第1話 はやく俺のことが嫌いになっちゃえばいいのに
前回のおさらい。付き合ってた彼氏と別れた。原因はヤツの浮気だった。ところがなんやかんやあってもう一度同棲することになった。以上、最悪のダイジェスト終わり。
ひなはダイニングテーブルにうず高く積まれたお菓子の山を前に腕を組む。新年度最初の週の金曜日だ。アラームどおりの七時に起きて、国際データ保護機関の青の制服を着て、食パンとサラダとオレンジジュースで朝食もばっちり。あとは出勤ついでにゴミ出しを忘れなければ完璧な社会人ってかんじ。そう思った矢先の、このお菓子の山。そしてお菓子の山を作りやがった元凶の男――。
「好きなのとっていいよ、ひなちゃん」
見知らぬ高級ブランドの紙袋を適当にたたんで、ヤツがのほほんと発言する。ヤツというのはもちろん繊月ゼンだ。平日の朝だというのにしどけなく乱れた白のワイシャツを腕まくりしていて、ぜったいにパジャマなんかじゃないだろうネイビーのストレートパンツをはいている。モデルみたいなスタイルの良さでかっこいい? イエス。なんか知らない香水が匂う? イエス。ところで昨日の夜はどうだった? もちろん帰ってこなかった。
ひなが無言で投げつけたルビーレッドのチョコレート箱は悲しいかな、ゼンの額に届く前にキャッチされてしまった。
「ちっ」
「舌打ちはやめろよ」ゼンが一気に不機嫌そうな顔つきになった。
「舌打ちくらいしたくなるわよ」
「どうして? 甘い物好きじゃないか。せっかく分けてあげようと思ったのに」
「分けてあげる? ねぇそれ、このお菓子の出どころが分かってて言ってる? どうせ全部、お気に入りの女の子からもらったやつなんでしょ?」
「やだなぁ、昨日知りあったばかりだよ。歓迎会が終わったあとに誘ってくれて、」
「あんたの浮気事情はどうでもいいっての!」ひなは思わず叫んだ。「あぁもう最悪! なんでまだ、あんたのだらしなさに付き合わなきゃいけないのよ! せっかくの新年度なのにっ!」
ゼンがうんざりしたように天をふりあおいだ。
「子供みたいに駄々こねないでくれよ、ひなちゃん。別に赤の他人の俺がなにをどうしようと構わないだろ」
「うるっさい! あたしのきらきらの社会人デビューを邪魔してるのはあんたのほうでしょ!」
「君が勝手に騒いでるだけじゃないか。あーあ、俺は善意でお菓子を分けてあげようと思っただけなのになー」
「善意とか言う前に、自分の過去のあやまちを振り返ってみなさいよ!」
「俺がひなちゃんにふられたこと?」
「あたしがあんたをふったこと!」
ゲームに負けた子供みたいに、ゼンが不貞腐れた顔をした。やり場のない苛立ちをどうにかするみたいに大きく息を吸って吐く。「それなのに、君がまだ俺と一緒に暮らしてるってことか」
当てこするような物言いに、ひなはひくりと口元を引きつらせる。ゼンはけれどお構い無しだった。冷めた目でひなを一瞥して、ご丁寧にも言葉を続けてくれる。
「はやく俺のことが嫌いになっちゃえばいいのに」
……っ、はぁ!?
