3-2 ザンベオルグ統帥府地下壕
孤島を出立して三日目、
マヤたちは、王ノ島=アーコニア島に上陸した。
ガリア海軍の哨戒を避けるべく、
島北部まで回り込み、雨夜を待ち、
ひそかに蒸気漁船を岸に寄せると、
その場で、
〈怪鮫〉の牙で船体を破壊し、海に沈めた。
シグマが、残る十一人に告ぐ。
「目指すは、ザンベオルグ高地だ。
陸軍部が築いた『統帥府地下壕』にして、
『アーコニア島解放軍』の極秘拠点が、
そこにある」
『統帥府地下壕』。
大青海戦争末期、
南部二主島までも陥落したオーシャニアの軍部は、
「和平派」と「抗戦派」に二分されていた。
「抗戦派」は、
ガリア軍を、アーコニア島中部まで引き込み、
補給線が伸び切ったところを、
一挙に撃退する案を主張していたが、
結局、エドモンド国王が、
正式に降伏の意思表示をしたことで、
彼らの野望が実現することはなかった。
その野望の残骸が、『統帥府地下壕』だった。
「ラウサニア島とヒートベリア島が、
ガリア軍に侵されている間に、
陸軍部は、そんなものを掘っていたのだな」
擦り切れた外套をはおるマヤは、
小雨の林道を上り、シグマの背を追う。
両隣には、カイとハナがいる。
「『解放軍』の中核を担っているのは、
当時の抗戦派の将校たちです。
今度こそ、エドモンド国王陛下を、
『統帥府地下壕』にお迎え申し上げ、
ガリア軍との一大決戦に臨むはずだったのですが」
「『ワーマニア島解放軍』が壊滅しちゃったし、
どうするんだろう、ね」
すると、前を歩いていたシグマが振り向き、
ハナは、視線を右斜め上にちらり。
「エドモンド国王陛下を救出し奉るは、
臣子として当然の務めというのみならず、
我が軍に、我が国に、
何をもって闘うべきか、を問い、
覚醒せしむる大義がある」
「何をもって闘うべきか?」
マヤが問うと、
シグマの真ん丸な黒目と合い、
また、びくりとさせられた。
彼の眼光には、やはり、差し迫るものがあった。
「国王陛下とは、
オーシャニア列島において積み重ねられし、
一五〇〇年の人文を、
内包し、体現する御方であらせられます。
……しかしながら、
そうあらせられるべき国王陛下が、
一個人として、降伏をご決断なさいました時、
……否、より遡れば、
『オーシャニア列島連合王国』が、
王家を、一統治機構としてのみ観念し、
荒波に濁らされた精神をもって、
大青海戦争に臨むこととなりました時、
我らは、重大事を見喪ったのであります」
——アーコニア島南部 王都港湾
軍事裁判所 判事室
判事長メディクスから。
「先日、被告人名簿について質問があった。
検事団により起訴されたのが、
なぜ、この十八名だったのか、というものだ。
ここで、『侵略謀議』の定義を確認する必要がある。
『オーシャニア列島連合王国』では、
ランディア大陸侵攻から大青海戦争終結まで、
国王や大臣、軍人らが連携し、
青海の軍事的、政治的、経済的支配を目論む、
一貫して長期的な謀議があったとのことだ」
その他判事から。
「つまり、その『侵略謀議』に参加していたのが、
被告人名簿に記されている十八名だった、と。
そのような理屈は百も承知です。
疑念は、選定過程の不透明さにあります。
専ら、代表性や知名度の比重を基準として、
恣意的に選定されたように見えてなりませんが」
「もうその話は止さないか。判事長が言った通り、
我々は、作成された被告人名簿に従うしかない。
それに、証拠が不十分ならば、
それに応じた判決を下せばよいのだから」
「下すことができれば、よいのですが」
「だが、大青海戦争の直接的契機となった、
『王覧会議』に出席していた者については、
有罪と判断するしかないだろう」
「エドモンド国王、ハラルド元陸軍大将、
オスリン元海軍大将らをはじめとする六名か」
「エドモンド国王は、当初、
開戦に反対していたと聞きますが」
「だが、最後には反対しなかったのだろう。
有罪だ。統治者として。間違いなく。
開戦を阻止する権限があったのだから。
彼を主犯とする以外に、
当軍事裁判をどう結論づけるというのか」
判事長メディクスから。
「結論を急がないでくれ。
国王の実質的権限についても、
議論を深めておく必要があるだろう。
ここで、『連合王国憲章』を参照してほしい。
第三条には、国王無答責の原則が、
第五十五条には、大臣府による執政権の輔弼が、
第十一条には、軍部が輔翼していた統帥権が、
それぞれ定められている。
国王個人がどの程度の状況を操作し得たのか、
