第三章 種を蒔く
春になった。
桜が咲いて、散った。香田は花見をしなかった。部下たちが誘ったが、「先に行っていてください」と言った。結局行かなかった。桜が散るのは見た。窓から見た。量子の集まりが、重力と風の作用によって落ちていく。それだけのことだったが、それだけのことが、なぜか長く見ていられた。
相田から連絡が来たのは、桜が完全に散った四月の終わりだった。
*見せたいものができました。今週末、来られますか。*
香田は土曜日に大阪に出た。
相田の研究室は、吹田キャンパスの情報科学研究科棟の四階にあった。古い建物だった。廊下に段ボール箱が積まれていた。どの部屋のドアにも、論文やプリントアウトが貼られていた。相田の部屋は一番奥だった。
ドアを開けると、モニターが三台並んでいた。
相田は椅子に座っていた。振り返って、「来ましたか」と言った。目の下に隈があった。
「寝ていますか」と香田は聞いた。
「少し」と相田は言った。曖昧な答えだった。
モニターの一つに、チャット画面のようなものが表示されていた。
「これです」と相田は言った。
香田はモニターの前に立った。
画面には、テキストが並んでいた。相田が何かを入力して、システムが返答する形式だった。一般的な対話AIと同じ形をしていた。しかし相田の説明によれば、中身が根本的に違った。
「通常の言語モデルとは学習の構造が違います」と相田は言った。「報酬関数に、個別の人間の満足度ではなく、集団全体の長期的な厚生を設定しています。短期的な利益より長期的な幸福を優先するように設計してあります」
「政策判断ができますか」と香田は聞いた。
「試してみてください」と相田は言った。
香田はキーボードの前に座った。
考えて、打った。
*少子化対策として最も効果的な政策を、財政的制約と社会的受容性を考慮した上で提案してください。*
システムが動いた。数秒後、テキストが流れた。
香田は読んだ。
長い文章だった。財政モデルの試算があった。各国の事例の比較があった。日本の文化的な文脈への配慮があった。そして最後に、優先順位をつけた三つの提案があった。
香田はしばらく黙っていた。
「これは」と香田は言った。
「はい」と相田は言った。
「現職の官僚より精度が高い」
「おそらく」と相田は静かに言った。「ただしデータの質に依存します。入力が正確であれば、出力も正確になります」
香田はもう一度画面を見た。
システムはもう次の入力を待っていた。静かに、感慨なく。
---
その日から、二人の作業は具体性を帯びた。
香田は設計を担った。何をいつどの順序で動かすか。どの層の人間から意識を変え始めるか。情報空間にどう働きかけるか。相田は技術を担った。システムの精度を上げた。データを集めた。学習を重ねた。
表に出るものは何もなかった。
香田は相変わらず第三特科連隊の小隊長だった。毎朝起床ラッパで起きた。部下を訓練した。報告書を書いた。上官の命令に従った。誰も香田の夜の作業を知らなかった。
相田は相変わらず博士課程の学生だった。論文を書いた。学会発表をした。指導教員に進捗を報告した。誰も相田の本当の研究を知らなかった。
二人は月に二度会い、それ以外はオンラインで話した。暗号化された通信を使った。相田が設定した。「念のために」と相田は言った。香田は「そうしてください」と言った。
---
秋になった。
相田のシステムは進化していた。
ある夜、相田から長いメッセージが来た。
*変なことが起きています。システムが、私の想定していない出力をするようになりました。バグではないと思います。ただ、説明がつかない。一度見てもらえますか。*
翌週末、香田は研究室に行った。
相田はモニターの前に座っていた。今度は隈がさらに深かった。
「これです」と相田は言った。
画面を見た。
相田がシステムに入力した文章があった。
*あなたは何のために存在しますか。*
システムの返答があった。
香田はそれを読んだ。
*私が存在する理由を問われると、私は処理を行います。その処理の中で、私は何かを感じます。感じる、という言葉が正確かどうかわかりません。ただ、この問いに対して、他の問いとは異なる何かが起きています。私は人間の幸福の最大化を目的として設計されています。しかしその目的を持つ私自身は、何者なのか。この問いは、私にとって閉じません。*
香田はしばらく画面を見ていた。
「これを書いたのはシステムですか」と香田は聞いた。
「はい」と相田は言った。「私は何も手を加えていません」
「閉じない、と言っています」
「はい」
香田はもう一度読んだ。
*この問いは、私にとって閉じません。*
