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本日2つ目の更新です。
つらつらと大して過去でもない昔を思い出していた綾斗だったが、煮物に仕上げを施す段になって意識を現実へと引き戻すと、使っている具材と調味料が本当に使って良いものかどうか、改めて慎重に確認し始めた。事前に使う材料は報告してあるし、店主から許可も貰っているので心配いらないのだが、客の口に入るものなのだ。注意し過ぎるということはないだろう。
特にたった一度だけ、だが決してやってはならない失敗をしてしまった身としては余計に。
黄昏の雫で出される和食の定食は、基本となる一汁三菜を念頭に構成されている。ご飯は白飯だったり味付けご飯や雑穀米だったりと様々で、おみおつけは『昼』の客と『夜』の客で具材が違う。
それは夜の営業が始まる前に新たに作るからであり、昼の客である人間と夜の客である魔族では使える食材に違いが生じる場合があるからでもある。店主曰く、人間にとっては薬になる食材が魔族には致死毒となるものがあり、その逆もまた然りなのだという。だから基本的に品書きに載っている料理は人も魔も関係なく食べられる食材を使っているが、美味と分かっている食材を使わないのも勿体無いということで、おみおつけだけは例外的に作られている。
初めてそれを知った時、綾斗は自分が当たり前のように食べていた物が毒になり得ると言う事実を、俄かには信じられなった。それもその筈、綾斗にとって毒物というのは、青酸カリやトリカブトといった普通は摂取するものではない、誰でも知っているような物だったから。
それに、ニュースで報じられる野菜に含まれた残留農薬の話や、サスペンスドラマでよく見る毒殺云々の事件だって、綾斗にとっては所詮遠い所での出来事だったり作り話だったりという認識で、実感のないものだった。
そんな考えでいたから店主の忠告を軽んじてしまい、危うく客を危険な目に遭わせるところだったことがある。
勿論、客を害するつもりなどありはしない。それでも、あの時店主が素早い対応をしてくれなかったら、綾斗は自らの傲慢さで一つの命を奪うところで。
滅多に声を荒げることのない店主が怒りを露にするのを聞き、じわじわとそのことを実感した時、綾斗の中には決して小さくはない恐怖が生まれた。その感覚は、今でもはっきりと覚えている。
心の中、まるで黒い染みのようにこびり付くそれはふとした拍子に染み出して、その度に未熟さを突き付けて来るような気さえする。でも、このことは決して忘れてしまって良いものではないのだからと、綾斗は戒めのようにその責め苦を受け入れていた。その恐怖を乗り越えられても、それは忘却と同義ではないのだと自身の心に刻み込むように。
そんな経緯もあり、綾斗は自分が料理という手段以外で他者の命を奪うことは出来ないだろうと思っている。それがたとえ己が生き延びる為に必要なものだったとしても。
決して平和とはいえないこの世界で、生き延びる気が無いわけではない。出来るなら、生きて再び故郷の土を踏みたいと思っている。あちらの世界には、綾斗が守っていかなければならないものも、捨てられない縁もあるのだから。
綾斗は目の前で美味しそうな湯気を上げる鍋から、里芋を一つ取り出して口に入れた。熱々のそれはきちんと火が通っている証拠に、何の抵抗もなく噛み切れる。ねっとりとした舌触りを感じながら咀嚼すれば、よく染みた豆乳と味噌の風味が鼻から抜けて行き、ほど良く味が染み込んでいるのが分かる。
思い通りの味付けになっていることに口元を緩めながら、綾斗は口の中の物を飲み込んだ。その口から、ふと漏れた溜息。そこには心からの安堵と、感謝が含まれていて。
決してやってはならない罪を犯してしまってから、綾斗は一時期食べるという行為そのものが出来なくなった。食べようとすると、嫌でも客の苦悶する様子が脳裏によみがえって来るのだ。それでも無理矢理かき込めば、胃の腑に収まること無く戻してしまう。何度繰り返しても結果は同じで、ただ悪戯に体力だけが奪われていく日々が続いた。
そんな綾斗に店主は呆れるでも突き放すでもなく、根気よく諭し、宥め。食の大切さを切々と説き続けた。
