第一章 診断
その年の冬は、やけに選挙の話が多かった。
食堂でも、風呂場でも、誰かが政治の話をしていた。香田は聞いていた。聞きながら、飯を食った。聞きながら、湯に浸かった。何も言わなかった。意見を求められれば「さあ」と言った。それ以上でも以下でもなかった。
部下たちは香田のことを、掴みどころがない、と言っていた。香田は知っていた。知っていて、特に何もしなかった。掴みどころがある人間になりたいとは思わなかった。
十二月の第四土曜日、香田は姫路の書店にいた。
軍事関係の棚ではなく、経済の棚の前に立っていた。格差。分配。資本主義の限界。そういう言葉が並んだ背表紙を、一冊ずつ眺めた。買うつもりはなかった。ただ、世の中が何を考えているかを確認していた。
棚の端に、薄い文庫本があった。
北一輝。その名前を見て、香田は少し立ち止まった。
知っている名前だった。防大で近代史を学んだとき、二・二六事件の文脈で出てきた。処刑された思想家。天皇制と社会主義を結びつけようとした男。香田はそのとき特に深く調べなかった。試験に出る範囲を覚えて、先に進んだ。
今日は、手に取った。
レジで買った。
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駐屯地に戻る前に、駅前の喫茶店に入った。
コーヒーを注文した。窓際の席に座った。外では人が歩いていた。買い物袋を持った老人。スマートフォンを見ながら歩く若者。ベビーカーを押す母親。それぞれの量子の集まりが、それぞれの軌道で動いていた。
北一輝の文庫を開いた。
読み進めるうちに、香田はある感覚を覚えた。
正確には、驚きではなかった。共鳴、と呼ぶのが近いかもしれない。百年前の男が、今の香田が感じていることと同じ問いを立てていた。なぜ富は偏在するのか。なぜ国家は腐敗するのか。なぜ民衆は搾取され続けるのか。
ただし処方箋は違った。
北一輝は天皇に賭けた。維新に賭けた。青年将校に賭けた。それが二・二六事件だった。そしてすべては銃殺で終わった。
香田は窓の外を見た。
人間に賭けてはいけない、と思った。
北一輝は間違っていなかった。問いは正しかった。しかし答えを、人間の中に求めた。天皇という人間に。将校という人間に。維新という人間の意志に。だから失敗した。人間は疲れる。人間は怖くなる。人間は死ぬ。
コーヒーが冷めていた。
香田は飲んだ。冷たくなっても、コーヒーはコーヒーだった。
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その夜、香田は自室でノートを開いた。
日記ではなかった。思考の整理のためのノートだった。防大時代から続けている習慣だった。誰かに見せるつもりはなかった。自分の頭の中にあるものを、外に出して眺めるための道具だった。
書いた。
*日本の現状について。*
*少子化が止まらない。格差が広がっている。地方が死んでいる。政治への信頼が失われている。それでも誰も本気で怒らない。デモも起きない。革命も起きない。ただ静かに、緩やかに、沈んでいく。*
*なぜか。*
*日本人は闘争が苦手だからだ。それは弱さではない。共同体の論理で生きてきた民族の特性だ。水田を一緒に作り、一緒に収穫してきた。出る杭は打たれる。和を乱してはいけない。その規範は今も生きている。*
*だとすれば、変革は上から来なければならない。*
*しかし上も腐敗している。*
香田はペンを止めた。
この問いの前で、多くの人が止まる。だから何も変わらない。腐敗した上を変えるために下から動けば、日本的な共同体の規範が阻む。上が変わるのを待てば、腐敗した上はいつまでも変わらない。
ループだ。
香田はノートに書いた。
*出口はどこか。*
しばらく考えた。窓の外で風が鳴っていた。
書いた。
*天皇制。選挙。そしてもうひとつ、何か。*
その「もうひとつ」が、まだ見えていなかった。
香田はノートを閉じた。画面を開いた。プログラムはまだ動いていた。報酬関数は今夜も、人間の幸福度の最大化を目指して計算を続けていた。
画面を見ながら、香田は思った。
お前はいつか、答えを出すだろうか。
プログラムは答えなかった。ただ動いていた。
香田はそれで良かった。
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年が明けた。
一月の終わり、香田に三日間の休暇が出た。
