序章 量子の海
夜明け前の姫路駐屯地は、音がなかった。
香田清一郎は営舎の窓から外を見ていた。グラウンドに街灯の光が斜めに落ちていた。アスファルトが濡れていた。雨はもう上がっていたが、水たまりに風が触れるたびに光が揺れた。
世界は量子の集まりだ、と彼はいつも思っていた。
電子と陽子と中性子。それらが結びついて原子になり、原子が集まって分子になり、分子が集まってアスファルトになり、水になり、光を反射する薄い膜になる。その膜を見ている自分の眼球も、眼球から信号を受け取る脳も、脳が処理した映像を「美しい」と判定する何かも、すべて量子の集まりだった。美しいという感情は、ある種の電気化学的な反応に過ぎない。
だから何だという話ではない。
そういうものだ、というだけのことだ。
二十八歳。第三特科連隊第一大隊第二中隊、小隊長。階級は一尉。防衛大学校を卒業して六年が経つ。部下は三十二名。彼らの多くは香田より若く、香田の命令で動き、香田の判断に命を預けることになっている。
その事実を、香田は奇妙だと思ったことがなかった。
命令系統も、階級も、国家も、突き詰めれば人間が集合的に信じることに決めた何かに過ぎない。紙幣と同じだ。みんなが価値があると信じているから価値がある。みんなが従うと決めているから機能する。その虚構の上に乗っかって人類は数千年やってきた。それはそれで、ひとつの解だと香田は思っていた。
悪い解ではない。ただ、最善ではない。
窓の外で、水たまりがまた揺れた。
香田は自分が何者かを知っていた。みんなの幸せを願うようにプログラムされた人間だ。その願いは本物か、と問われれば、本物だと答える。ただしその本物の願いも、突き詰めれば遺伝子と環境と偶然が生み出した電気信号の束だ。そのことと、願いが本物であることは、矛盾しない。プログラムされた願いも、願いだ。
問題は方法だった。
人間に任せておいては、うまくいかない。これは香田の確信だった。歴史がそれを示している。善意は腐敗する。理想は権力になる。権力は暴力になる。そのサイクルを人間は何千年と繰り返してきた。知性があっても、言語があっても、法律があっても、民主主義があっても、そのサイクルは止まらなかった。
なぜか。
人間が不完全だからだ。感情があるからだ。疲れるからだ。欲があるからだ。怖いからだ。
香田は自分も不完全だと知っていた。だから自分に任せようとも思っていなかった。
ただ、考えていた。もっと良い方法があるはずだと。量子の集まりである世界の中に、もっと精度の高い情報処理の仕組みがあるはずだと。
起床ラッパまであと十七分だった。
香田は窓から離れ、机の前に座った。パソコンの画面を開いた。そこには昨夜から走らせていたプログラムの結果が表示されていた。自分でも驚くほど単純なコードだった。ある種の強化学習のアルゴリズム。報酬関数に「人間の幸福度の最大化」を設定して、延々と回し続けているだけだった。
馬鹿げた試みだと自分でも思う。幸福度を数値化することすら、まだ人類には満足にできていない。
それでも彼は回し続けていた。
画面の隅で、プログラムが動いていた。静かに、休まず、感慨なく。
香田はそれを見て、何かに似ていると思った。しばらくして気づいた。
自分に似ている。
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起床ラッパが鳴った。
駐屯地が動き始めた。足音と声と気配が廊下に満ちた。香田は画面を閉じ、制服の襟を正した。鏡の中の自分を一秒見た。それから部屋を出た。
世界は今日も、量子の海だった。
(これは実験です。)