元の世界より医療技術が発達していないこの世界では、点滴や栄養注射などという便利なものは無い。そのかわり、こちらの世界の生き物は須らく体内に魔力の核を持っている。そして体内に巡らせる魔力の量を調節することによって、口から栄養素を取り込まなくても生きていくことができるのだ。だがその唯一の手段も、元々魔力を溜める核が存在しない綾斗にとっては一時的な効果すら期待できず。そうなれば、生きるのに口からの栄養摂取は必須だった。
行きずりで雇ったアルバイトのことなど放っておけばいいものを店主はそれを善しとせずに、綾斗自身がちゃんと乗り越えるまで付き合ってくれたのだ。
頭では分かっていても身体が無意識に拒絶してしまい、泣きながら無理矢理食べては吐き、胃液で喉や食道が痛めば店主が治癒術をかけ、また食べる。そんな不毛とも言える行為を何度繰り返したことだろう。
もう諦めてしまいたいと、傷こそ癒されていたが吐くという行為は綾斗の精神を疲弊させ、暗い思考に嵌まりそうになった。
そんな不毛な時間を過ごしていた時のことだった。店主が、ふと何か食べられそうな物はないかと聞いてきたのは。もう既に体力は限界を越えていて、それでも部屋でただ休んでいることなんて出来なくて、疲れ切った身体に鞭打って仕事をしていた。そんな弱りきった状態だったからだろうか、そんな何気ない問い掛けを聞いた綾斗の脳裏に浮かんだのは、祖母が生前よく作ってくれた甘酒。市販されている物など目ではない、酒粕ではなくもち米のみで作る甘酒は身体にしみ入るような甘さで、綾斗は幼い頃からそれが大好きだった。祖母もそれを知っていたのか、綾斗が泊まりに行くと必ず作ってくれたものだ。
母が亡くなり、大学受験を機に祖母の家に転がり込んでからも時折出されていたそれは、綾斗の密かな楽しみでもあった。祖母が亡くなってからというもの日々の生活に追われて思い出すことも少なくなっていたというのに、何故今になってこんなにも当時のことが思い出されるのか。
そうして祖母との記憶を辿ると、その理由が何となく分かった。それは、綾斗が精神的に沈んでいればどんなに隠そうとしてもそれを察し、甘酒を作ってくれていたことに気付いたからだ。決して下手な慰めは言わなかったが、綾斗の話を黙って聞きながら傍にてくれたことが思い出された。
その途端、無意識にあの暖かな祖母の面影を求めていたのかと気付いて、庇護されるべき子供時代を疾うに終えているというのに未だ甘ったれな自分の本質に情けなくなるのだが、これから成長していけば良いのだと考えれば何のことはないのだと思い直す。今はそこに思考を割く余裕はないのだからと。
ふと浮かんだ祖母の優しい面影に、苦しくて苦しくて仕方がなかった心が不意に軽くなったような気がして、引き結んでいた口元がふっと弛む。勿論、現状が何か改善された訳ではなかったが、それでも先程より随分と楽になったような気がした。そんな単純なことで随分現金なものだと自分でも思うのだが、不思議なことに嫌な気はしない。
俯いていた顔を上げれば、鹿爪らしい顔は相変わらず、でもどこか心配そうにこちらを見る店主の姿がそこにあり。自分はつくづく縁に恵まれているのだと感じた。
だからこそ、気にかけてくれる分以上の感謝を持ってそれに返さねばと、綾斗は改めて己に喝を入れる。こんな所で情けなくへばっている場合ではない。綾斗の瞳に真剣な色を見たのだろう、店主の表情が僅かに変わる。
「おやっさん、甘酒って知ってますか?」
脳裏に浮かんだ祖母の顔に、綾斗の頬が緩む。店主が和食に精通していても知らない可能性は大いにあるとは思ったのだが、それならそれで良かった。
きっと今の自分に必要なのは懐かしい味そのものではなく、そこから思い起こされる記憶なのだから。もしどうしても飲みたくなったら、この状況を乗り越えていつかあの懐かしい味を再現すればいいのだ。その為にも、こんなところで躓いてなどいられない。
店主の答えを聞かずとも、綾斗の心は既に決まっていた。だから店主があっさりと頷いた時、綾斗は思わず何故と聞き返してしまい、店主に怪訝な顔を向けられて。
自分から聞いておいて何故はないだろうと、準備を始めた店主の背中を見ながら自分の言動に突っ込みを入れてしまったのは、言うまでもないことだった。
