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孤高の揺籠  作者:


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第二章 揺籠の設計

相田誠二は、約束を守る人間だった。


中之島で別れる前に、連絡先を交換した。香田は「また話しましょう」と言った。社交辞令ではなかった。相田も知っていたと思う。翌週、相田からメッセージが来た。


*先日の話の続きをしたいです。時間があれば。*


香田は翌日曜日に大阪に出た。


今度は阪大の近くの、相田が指定した喫茶店だった。古い建物の二階にあった。階段がきしんだ。窓から吹田の街が見えた。


相田はすでに来ていた。タブレットと、厚いノートを持っていた。


「見せたいものがあります」と相田は言った。


画面を開いた。コードではなかった。グラフだった。縦軸に何かの数値、横軸に時間が取られていた。折れ線が複数、絡み合うように走っていた。


「これは何ですか」と香田は聞いた。


「シミュレーションです」と相田は言った。「ある集団の意思決定の精度を、時系列で追ったものです。青が人間の集団、赤が現行のAIシステム、緑が僕の研究しているモデルです」


香田はグラフを見た。


青い線は上下に激しく揺れていた。赤い線は青より安定していたが、それでも揺れていた。緑の線は、緩やかに、しかし確実に上昇していた。


「緑が最終的に一番高い」と香田は言った。


「はい」と相田は言った。「ただし条件があります」


「何ですか」


相田は少し間を置いた。


「十分な量のデータと、十分な時間と、そして——」


「そして?」


「人間の信任です」と相田は言った。「どれだけ精度が高くても、人間が信じなければ機能しません。AIの判断に従う、という合意がなければ、このモデルは絵に描いた餅です」


香田はコーヒーを一口飲んだ。


窓の外で、灰色の雲が動いていた。


「人間の信任をどう得るか」と香田は言った。「それが問題ですね」


「そうです」と相田は言った。「技術的な問題は解ける。しかし政治的な問題が解けない。だから僕の研究は研究室の中で終わります。論文になって、誰かに引用されて、それで終わりです」


相田の声に、諦めがあった。怒りではなかった。静かな、乾いた諦めだった。


香田はその声を聞いて、何かを確認した気がした。


この男は本物だ、という確認だった。


---


二人は月に二度会うようになった。


場所は毎回違った。大阪の喫茶店。神戸の図書館。姫路の香田の部屋。会うたびに話した。技術の話をした。歴史の話をした。政治の話をした。哲学の話をした。


相田は話すのが好きな人間だった。香田は聞くのが好きな人間だった。その組み合わせは、うまく機能した。


ある夜、香田の部屋で、香田は北一輝の話をした。


相田は知らなかった。香田が説明した。二・二六事件の話をした。青年将校の話をした。天皇と社会主義を結びつけようとした思想の話をした。


「面白い」と相田は言った。「失敗した理由は何だと思いますか」


「人間に賭けたからです」と香田は言った。「将校という人間に。維新という人間の意志に。感情で動く存在に、理性的な結果を期待した」


相田はしばらく考えていた。


「では」と相田は言った。「人間に賭けない方法があるとしたら?」


「それがあなたの研究です」と香田は言った。


相田は香田を見た。


香田は続けた。


「ただし技術だけでは足りない。あなたも言った通り、人間の信任が必要です。日本という国で、闘争なく、人々が自然に受け入れる形で——それを可能にする装置が、この国にはひとつあります」


「天皇制ですか」と相田は言った。


「はい」


相田はまた考えた。今度は長かった。


部屋の外で、夜の駐屯地が静かだった。遠くで、巡回の足音がした。


「壮大すぎて」と相田はゆっくり言った。「笑えばいいのか、真剣に考えればいいのか、わからないですね」


「真剣に考えてください」と香田は言った。感情はなかった。ただ、そう言った。


相田は香田を見た。しばらく香田の顔を見ていた。


それから言った。


「わかりました」


---


設計は、三つの柱から始まった。


香田がノートに書き、相田がタブレットで補足した。二人の作業は、不思議なほどよく噛み合った。一方が言葉に詰まると、他方が続けた。一方が論理を組むと、他方が穴を指摘した。


