深度 87648H
落胆だ。信じられないほど呆然としている。絶望しているといってもいい。
まっくらな世界で少年は膝をついた。逃げて逃げて逃げてやっとたどりついた場所だった。いったいここが何百時間、何千時間前の場所だか知らないが、とにかくここまで深く潜れる人間なんていやしない。まさにそのために彼は育てられて、それがために逃げ出したのだからひどい冗談だ。逃げこむ先が、逃げたくなった理由でしか行けない場所なんて。
それでも彼はたどり着いたのだった。真っ暗な海の底、命が住むことを許されない禁足地、誰もが彼を犠牲にして守ろうとした場所に。ところがここは本当にまっくらで、神聖ななにかがあるわけでも、目を奪われるほど美しいなにかがあるわけでもない。いっそ荒れ果てた祠かゴミ屋敷の台所でもあればよかった。それなのに、なにもない。なにひとつない。価値あるものがない。
なら、僕の今まではなんだったんだ。怒りでぶるりと体がふるえたとき、足元でエメラルドの光がぱっと散った。
少年はのろのろと目を瞬かせた。地面に触れる。ひやりと冷たい感触は澄みきった氷そのものだった。その氷の向こう側で一匹の魚がゆらりゆらりと泳いでいる。手のひらにも満たない小さな魚だ。気持ちよさそうに尾びれをくねらせるたび鱗がちらちらと光ってエメラルドの瞬きを残すのだった。子どもみたいに無邪気な光だ。それがけれど許せなかった。
少年の指先に力がこもる。わずかの抵抗もなく氷にひびがはいり、砕けた。ちょうど手のひらと同じくらいの穴が空き、砕けた欠片が真っ暗な水面に落ちて小さな魚を傷つける。ぱしゃん。魚は驚いたように体を翻し、水底へと消えていった。細く漂う真っ赤な血の跡と、幾枚かのエメラルドの鱗を残して。
それでおしまいだ。
なにもかもおしまいだ。
不意に悲しさに取り憑かれて、少年はうずくまった。
「……もうやだ」
ぽつりとつぶやく。
深い海の底のどこからか、五十二ヘルツの孤独な歌声が響いている。