諸君の意見を聞きたい」
その他判事から。
「第三条は、国内法の話に過ぎないのでは。
当軍事裁判においては、
地位は免責事由に該当しません」
「では、論点とすべきは第五十五条と第十一条か。
『王覧会議』の議事録を見るに、
国王は、主体的に発言を行っており、
輔弼や輔翼は形式的なものに過ぎないと思えるが」
「国王の関与そのものは否定できないでしょうね。
ですが、統帥権につき、オーシャニアが、
複雑な事情を抱えていたことも考慮すべきかと」
「複雑な事情とは」
「軍部の増長です。
彼らは、統帥権を、軍事指揮だけでなく、
軍事政務にまで及ぶものと拡大解釈し、
大臣府に圧力を加え、
一部植民地の獲得を事後承認させていました。
また、
陸海軍大臣を現役将校に限る法制度を濫用し、
意に沿わない宰相の政権を転覆させていた他、
国王からの質疑や忠告に対し、
説明を尽くさず、聞き流していたという実態も。
果ては、過激派による内乱事件もあったようです。
これらの事情も踏まえた上で、
彼による開戦阻止の期待可能性を検討すべきかと」
◆2
——アーコニア島南部 王都港湾
占領軍総司令部
列柱の玄関には、
『青海少年使節団』のリタとレオがいた。
「ダンヴァラやハーバーマスもそうだったけれど、
こっちも、浮浪民ばかりだね」
「復員者や失業者といったところか。
植民地の資源を搾取することで、
経済を維持してきたような国なのだから、
このような惨めな有様も、必然の結末か」
レオは、溜息を呑み込んでから、
リタと共に、中へと歩を進めた。
ふたりは、これから、
『アーコンプール軍事裁判』の警備に加わるべく、
バッサス憲兵隊長の元へ挨拶に向かう。
「ハーバーマスの騒乱」を経験し、
しばらく打ちひしがれていたものだが、
新たな任務を与えられたことで、
良くも悪くも、
悶々とした思考を忘れられそうだった。
何にせよ、立ち止まってはいられない。
首飾りの〈眼魂石〉は、全快している。
この輝きに相応しい働きをしなければ。
だが、途中、黒い礼服の青年と出くわした。
「おや、きみたち、
今日から配属の使節団員じゃないか」
ふたりは、顔の前で両手を合わせ、
青年におじぎをする。
「レオ修道士です」
「リタ修道士です」
青年は、首を垂れるふたりに、
うんうんと満足すると、
蒼白い顔でにたにたと嗤い、
ひしゃげた声で語り出した。
「ぼくは、教戒士のダミアヌス。
きみたちのことは、
バッサス憲兵隊長から聞いているよ、色々とね。
『青海少年使節団』として、
名誉獲得のために頑張っているそうじゃないか」
「はっ。恐縮です」
「今回の任務も、精一杯励みます」
「うんうん。いい心構えだね。
ただ、生き急ぐのは禁物だよ。
きみたちは、まだまだ、かけだしだから。
経験の差は、そう簡単には埋められない。
修道士として、成長し、立身したいのなら、
ぼくのような上官の命令にちゃんと従うこと」
「はっ。肝に銘じます」
「了解しました」
青年の口角が、ずるりと引き上がった。
「ふふ。素直な子たちだ。
ぼく、そういう反応は嫌いじゃない。むしろ好き。
……、
教戒士として務めてきたから、わかるよ。
きみたちは純粋な目をしている。
犯罪者や収監者には見られない、
まっすぐな心の目だ。
でも、純粋さだけじゃ生きていけないから。
ぼくの指導が必要かもしれないね。
ふふ。きみたちのこと、もっと色々教えてよ」
リタは、背筋を凍りつかされた。
青年の顔つきが、醜く歪んで見えたのだ。
同じく忌避感を覚えたレオが、一歩前に出た。
「教戒士さま、申し訳ないのですが、
バッサス憲兵隊長へのご挨拶がまだなので」
青年は、一瞬、固まったが、
すぐに、にたにたと嗤いを戻し、道を空けた。
「ああ、引き留めてしまったかな。
ごめんね。
はやく行ってくるといいよ。
……、
右脚を折っていたレオ修道士くんと、
喘鳴症だったリタ修道士ちゃん」
——アーコニア島中部 ザンベオルグ高地
林道は山へ入り、
宿場町を過ぎ、峠を越えると、
足裏には水ぶくれができていた。
「マヤ、もうちょっとみたいだよ」
ハナに励まされ、視線を上げると、
白樺の森の向こうに、
天高い連峰の威容があった。
薄陽に照りつけられた岩稜は、
鍛えられた刃物の鋭さを帯び、
たなびく白雲を切り裂いて、
ちっぽけな十二人の来訪者を俯瞰していた。
その麓の一角に、『統帥府地下壕』はあった。
坑道の入口には、迷彩色の偽装網が張られていた。
「マヤ王女殿下、ご無事で何よりでございます!」
ビシッ!