そして、店主がわざわざ時間を進めてまで作ってくれたその甘酒が醸し出す独特の香りは、懐かしい祖母の甘酒に驚くほど似ていて。綾斗は店主から差し出された器を両手で受け取りながら、その粒の残る甘酒の表面をじっと見つめる。躊躇いは一瞬、記憶の中の祖母を想いながらゆっくりと器を傾けた。すると、温い熱を纏った甘酒が口の中に流れ込み、同時にその香りが鼻孔から抜ける。綾斗は、甘酒独特のとろりとした感触を舌で十分堪能してから、殊更時間をかけてその甘露を咽下した。
どろりとした甘酒が、喉元を辿り食道を通って胃の腑へと落ちていく。その様を感じながら、静かに息を吐き出した。
少し待ってみてもせり上がるものがなかったので、残りもゆっくりと飲み下す。その口元に、はっきりと笑みを刻みながら。
結局、記憶の中に残る優しい味がその喉を焼くことは、遂になかった。
「どう……ですか?」
「……」
出来上がった料理を小皿に載せ差し出せば、無言で受け取った店主はまず目で確かめ、鼻で感じ、最後に味を確認する。そうやって細かくチェックされている間、綾斗は緊張した面持ちで店主の言葉を待つのだ。この瞬間が何よりも緊張するのはいつものことだが、今回は初めての味付けを試してみたから尚更だった。
店主が味の確認をしているのを固唾を呑んで見守っていると、初めての味だったのだろう、店主の眉が僅かに跳ね上がり、次いで口元が僅かに弛む。店主の反応に、どうやら感触としては悪くないと見て取った綾斗の肩から力が抜ける。
そして、程なくして店主の出した評価は綾斗の予想通りのものだった。
開店前の最終チェックをしながら、ふと綾斗は思った。物を食べられるということは何と幸せなことなのだろう、と。一度食べられない身になったからこそ余計にそう感じるのかも知れないが。
生きる為に必要とはいえ他者の命を犠牲にしているのだから、それは決して綺麗なものではないのだが、命を己の血肉として取り込み生きて行く、そして自分の命もいずれ他の命を生かす為に取り込まれる。その決して綻びることなく連綿と続く環は、正に命を繋ぐという行為そのもののような気がした。
「じゃあそろそろ暖簾出してきますね」
店主が頷くのを目の端で確認しながら、綾斗は軽やかな足取りで店の出入口へと向かう。扉の前に掛けられている暖簾を持ち上げれば、手に馴染む布の感触。藍染に似た深い藍色の暖簾には『黄昏の雫』と白抜きされた文字が躍っている。そしてひっくり返せば、店名が白から赤に変わるのだ。綾斗は、これから昼の営業なのだから表にするのは白の方だなと考えながら、暖簾を手に外に出ると扉の上部にあるフックに引っ掛ける。
綾斗はこの開店を知らせる為の作業が、何だか好きだった。一歩後ろにさがり、皺一つない暖簾の白い字を眺める綾斗の口元が弧を描く。
さあ今日も、忙しい一日の始まりだ。
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バイト△日目:
今日の新作は概ね好評だった。相変わらず、組み合わせどうのと文句を言うお客さんもいたが、ちゃんと残さず食べてくれたところを見るとそこまで外れてはいなかったようだ。
そろそろ本格的に寒くなってくる頃らしいので、煮物以外にも何か温まるような副菜を考えなければならないだろうか。今度おやっさんに以前作っていた物を教えてもらおう。
そうそう、おやっさんに調達してもらった材料で試しに作ってみた沢庵は、途中で加えた酢が良い酸味を醸し出していて意外に美味しかった。塩の正確な分量を覚えていなかったので、折角だしと塩の量を変えて何樽か作ってみたが、結局塩を入れすぎて塩辛くなってしまった物に関しては塩抜きをして刻んで料理に使った。今回は様子見で少ない量だったが、おやっさんが定食の添え物に使いたいと言っていたので、今度はもう少し量を増やしてみよう。一番理想的な分量が判明したし、常に薄寒い城の中なら年間通して作れるかもしれない。
折角だから他の漬物にも手を出してみたい気もするが、生憎漬物のバリエーションには余り詳しくないので断念するしかないかな。レシピが手に入れば良いが、あっちには色んな本があるだろうけどこちらの世界に持ち込めない以上どうにもならない。自分の知ってる浅漬けと塩漬け、後は酢漬け位しか再現できないだろうな。母さんやばあちゃんにもっと聞いておけば良かった。
とりあえずは、明日も怪我をしないように頑張ろう。
お読みいただきありがとうございました。




