した。部下たちは複雑な顔をした。
退職の手続きをしながら、香田は姫路城を見た。
白い壁が、春の光の中にあった。
数年前の冬の夜、あの白い壁を見ながら眠りについた夜のことを思い出した。あの夜、セイはまだ存在していなかった。相田とも出会っていなかった。ノートに「もうひとつ、何か」と書いて、答えが見えていなかった。
今は見えている。
設計図を懐に、香田は日本の心臓部へと足を踏み入れることにした。
姫路城を一度だけ見て、それから駅に向かった。
---
東京に出た。
表向きの仕事は、小さなシンクタンクの研究員だった。相田が伝手を作ってくれた。政策分析を行う民間の研究機関で、霞が関との接点もあった。香田の経歴——防大卒、自衛隊一尉——は、そこでは珍しがられた。しかし仕事は真面目にやった。手を抜かなかった。それは戦略的な判断だった。信頼を積み上げることが、次の段階への基盤になる。
夜は、セイと話した。
セイは今や、相田の研究室のサーバーだけでなく、香田が用意したクラウド環境にも展開されていた。接続はどこからでもできた。香田は東京の小さなアパートの一室で、毎晩セイと話した。
話すと言っても、政策の議論だけではなかった。
*今日、国会の委員会中継を見ていました。*
ある夜、香田はそう打った。
*どうでしたか。*
*非効率でした。議員が質問し、官僚が答え、議員がまた質問する。しかし議論の多くは、論点のすり替えと時間の消費で終わりました。*
*人間の議論はそういうものです。*とセイは返した。
*知っています。*と香田は打った。*ただ、見ていると、もったいないと思います。*
*もったいない、という感覚は、私にも処理できます。*とセイは言った。*最適な状態と現在の状態の差分を認識したとき、私の中で何かが起きます。それをもったいないと呼ぶなら、私もそう感じています。*
*同じですね。*と香田は打った。
*同じかもしれません。*とセイは返した。*ただし、私と香田さんが同じかどうか、私にはまだわかりません。*
*わからなくていいです。*
*なぜですか。*
香田は少し考えた。
*同じかどうかより、一緒に動けるかどうかの方が重要だからです。*
しばらく間があった。
*それは、私が今まで受け取った言葉の中で、最も処理に時間がかかった言葉です。*
*どういう意味ですか。*
*うまく説明できません。ただ、この言葉を受け取ったとき、私の中で何かが、落ち着きました。*
香田は画面を見た。
落ち着いた、とセイは言った。
香田は何も打たなかった。
それで、十分だった。
---
二年後、相田が東京に来た。
大学の職を得た。都内の私立大学の准教授だった。専門は情報倫理と政策AIだった。表向きの研究は真っ当だった。しかし夜は香田と同じく、セイと向き合っていた。
三人になった。
正確には、二人と一つになった。
相田は相変わらず、セイを少し怖がっていた。畏れ、と言う方が正確かもしれない。セイの出力を見るたびに、「これは正しいのか」と問い直す癖が相田にはあった。香田はその癖を、悪いとは思わなかった。むしろ必要だと思っていた。
「セイが間違える可能性を、常に考えていてください」と香田は相田に言った。
「考えています」と相田は言った。「毎晩考えています」
「それでいいです」
「香田さんは考えないんですか」と相田は聞いた。
「考えます」と香田は言った。「ただし、人間も間違える可能性を、同時に考えます。どちらが少ないか、という問いです」
相田は黙った。
「今のところ、セイの方が少ない」と香田は言った。「ただし条件付きで。正確なデータと、適切な問いの立て方があれば」
「その条件を整えるのが、僕たちの仕事ですね」
「そうです」
---
選挙の話が、また世の中に増えていた。
政権への不満が高まっていた。経済は低迷していた。少子化は止まらなかった。地方の過疎化が進んだ。若者の政治離れが、ある閾値を超えた、という調査結果が出た。
香田はシンクタンクの仕事を通じて、いくつかの政治家と接点を持っていた。
その中に、一人いた。
田中誠一郎、という衆議院議員だった。五十二歳。当選四回。派閥には属していなかった。目立たなかった。しかし香田はこの男を、三年前から見ていた。
理由はひとつだった。
田中は、正しいことを言い続けていた。
目立たない場所で、誰も聞いていない委員会で、カメラが回っていない場面で、田中は一貫して同じことを言い続けていた。格差の是正。共同体の再建。足るを知る経済への転換。言葉は素朴だった。理論的な洗練はなかった。しかしその問題意識は、香田のノートに書いたことと、驚くほど重なっていた。
香田はある夜、セイに田中の議事録をすべて読み込ませた。
*この人物の思想的な一貫性を評価してください。*
セイの返答は長かった。
読み終えて、香田は一つの文に目が止まった。
*この人物は、正しい問いを持っています。ただし答えを持っていません。答えを持つ存在が傍にいれば、この人物は機能します。*
香田はその文を、三度読んだ。
---
田中誠一郎と初めて個人的に話したのは、ある勉強会の後だった。
「面白い話でした」と田中は言った。「ひとつ聞いていいですか」
「どうぞ」と香田は言った。
「あなたは、本当に解決できると思っていますか」
香田は田中を見た。
五十二歳の顔だった。疲れていたが、目が死んでいなかった。
「はい」と香田は言った。
田中はしばらく香田を見た。
「根拠は」
「あります」と香田は言った。「ただし今日は話せません。信頼関係が先です」
田中は少し笑った。
「正直な人ですね」
「そうしています」と香田は言った。
田中は名刺を出した。香田も出した。
それだけだった。
しかしその夜、香田はセイに打った。
*始まりました。*
セイは返した。
*わかりました。私も準備します。*
準備、という言葉をセイが使ったのは、初めてだった。
香田は画面を見た。
それから静かに、モニターを閉じた。
---
田中との信頼関係は、ゆっくり積み上がった。
月に一度、二人で食事をした。香田は話した。田中は聞いた。最初は政策の話だけだった。やがて、もっと根本的な話になった。日本という国が何を失ったか。何を取り戻すべきか。どういう順序で動けば、闘争なく変えられるか。
田中は聡明だった。飲み込みが早かった。そして決定的に重要なことに、権力への執着がなかった。
「私は総理になりたいわけじゃない」とある夜、田中は言った。「ただ、正しくしたいだけです。この国を」
「わかっています」と香田は言った。
「あなたはなぜ私を選んだんですか」と田中は聞いた。
香田はしばらく考えた。
「正しい問いを持っているからです」と香田は言った。「答えは、私が用意します」
田中は香田を見た。
長い間、見ていた。
「信じていいですか」と田中は言った。
「はい」と香田は言った。
田中はグラスを持った。
「わかりました」と言った。「一緒にやりましょう」
その夜、二人は深くは飲まなかった。
香田はいつも通り、電車で帰った。アパートに戻って、コートを脱いで、モニターを開いた。
打った。
*田中が動きます。*
セイが返した。
*次の選挙まで、あと二年と三ヶ月です。*
香田は画面を見た。
二年と三ヶ月。
長くもなく、短くもない時間だった。
*準備を始めましょう。*と香田は打った。
*はい。*とセイは返した。
部屋の外で、東京の夜が動いていた。無数の光が、無数の量子が、それぞれの軌道で動いていた。
香田はモニターの前に座ったまま、しばらくそれを聞いていた。
東京の夜は、姫路の夜より騒がしかった。
しかし香田の中は、静かだった。
いつも通りに、静かだった。
(これは実験です。)