*****
オーケイ、整理しよう。正直に。
あたしは繊月ゼンのことが好きだ。主には顔がいいからだけど。まぁなに、なんていうの? 心根みたいな? ちょっとしたときに、あたしにだけ見せてくれる表情っていうか? そういうのも考えてあげていい。とにかく一番大事なことは、あたしはこの気持ちを伝えてないし、伝える気もないってことだ。
で、あたしはアイツを振っている。アイツの浮気が発覚した直後に。じゃあアイツは当然、あたしが嫌いって言ってることを理解してるはずよね? ついでにいうとアイツの浮気は相変わらずだし、今朝なんか浮気相手のお下がりのお菓子をあたしに押しつけようとして……、
「いやほんと、まじで意味分かんないんですけど!」
ブチ切れながらひなはパソコンのエンターキーを押しこんだ。同じテーブルの機械人形がいっせいに視線を向けてくる。なにせここは会議室、しかもいまは六人一組の新人研修のグループ学習中だ。三人分の機械人形らしいお行儀のいい視線、それからひなの腕をつつく四人目。
「ひなさん、分からないなら手を挙げて先生に質問しないと」
至極そのとおりの意見をくれたのはサクラだ。そう、真岡第一高校の優等生。黒髪色白たおやかな雰囲気の同期。彼女はとびきり優秀だけれど機械人形だから研修を受けていて、偶然にも同じグループに配置されたというわけ。
「ひなさん、聞いてる?」
「聞いてる」
ひなはため息をついた。残りの三人に向かって手を振れば、彼らはあっさりひなのことを諦めた。いかにも機械人形ってかんじ。でもサクラは納得がいかなかったらしい。小声で尋ねてくる。「ただの感想ってなに……?」
「なんだっていいでしょ」ひなは無意味に矢印キーを叩いた。さて、この課題はなんだっけ。
「よくないでしょう。ひなさん、普通はなにもないのに叫んだりしない……」
「分かった、オーケー。たしかに何かあったわよ。あった。もちろん。けど話したくない」
「どうして?」
そんなの決まってる。わざわざ初対面のあたしを喫茶店に呼び出してまでゼンのことを警告したのはサクラだからだ。ついでに言うとあのときのサクラは明らかにゼンとの相性が最悪ってかんじだったし、百歩譲って最悪じゃなくてちょっとクソみたいな関係だったとしても今朝の浮気の話(正確に言えば浮気の匂わせ)を聞けばやっぱり説教がはじまるに違いない。
あんな男と付き合うのは良くないとか云々。
いやだから付き合ってないってば。むしろ別れてるんだってば。
あぁもう課題なんて無理だ。ひなは諦めて書きかけのレポートの末尾に『以上』と打ちこみ、メールで新人研修担当へ提出した。パソコンを持ってさっさと立ち上がる。「じゃ、あたしはお先に」
国際データ保護機関日本支部はちょっとした大学くらいの敷地面積にいくつかの建物が点在している。研修棟は一番古くてオンボロだけれど本棟はもちろん違う。三十階建ての超モダンなビルだ。つまりスタイリッシュなブルーグレーの壁面で、どの角度から見てもピカピカに磨きあげられた窓が連なっている。超仕事ができるオフィスワーカーが通いそうなビルそのものだ。
認証パネルにIDカードをかざし、ひなは天井と壁がひとつづきのガラス張りのエントランスにはいった。見上げるほど大きな球形のモニュメントに、午後の日差しが降り注いでいる。根をのばす大樹と、その隙間をぬって身をくねらせる巨大な鯨の像はスチール製で、国際データ保護機関の象徴だ。それを見るたび、ひなはいつだって誇らしい気持ちになる。
ただ、今日は違った。
モニュメントのすぐ裏手に見慣れた人影が見えたからだ。
薄青のコットンジャケットに、足がスラリと長く見えるジーンズと黒スニーカーをあわせている。細身のリュックを右肩にひっかけていた。これから午後の授業に行く大学生みたいだ。ところでここは大学じゃないし、仕事場だし、指定の制服ってやつがあるんですけど。
ひなは無言でゼンの隣に並び、上階へ行くエレベーターを待つ。同じくゼンも閉じた扉を見つめたまま口だけ動かした。
「ひなちゃん、まだ機嫌悪いんだ」
「まだ?」ひなは鼻先で笑った。「当然でしょ。むしろあたしの機嫌が治る要素がなくない?」
「たかがお菓子くらいで……」
「ストップ、あんたの言い分はお腹いっぱい。それで? あんたはあんたで、なんで機嫌悪そうなのよ」
ゼンが一瞬黙った。身動ぎする気配がある。「別に。君には関係ない」
ふうんそう。隠し事ってわけね。ひなが冷ややかに納得したところで、不意に女子特有の華やかにはずんだ声が聞こえる。
「繊月センパイ!」
ひながさっと脇に避けたスペースは、あっという間に数人の女子で埋まってしまった。全員知らない顔だ。けれどもちろん、みんなの王子・繊月ゼンさまはご存知らしい。さっきまでの愛想のない表情はどこへやら、ゼンはにっこりと微笑んだ。ひらひらと手を振り、一人ひとりに「おはよう」とか、「今日は三つ編みなんだね」とか、「そのリップ似合ってるよ」とか声をかけている。熱心なファンサだ。これぞSNSのアイドルってかんじ。
なによそれ。
「あの」
控えめな声をかけられ、ひなは斜めに視線を下げた。
小学生くらいの女の子だ。紺色のブレザーの制服にキャメル色のランドセルを背負っている。品のいいお嬢様小学校の生徒みたいに見える。でもただの生徒ってわけじゃもちろんない。
肩に届くか届かないかくらいの髪は薄金色がかったやわらかい白色だ。目は燃える炎みたいな赤色。普通の人間じゃありえない見た目は機械人形の特徴で、案の定少女の首元にはZ0010という識別番号がうっすらと刻まれている。
少女はぺこりと頭を下げた。
「すみません、国際データ保護機関一三七部隊は何階でしょうか?」