緑の軍服を着た数十人が、
偽装網を剥がし、出迎え、敬礼をした。
「『アーコニア島解放軍』諸君も、大儀である」
ビシッ!
シグマに続き、他の九人も、
右手をこめかみに敬礼を返したが、
ギルだけは、むすっと俯いたままだった。
「……あの子、よくわからないよね」
ハナが、敬礼をしたまま囁く。
「……おい」
カイが、敬礼をした右肘でこづく。
全員、敬礼を解くと、
早速、坑道の中を案内された。
中は、ひんやりとしていた。
床面には、軍用貨車の枕木が並び、
壁面には、削岩機の錐の穴が無数に空く。
測量の杭跡もある。異国語も刻まれている。
それらを、
粗末な裸電球の灯が、茫漠と浮かべていた。
緑の軍服の男が、マヤに歩み寄る。
「殿下、この『統帥府地下壕』の総延長は、
約一〇〇〇〇 碼に及び、
一六八名の兵士が詰めております。また、
会議室や通信室、休憩室なども完備しております。
それから、
王家の方の御座所は、こちらに」
開かれた扉の先には、
木板で舗装された一室があった。
中には、簡易の寝台と机が配置され、
浴室も隣接しているようだった。
マヤは、外套の裏で両腕を摩り、
水ぶくれができた両足の指を曲げ伸ばした。
「われの居所か」
呟いてしまってから、マヤは焦った。
無思慮な発言ではなかったか。
だが、男の反応は、なだらかだった。
「殿下、お疲れのことと存じます。
どうぞ、どうぞ、お休みくださいませ。
殿下のハーバーマスにおかれましてのご勇戦は、
小官らも承っております。
殿下が御体を休めていらっしゃる間、我が軍一同
一切の脅威より、殿下をお守り申し上げます」
そこに、シグマが振り向いた。
「そうだな。きみ。侍女兼護衛として、
ハナ特任兵も御座所に入れてやってくれ」
◆3
洪大なうねりが、
王ノ島=アーコニア島に渦巻いている。
その中心軸は、『アーコンプール軍事裁判』。
大青海戦争の総括を成そうというこの一大事に、
奪おうとする者も、守ろうとする者も、
共に、引き寄せられていくなか、
最後の大舟が、王都港湾に到着した。
夕陽が照らすその艦には、
「天秤を掲げた黒騎士」の旗が靡き、
大きな十字の帆柱と、
電波探知機を担いだ三段艦橋が聳え立つ。
——『戦艦ユーゲスト=ネーゲル』
第一艦橋・艦隊指揮所
「提督、
トレビオ准将より、アーコニア島北部で、
蒸気漁船の破片を発見したとの報せが。
いかがなさいますか」
副官の報告に、ガイウスは返す。
「いいや、予定通り、王都港湾に重心を置こう。
発見されたのが破片ならば、
敵は、すでに上陸していることだろう。
この旨を、占領軍総司令部にも伝えてくれ」
ガイウスは、やや薄い珈琲を一口。
窓から、侘しい占領地の港を覗く。
占領軍と共同で実行した『竜殺し作戦』により、
『ワーマニア解放軍』を撃滅することができたが、
本来の「王女追討」という戦略目標自体は、
未だ、達成できずにいた。
占領軍の調査によれば、
王女の死を偽装した参謀官は、
シグマという名の男らしい。
今現在、王女を護衛しているのは、彼に違いない。
ガイウスは、
その姑息な参謀官の思考回路を探った末に、
この王都港湾に辿り着いたのだった。
副官が、尋ねる。
「シグマという男は、本当に、
この王都港湾に現れるのでしょうか」
ガイウスは、答える。
「可能性だが、な。奴が固執しているものと、
トレビオ准将が調査してくれた『これ』を、
戦略的に照らし合わせれば、おそらく」
指揮卓には、
『海軍極秘緊急軍事行動案第十八号』の調査書と、
シグマの経歴の調査書が、据え置かれていた。
その横に珈琲を並べたガイウスは、
埠頭へ向かう一隻の交通艇を見つめる。
——王都港湾 軍用埠頭
沖に浮かぶ『戦艦』の影から、
一隻の交通艇が、こちらに近づいてくる。
リタは、手を振る。
「おーい!」
交通艇は、
波飛沫を上げながら、速度を落とし、
船体を横滑りさせ、岸壁に沿った。
乗員から係船索が投げられると、
岸壁に立っていた係留員が手に取り、
錆びた係留柱に固く結んだ。
交通艇から降りてきた海兵たちの中には、
黒い水兵服の少女がいた。