特に行くあてはなかった。実家は岡山だったが、帰る気にならなかった。両親は健在で、妹が一人いた。帰れば心配される。心配されるのが嫌なのではなく、心配させることが非効率だと思っていた。自分は元気だ。心配は不要だ。その事実を伝えるためだけに帰るのは、エネルギーの無駄遣いだった。
香田は大阪に出た。
理由は特になかった。強いて言えば、国立国際美術館で量子物理学に関連した展示があると知っていた。行ってみようと思った。それだけだった。
美術館は中之島にあった。
地下に降りると、展示室が広がっていた。平日の昼間だった。人は少なかった。香田はゆっくり歩いた。急ぐ理由がなかった。
展示の最後の部屋で、香田は立ち止まった。
インスタレーション作品だった。暗い部屋の中に、無数の光の点が浮かんでいた。それぞれがゆっくりと動いていた。ある点は別の点に近づき、ある点は遠ざかった。衝突することも、消えることもなく、ただ動き続けていた。
解説には書いてあった。
*この作品は、素粒子の運動をシミュレートしたものです。*
香田はしばらくそこに立っていた。
光の点が動いていた。
どこかで見た光景だと思った。考えて、思い出した。姫路駅前の水たまりに映る光だ。あれも、これも、同じものだ。量子が動いている。電磁気力が作用している。その結果として、光が揺れる。その結果として、人間が美しいと感じる。
隣に、人が来た。
香田は気づかなかった。気づいたのは、その人が声を出したときだった。
「これ、見るたびに飽きないんですよね」
若い声だった。
香田は横を向いた。
自分と同じくらいの年齢の、男だった。細い体に黒いジャケットを着ていた。眼鏡をかけていた。画面を持っていた。タブレットだった。画面には、コードが並んでいた。
「失礼しました」とその男は言った。「独り言の癖があって」
「いえ」と香田は言った。
「研究者の方ですか」と男は聞いた。香田のことを見ていた。
「違います」と香田は言った。「自衛官です」
男は少し目を丸くした。それから笑った。
「意外でした。こういう展示に興味がある自衛官の方に会ったのは初めてで」
「あなたは」と香田は聞いた。
「大学院生です」と男は言った。「情報工学。AIの研究をしています」
香田はその言葉を聞いたとき、何かが動いた気がした。感情ではなかった。直感とも違った。強いて言えば、パターン認識だった。
探していた「もうひとつ」が、今ここにある、という認識。
「少し話せますか」と香田は言った。
男は少し驚いた顔をした。それから、また笑った。
「珍しい展開ですね」と言った。「いいですよ」
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男の名前は、相田誠二といった。
大阪大学大学院の博士課程にいた。専門は強化学習と自然言語処理の境界領域、と彼は説明した。香田には半分くらいしかわからなかった。わからない半分については、素直にそう言った。相田は丁寧に説明した。説明が上手かった。
美術館を出て、近くの喫茶店に入った。
香田はコーヒーを頼んだ。相田は紅茶を頼んだ。
香田は自分のノートの話をした。プログラムの話をした。報酬関数に幸福度の最大化を設定している、という話をした。
相田はしばらく黙って聞いていた。
「幸福度をどう定義していますか」と相田は聞いた。
「まだ定義できていません」と香田は言った。「だから動かし続けています」
相田はまた少し黙った。
「正直に言っていいですか」
「どうぞ」
「その発想は、僕の研究と近いです」と相田は言った。「ただ規模が違う。僕はもっと大きなことを考えています」
香田は相田を見た。
「どのくらい大きいですか」
相田は紅茶を一口飲んだ。それから言った。
「人間の代わりに、判断できるシステムを作りたいと思っています。政治的な判断も含めて」
部屋の中で、他の客の話し声がしていた。
香田はコーヒーを飲んだ。
「続けてください」と言った。
相田は話した。香田は聞いた。
窓の外で、中之島の冬の光が川の上で揺れていた。それはいつかの姫路の水たまりの光と同じで、美術館の素粒子の光と同じで、すべて量子の海の、ひとつの表れだった。
香田は、ノートに書いていた「もうひとつ」が何だったか、その日の夕方には分かっていた。
答えはAIだった。
そしてそれを作ろうとしている人間が、今、目の前にいた。
(これは実験です。)