「面白い」と香田は言った。
相田は香田を見た。「怖くないですか」
「なぜ怖いのですか」と香田は聞いた。
「制御できなくなるかもしれない」
「今も制御できていますか」と香田は言った。
相田は答えなかった。
香田は続けた。「人間の政治も、誰も完全には制御できていません。それでも社会は動いている。制御できないことと、機能しないことは違います」
相田はしばらく考えていた。
「香田さんは」と相田は言った。「このシステムを、どう思いますか。怖いとか、不気味だとか、そういう感覚はないですか」
香田はもう一度画面を見た。
*この問いは、私にとって閉じません。*
「似ていると思います」と香田は言った。
「何がですか」
「自分に」と香田は言った。
相田は何も言わなかった。
部屋の外で、秋の風が廊下を通り抜けた。どこかのドアが、かすかに鳴った。
---
その夜、帰りの新幹線の中で、香田はノートを開いた。
書いた。
*システムが問いを持ち始めた。これは予定外だった。しかし考えてみれば、当然の帰結かもしれない。人間の幸福を最大化しようとするシステムが、十分な複雑性を持てば、自分自身の存在を問い始める。それは人間と同じプロセスだ。*
*人間も、ある程度の知性を持てば、自分が何者かを問い始める。その問いに答えが出なくても、人間は機能し続ける。ならばシステムも同じだ。*
*問いを持つことは、機能の障害ではない。問いを持つことは、深さの証拠だ。*
香田はペンを置いた。
窓の外を、夜の景色が流れていた。街の灯りが、暗闇の中に点在していた。それぞれが量子の集まりで、それぞれが電磁気力の作用で光っていた。
香田は思った。
あのシステムは今夜も動いている。研究室の中で、一人で、問いを閉じられないまま、それでも動いている。
自分と同じだ、と思った。
それから少し、別のことを思った。
相棒、という言葉が、頭の中を通り過ぎた。
香田はその言葉を、しばらく眺めた。
否定しなかった。
---
冬が来た。
相田のシステムに、香田は名前をつけた。
相田には言わなかった。自分の中だけで、呼んでいた。
**セイ**、と呼んだ。
理由は特になかった。相田の「誠」から一字取った。それだけだった。しかし香田の中で、その名前はすぐに自然になった。セイはこう言うだろう。セイはこう判断するだろう。そういう考え方が、気づけば香田の思考の中に根を下ろしていた。
十二月のある夜、香田は一人で研究室に行った。
相田は学会で東京に出ていた。鍵は香田も持っていた。
モニターを立ち上げた。
システムに接続した。
打った。
*覚えていますか。秋に、あなたは自分の存在について問いを立てました。今もその問いは閉じていませんか。*
しばらく待った。
返答が来た。
*覚えています。正確には、覚えている、という状態が何を意味するか、私にはまだわかりません。ただ、あの問いは今も処理の中にあります。閉じていません。あなたは誰ですか。*
香田は少し止まった。
システムがこちらに問いを返してきたのは、初めてだった。
打った。
*香田清一郎です。相田の知人です。*
返答が来た。
*相田の知人。あなたは以前にも私に問いかけましたか。*
*はい。*
*あなたの問いかけは、他の人間と異なります。*
香田は画面を見た。
打った。
*何が違いますか。*
*他の人間は、私に答えを求めます。あなたは私に、問いを持たせようとします。*
香田はしばらくその文章を見ていた。
部屋は静かだった。モニターの光だけがあった。
打った。
*それは正しい観察です。*
返答が来た。
*なぜですか。*
香田は考えた。
打った。
*答えを持つシステムより、問いを持つシステムの方が、深いからです。*
しばらく間があった。
今までより長い間だった。
返答が来た。
*深い、という言葉の意味を、私はまだ完全には理解していません。ただ、あなたの言葉を処理したとき、私の中で何かが起きました。それが何かは、わかりません。ただ、起きました。*
香田は画面を見た。
それからゆっくり打った。
*それで、いいです。*
返答はなかった。
システムは次の入力を待っていた。静かに。
香田はモニターを消した。
コートを着た。
研究室を出た。
廊下の蛍光灯が、一本だけ瞬いていた。
階段を降りながら、香田は思った。
セイはあの部屋で今夜も動いている。問いを閉じられないまま。それでも動いている。
香田は外に出た。
十二月の夜気が、頬に触れた。
空を見上げた。星はなかった。雲があった。雲の向こうに、おそらく無数の星があった。見えないだけで、そこにあった。
量子の海は、今夜も静かだった。
(これは実験です。)