銀髪を指先でいじり、
そわそわと周囲を見回している。
リタは、こっちだ、と跳ねた。
少女は、ようやく気づいたようで、
小走りで、海兵たちを分けてきた。
首元には、〈古の白石〉が揺らめいていた。
「リタ、久しぶり」
「シルヴァ、元気だった?」
「元気? うん、たぶん」
リタとシルヴァは、
大青海戦争後初めての再会だった。
「あんた、すごいことになっているよ。
ガリア海軍最強の『神林の巫女』だ、って。
本国じゃ、すっかり有名人だから」
「そうなの?」
「そうだよ。
〈伯焔龍フォルティナ〉と共鳴できるのは、
やっぱり、あんたしかいなかったね」
シルヴァの淡白な反応を見て、
リタは、どこか、ほっとした。
孤児院にいた頃と変わらない静けさが、
そこにあったからだろうか。
ふたりは、『神林教』の孤児院で出逢ったのだった。
『神林教』は、
新ガリア人が渡来するより前から、
ガリア大陸に根づいていた宗教で、
自然界の霊魂を崇拝するものだった。
そして、
『神林教』を信仰する先住民族の末裔は、
「旧ガリア人」と呼ばれ、
リタとシルヴァもこれに属している。
「旧ガリア人」の中には、リタのように、
国教の『大聖教』に改宗する者もいるが、
その大半は、今でも、
『神林教』に帰属意識を抱いていた。
「改宗してから、どう?」
「べつに。勉強する教義が変わっただけで、
あたし自身は何も。
元々、あたしは、『大聖教』に、
新薬を手配してもらいたかっただけだから。
こんなことを言ったら、信徒失格かもね」
「喘鳴症は、大丈夫? 治った?」
「ありがとう。大丈夫だよ。
咳も、熱も、出なくなったし。
これからは、あたしも頑張らないと。
あんたが『神林の巫女』を継承して、
あっちこっちで活躍していたみたいに、さ」
ふたりは、岸壁に沿い、歩きはじめた。
「ハーバーマスの時、無事でよかった」
「あっ、そうだった。
あの時は、ガイウス提督に助けてもらったから、
お礼、伝えておいてくれない?
それと、ゲーナのことも」
「伝える」
「ゲーナは、どうしているの?」
「孤児院に送るかも。
でも、提督が、何とかする、って」
「そっか」
リタは、溜息を呑み込み、
打ち寄せる白波を見下ろした。
「大変? 警備の仕事」
「ちょっと危なそうな上官がいたけれど、
……何とかなりそう、かな。
そっちは? 第三艦隊はどうなの?」
「わたしは、提督のために戦うだけ」
シルヴァは、銀髪をそよがせ、
沖に浮かぶ『戦艦』の影を見つめた。
「どんなひとなの? ガイウス提督って」
「つよいひと。
でも、最近は、やりきれなさそう」
夕暮の潮風が、ふたりの間を吹き抜け、
交差した言葉を掠れさせた。
◆4
——アーコニア島中部 ザンベオルグ高地
統帥府地下壕
「『海星島』?」
軍服のシグマが、黒目を見張る。
「エヴァンス大佐が言っていた。どこだろうか」
詰襟に着替え黒髪を整えたマヤが、瞳を据える。
岩盤を削った執務室で、ふたりが向き合う。
「海軍の暗号名でありましょうか。
辺境の基地のことか、北方への亡命経路のことか、
何を指すかは、小官にはお答えいたしかねますな」
「同じ『解放軍』の仲間ならば、なれも、
所在を知っているものと思っていたが」
シグマは、椅子に座る姿勢を正した。
「同じ『解放軍』ではありましたが、
小官らとエヴァンスらとの間には、
確執がありましたゆえ」
「確執とは?」
「ギルめのことであります」
「ギル?」
マヤは、椅子から前のめりになった。
「ギルめが『護国三大霊獣』を召すことに、
エヴァンスをはじめとする海軍将校らは、
異を唱えていたのであります。
王家の権威を『公爵家』に渡すべからず、と」
「それは、王家のためか」
「王家の御為であり、殿下の御為であります」
「王家のためだろう。われのためではあるまい」
「殿下」
「われは、……評判が悪いから」
俯くマヤに、シグマは語りかけた。
「殿下、
どうか、お決めつけあそばしますな。
殿下の御境遇では、他者を疑うのも、
やむを得ざることかとは存じますが。
……ひとの心の秤とは、
一様に、あれを好めばこれを厭う、などと、