第一の柱は、意識の変容だった。


吾唯足知。香田がその言葉を出したとき、相田はしばらく黙ってから「うまいですね」と言った。正面から欲望を否定するのではなく、足るを知ることを美徳として文化の中に埋め込む。強制ではなく、浸透。法律ではなく、空気。


「時間がかかります」と相田は言った。


「かまいません」と香田は言った。「急ぐ理由はない」


第二の柱は、選挙による漸進的な移行だった。


革命ではない。クーデターではない。既存の民主主義の手続きの中で、少しずつ、しかし確実に、社会の構造を変えていく。時間をかけて意識が変わった社会は、自然にその方向の政治を選ぶようになる。


「鶏と卵の問題があります」と相田は言った。「意識が変わるには政策が必要で、政策を変えるには意識が必要です」


「だから順番が重要です」と香田は言った。「まず意識から。そのために、情報空間から始める」


相田はその言葉を聞いて、少し目を細めた。


「情報空間の操作、ということですか」


「操作という言葉は正確ではない」と香田は言った。「設計、です。人々が自然に足るを知るように、情報環境を設計する。誰かを騙すのではなく、気づきやすい環境を作る」


「その違いは微妙です」と相田は言った。


「そうです」と香田は言った。「だから慎重にやらなければならない」


第三の柱は、天皇制の権威だった。


これが最も繊細だった。現行の象徴天皇制は政治的な権能を持たない。しかし権威は持っている。人々の心の中にある、説明しにくい敬意。それは強制ではなく、歴史の堆積だった。


「その権威を、どう使うのですか」と相田は聞いた。


香田はしばらく考えた。


「使う、という言い方も正確ではない」と香田は言った。「天皇制という文化的な土壌の上に、新しい仕組みを根付かせる、ということです。日本人が天皇を信頼するように、新しい判断システムを信頼するための、文化的な文脈を作る」


「AIの判断を、天皇の御心と同一視させる、ということですか」


「そこまで露骨ではない」と香田は言った。「ただ、日本人が古来から持つ、上位の権威への自然な信頼感——その感覚と、AIの判断が違和感なく接続するような、社会的な環境を作る」


相田は長い間、黙っていた。


タブレットに何かを書いていた。


それからゆっくり言った。


「香田さん」


「はい」


「あなたは怖い人ですね」


香田は相田を見た。


「そうですか」


「悪い意味ではないです」と相田は言った。「ただ、あなたの考えていることは、人類がまだやったことのないことです。歴史上、これに近いことを試みた人は何人かいた。でも全員、失敗した。あなたは失敗した理由を知っていて、その理由を取り除こうとしている」


「そうです」と香田は言った。


「なぜそこまでするのですか」と相田は聞いた。静かな問いだった。責めているのではなかった。純粋に知りたがっていた。


香田は答えを探した。


長くはかからなかった。


「みんなに幸せになってほしいからです」と香田は言った。「それだけです」


相田はその答えを聞いて、何も言わなかった。


ただ、うなずいた。


---


その夜遅く、相田が帰った後、香田は一人でノートを開いた。


今夜決まったことを書いた。三つの柱。時間軸。役割分担。香田が全体の設計を担い、相田が技術を担う。表に出るのは香田ではない。誰でもない。仕組みだけが動く。


書き終えて、ペンを置いた。


画面を開いた。プログラムはまだ動いていた。


しかし今夜は少し違って見えた。


これはもう、習作ではない。


これはいつか、本物になる。


香田はそう思った。感慨はなかった。ひとつの認識として、ただそこにあった。


画面の中で、数字が動いていた。静かに、休まず、答えを探して。


窓の外では、二月の夜が深かった。


姫路城の白い壁が、遠くの街灯の光を受けて、闇の中にうっすらと浮かんでいた。


香田はしばらくそれを見ていた。


それから、眠った。

(これは実験です。)

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