第8話:圧倒的な力の差
闘技場の中央。
バルダス・グリフは、いつもと変わらぬ使い古された木剣を手に、静かに立っていた。
数万の観客が見守る中、これから披露するのは、ただの素振り。
本人にとっては、それだけのことだった。
しかし――。
「ハハハハッ!」
突然、闘技場の入口から耳障りな笑い声が響き渡った。
「模範演武だと!? そんな退屈なもの、俺様がぶっ壊してやるぜ!」
――ドォンッ!
警備兵を振り切り、一人の巨漢が闘技場へと乱入してきた。
「な、なんだ!?」
「大会の出場者じゃないぞ!」
「警備兵は何をしている!」
観客席が一斉にざわめく。
現れた男は、身の丈を優に超える巨大な戦斧を肩に担いでいた。
鍛え上げられた巨体。
全身に刻まれた無数の傷跡。
そして、血に飢えた獣のような目。
男の名は――ボルドフ。
隣国の地下闘技場で、数々の死闘を勝ち抜いてきた凶悪な剣闘士。
その残虐さから、いつしか人々は彼をこう呼ぶようになった。
――『首斬り獣』。
「王立騎士団の最高師範ってのは、どんな化け物かと思えば……」
ボルドフはバルダスを見下ろし、口元を歪めた。
「なんだ。ただの冴えねえオッサンじゃねえか!」
観客席から悲鳴と怒号が飛び交う。
その一方。
貴族席に座るヘルマン子爵は、密かに口元を吊り上げていた。
――計画通りだ。
模範演武の最中にボルドフを乱入させ、バルダスを叩き潰す。
そうすれば、王立騎士団最高師範という肩書きにも傷がつく。
「先生!」
シエナが即座に剣へ手をかけた。
「ここは私が――」
「まあ、待て」
バルダスが片手を上げる。
「ですが、先生!」
「相手がいるほうが、観客にも分かりやすいだろう」
「……分かりやすい?」
「ああ」
バルダスは周囲を見渡した。
数万もの観客が、固唾を呑んで二人を見つめている。
「俺一人で剣を振っても、退屈だろうしな」
「…………」
シエナは言葉を失った。
この人は、本気でそう思っている。
自分がこれから何をするのか。
まるで理解していない。
「……分かりました」
シエナは剣から手を離した。
「先生、お気をつけて」
「大丈夫だ」
バルダスは小さく笑う。
そして、木剣を構えた。
力みはない。
肩も。
腕も。
腰も。
すべてが自然に脱力している。
それを見たボルドフは、鼻で笑った。
「ハッ! 構えすらまともにできねえのか!」
巨大な戦斧を両手で握り締める。
「死ねや、オッサンッ!!」
――ドォンッ!!
大地が揺れた。
ボルドフの巨体が、一直線に突っ込んでくる。
その勢いは凄まじい。
「オラァァァァッ!!」
巨大な戦斧が、頭上から振り下ろされた。
――ズガァァァン!!
石畳が砕け散った。
亀裂が蜘蛛の巣状に走り、凄まじい衝撃波が周囲へと駆け抜ける。
「きゃあっ!」
「うわぁぁっ!」
観客席から悲鳴が上がった。
砂煙が舞い上がる。
「ハハハハッ!」
ボルドフが勝ち誇ったように笑う。
「どうだ! 俺様の斧を――」
「……どこを見てるんだ?」
「――ッ!?」
声が聞こえた。
頭上から。
ボルドフが反射的に顔を上げる。
だが――。
そこには誰もいない。
「上じゃない」
「なっ……!?」
次の瞬間。
バルダスは、ボルドフの懐に立っていた。
跳躍したわけではない。
高速で駆け抜けたようにも見えない。
ただ――。
振り下ろされた斧が生み出した巨大な死角。
その一瞬の「影」に身体を滑り込ませるように、自然な足運びで懐へ入っていた。
「いつの間に……!」
ボルドフの顔に初めて動揺が浮かぶ。
バルダスは、彼の戦斧へ視線を向けた。
「豪快な振りだな」
「……!」
「だが、軸が少しブレている」
「何だと……?」
「それでは、硬い木は割れんよ」
その言葉と同時に。
バルダスの木剣が、ボルドフの肘へ軽く触れた。
――コン。
本当に、それだけだった。
「…………?」
あまりにも軽い一撃。
ボルドフには、何をされたのかすら分からなかった。
だが――。
次の瞬間。
――ドガァァァンッ!!
「ぐおおおおおおおっ!?」
ボルドフの巨体が吹き飛んだ。
まるで巨大な砲弾のように一直線に宙を舞い――。
――ズドォンッ!!
闘技場の壁へ激突した。
石壁に大きな亀裂が走る。
そして、ボルドフの巨体がその壁へ深々とめり込んだ。
「…………」
「…………」
「…………」
闘技場が静まり返った。
誰も声を発しない。
何が起きたのか。
誰一人として理解できなかった。
巨大な戦斧を振り下ろしたボルドフ。
それを紙一重でかわしたバルダス。
そして――。
木剣で、肘を軽く叩いた。
ただ、それだけ。
「……え?」
バルダス自身が、首を傾げた。
「……ちょっと強く当てすぎたかな?」
壁にめり込んだボルドフは、完全に意識を失っている。
バルダスは木剣を見つめた。
「木剣でも、あれくらい飛ぶんだな……」
本人にとっては、それが一番の驚きだった。
◇
しばしの沈黙。
やがて、観客席の一角から声が漏れた。
「…………神技だ」
誰かが呟く。
その一言を皮切りに――。
「神技だぁぁぁぁぁッ!!」
「すげええええええっ!!」
「あれが最高師範の力なのか!!」
「何が起きたんだ!? 全然見えなかったぞ!」
「木剣一本で、あの『首斬り獣』を……!」
――ウォォォォォォォッ!!
次の瞬間。
闘技場全体が、雷鳴のような歓声と拍手に包まれた。
地鳴りのような歓声。
割れんばかりの拍手。
観客たちが一斉に立ち上がる。
騎士たちも。
貴族たちも。
各国から訪れた要人たちも。
誰もが、闘技場の中央に立つ一人の男を見つめていた。
シエナは、誇らしげに微笑んでいる。
一方、貴族席では――。
「…………」
ヘルマン子爵が、青ざめた顔で固まっていた。
「……馬鹿な」
自分が用意した切り札。
隣国でも恐れられる凶悪な剣闘士。
それが――。
木剣一本。
たった一撃。
それだけで終わった。
「…………あり得ん」
ヘルマン子爵の呟きは、歓声に掻き消された。
◇
バルダスは、騒然とする観客席を見渡した。
「…………」
そして、少し困ったように頬を掻く。
「……以上で、模範演武を終わります」
深々と頭を下げる。
――ウォォォォォォォッ!!
歓声がさらに大きくなった。
「…………」
バルダスは顔を上げる。
数万の観客が、まるで英雄でも見たかのように熱狂している。
「……王都の人は、ノリが良いな」
心底不思議そうに、バルダスは首を傾げた。
自分が何を成し遂げたのか。
なぜこれほどの歓声が起きているのか。
――本人だけが、まるで分かっていなかった。
この日。
王都武闘大会の模範演武で起きた一幕は、後に王国史に刻まれることになる。
『首斬り獣、木剣一本に敗れる』。
そして同時に――。
王国中の剣士たちが、初めて知ることになる。
バルダス・グリフという男が持つ力の、その――。
あまりにも圧倒的な差を。