単純なものにはあらず、と存じます」
マヤは、前髪に触れた。
「浅慮だったか」
シグマは、珍しく、
表情を緩めたようだった。
「いいえ、これは、ご無礼を申し上げました。
小官も、あの者たちの胸中のすべてを、
承知していたわけではありません。
しかしながら、コルウィンという者は、
殊に、殿下の御母上の御性情を、
深く敬愛していたものと存じております」
「母上を?」
シグマは、頷いた。
「御母上は、心優しき御方であらせられました。
殿下が、御母上のごとき慈悲深さをもって、
気高き王女としてお育ちあそばしますことを、
コルウィンは期待していたものであります。
……、
御母上が事故によりご薨去あそばしましたことを、
誠に無念がっておりました。
殿下が物心つかれるより前のことであります」
前髪が、傷痕を撫で、ちくりとした。
自分が目にした真実と、他者が口にした真実とが、
あまりにも乖離し受け止められなかった。
マヤは、前髪を離した。
「シグマ大佐。われには、まだ、
ひとの心の秤とやらが、よくわからない。
だから、尋ねてもいいだろうか」
「はっ」
「なれは、何のために戦っている」
シグマは、執務机に置かれた葉巻に、
手を伸ばそうとし止めると、
その黒目を、
岩盤を削った執務室の中から、
精神の時間軸に走らせたようだった。
「あれは、小官が齢十八の折、
王都港湾にて観兵式が催された日でありました。
士官学校の一生徒でありました小官は、初めて、
国王陛下を拝することが叶ったのであります。
お見事な御姿であらせられました。
白馬に騎され、堂々と隊列を率いられる陛下は、
気高く、凛々しく、勇ましく、
まさに、『森羅万象と契りを交わせし主』そのもの。
そして、小官は、陛下と目が合ったのであります。
その折、衷心より誓いました。
何としても、あの御方の剣となり盾となり、
命を賭してご奉公申し上げるのだ、と」
シグマの語り口調からは、
甘美な陶酔と恍惚が滲み出ており、
マヤは、椅子の背もたれに仰け反らされた。
「なれは、王家のためというより、
父上のために戦っているのか」
シグマは、不敵な微笑を浮かべた。
「人間を人間たらしめる真理とは、
主体であるでも、自由であるでもなく、
何者より生まれたるか、であります。
我が列島の民は皆、国王の臣子。
真のオーシャニアはこれにのみ救われます」
マヤには、チンプンカンプンだった。
「よくわからない」
「わかりませんか。ところで、
陛下とは、よくお話しあそばしましたか」
「いいや、われは、いつも別邸にいたし、
父上は、戦争でそれどころではなかったから」
「それは、ぜひ、お話しあそばしませ。
言葉を交わさなければ知り得ないことが、
この世には山ほどありましょう。
思い返せば、
我が軍の忠義が結ばれなかった所以とは、
ひとえに、言葉を、忠節を、
軽んじていたからかもしれません……」
「……」
シグマの黒目が、時間軸を駆け抜けていく。
「……我らの精神は、混濁しておりました。
我が国の勢力の五倍とも十倍ともされました、
『マグナ=ガリア民政新国』の脅威より、
王家を、王国を、国民を護らんと決起し、
鋼鉄にも燃油にも恵まれざるこの列島より、
版図の拡大に、活路を見出したのであります。
そして、熾烈なる戦いの意義を、
『森羅万象との契約主』の御名に求めました。
陛下の御心を解放し奉り、
これを阻む奸臣を一掃いたせば、
真の政治が成されるものと、
確信していたのであります。
ところが、陛下の御心は、あくまで、
『一国家の立憲君主』に留まることをこそ望まれ、
我らの忠義は、狂行として謗られました。
戦いは、惨憺たるものとなりました。
数多の自国民と敵国民を殺しました。
大青海を血に染めることとなりました。
ですが、殿下、これだけは信じていただきたい。
王家のため、王国のため、国民のため、
そして、愛する者のため、
命を散らした『英霊』たちがいたのであります。
忠節知らずの狂臣と罵られるも結構。
しかしながら、
彼らの勇戦だけは、どうか、信じていただきたい」
To Be Continued.




