第5話:貴族街の陰謀
バルダス・グリフが王立騎士団の最高師範に就任してから、しばらくの時が流れた。
その間に、騎士団には目に見える変化が起きていた。
「もっと肩の力を抜け!」
「踏み込みは足だけでするな。腰から入るんだ!」
「そうだ。その感覚を忘れるな!」
第一訓練場には、朝から晩まで騎士たちの掛け声が響いている。
バルダスが教えたのは、特別な奥義でも、希少な魔法剣技でもない。
姿勢。
足運び。
呼吸。
重心。
そして、剣を正しく振るという、ごく当たり前のこと。
しかし――。
その「当たり前」を極限まで突き詰めた男の指導は、騎士たちの剣を確実に変えていた。
模擬戦では、これまで勝てなかった相手を打ち破る者が増えた。
新人騎士でさえ、以前より明らかに動きが鋭くなっている。
当然、騎士団全体の士気も上がった。
だが。
その変化を、面白く思わない者たちもいた。
◇
王都貴族街。
豪奢な屋敷が立ち並ぶ一角に、ヘルマン子爵の邸宅がある。
「……平民出身の、どこの馬の骨とも知れん男が!」
執務室に怒声が響いた。
机を叩いたのは、五十代半ばの男。
ヘルマン子爵。
王都の保守派貴族を束ねる有力者の一人だった。
「王立騎士団の最高師範だと? ふざけるな!」
彼にとって、騎士団とは単なる軍事組織ではない。
王国の秩序を支える、貴族社会の象徴でもある。
そこへ突然、辺境出身の平民同然の男が入り込み、最高位の地位に就いた。
それだけでも許し難い。
まして――。
「よりにもよって、騎士たちがあの男を崇拝し始めているだと?」
「はい……」
側近が恐る恐る答える。
「特に若手の間では、バルダス師範の指導を受けることが名誉だという風潮まで生まれております」
「馬鹿な……!」
ヘルマン子爵の顔が歪んだ。
「奴のような平民が、貴族の騎士たちの上に立つなど……!」
やがて、その目に陰湿な光が宿った。
「ならば、こちらから失脚させればいい」
◇
数日後。
第一訓練場。
「……なるほど」
バルダスは目の前の若い騎士を見ながら、顎に手を当てた。
「君は、どうしても右足に力が入りすぎるな」
「……そうでしょうか」
「うん。本人は気づきにくいんだ」
バルダスが丁寧に説明していると――。
「師範殿!」
横から別の騎士が割り込んできた。
「その程度の指導で、我々が強くなると本気でお考えですか?」
その声には、明らかな敵意があった。
周囲の騎士たちが振り返る。
「俺には、ただの素振りにしか見えませんがね」
「そうか?」
バルダスは首を傾げた。
「まあ、基本だからな」
「基本、基本と……」
騎士は鼻で笑った。
「そんなものは新人でも知っています!」
「そうか。それなら話は早い」
バルダスは笑った。
「じゃあ、もう一度やってみよう」
「……は?」
「君の剣を見せてくれ」
騎士は挑発するつもりだった。
だが――。
「……っ」
いざ木剣を振ってみると。
「そこだ」
「え?」
「今、右肩が上がった」
「…………」
「あと、踏み込む時に身体が前へ流れている」
「……!」
図星だった。
「そこを直せば、今よりずっと速くなるぞ」
「…………」
騎士は悔しそうに唇を噛んだ。
だが、バルダスは何も気にしていない。
「まあ、若いうちはこういう癖もつくさ」
そう言って笑う。
「焦らず直していけばいい」
「……はい」
結局、その騎士は何も言い返せなかった。
そんなことが何度も続いた。
嫌味。
挑発。
露骨な反抗。
だが、バルダスは一向に怒らない。
「若いなぁ」
それで終わりだった。
むしろ、挑発してきた騎士ほど熱心に指導する始末だった。
その様子を見ていたシエナは、複雑な表情を浮かべていた。
「……先生」
「ん?」
「少しは怒ってもいいと思いますよ?」
「何で?」
「……いえ」
シエナは諦めた。
この人に政治的な駆け引きを理解させるのは、無理なのかもしれない。
◇
そして――。
ヘルマン子爵は、ついに痺れを切らした。
「……あの男は、何をしても失敗しないではないか」
送り込んだ騎士たちは、ことごとくバルダスに心酔して戻ってきた。
嫌がらせをすれば、逆に丁寧な指導を受ける。
挑発すれば、笑顔で受け流される。
手合わせを申し込めば、完膚なきまでに叩き潰される。
そして最後には――。
「いい師範だった」
などと言って帰ってくる。
「……ええい!」
ヘルマン子爵は机を叩いた。
「ならば、もっと単純な方法を使う」
その夜。
王都の裏通りに、一人の男が姿を現した。
表向きには存在しない店。
裏社会の人間だけが知る、古びた酒場。
その地下。
薄暗い部屋で、ヘルマン子爵は黒衣の男と向かい合っていた。
「依頼内容は?」
「一人の男を消してもらいたい」
「名は?」
「バルダス・グリフ」
黒衣の男は一瞬だけ沈黙した。
「……王立騎士団の最高師範か」
「知っているのか?」
「最近、裏の世界でも噂になっています」
「なら話は早い」
ヘルマン子爵は金貨の入った袋を机へ置いた。
「報酬は倍出そう」
黒衣の男は袋を確認し――。
「承知しました」
静かに答えた。
彼らの名は――。
『黒い影』。
王都の裏社会で、その名を知らぬ者はいない暗殺組織だった。
◇
その日の夜。
王立騎士団の宿舎。
バルダスは一人、机に向かっていた。
手元には酒瓶。
小さな器。
そして、村から持ってきた干し肉。
「……やっぱり、酒は故郷のほうが美味いな」
窓の外を眺める。
王都の夜は明るい。
だが、騎士団の宿舎は静まり返っていた。
バルダスは酒を一口飲む。
「……明日は朝から訓練か」
そう呟いた、その時だった。
「…………」
バルダスの手が止まった。
何かを感じたわけではない。
ただ――。
「……せっかくの晩酌なのにな」
小さく息を吐く。
「物騒な客だ」
次の瞬間。
天井。
床。
そして窓。
三方向から、同時に人影が飛び込んできた。
黒衣。
短剣。
気配を完全に殺した動き。
狙いは一つ。
バルダスの急所。
しかも、その刃には致死性の毒が塗られている。
三人とも一撃必殺を得意とする、Aランク級の暗殺者。
普通の人間なら、反応することすらできない。
だが――。
「おっと」
バルダスは椅子に座ったまま、ほんの僅かに身体を傾けた。
右。
左。
そして後ろ。
ただ、それだけ。
酒瓶は一滴も揺れていない。
暗殺者たちの短剣が、ことごとく空を切る。
そして――。
ガキィン!
三本の刃が互いにぶつかった。
「なっ……!」
「動きが……見えなかった!?」
暗殺者たちの顔に初めて動揺が浮かぶ。
バルダスは酒瓶を机へ置いた。
「……暗闇で気配を消すのは基本だが」
そして、少し困ったように眉を寄せる。
「君たち、匂いが強すぎるぞ」
「……何?」
「高級な香油の匂いと、毒の匂いが混ざってる」
バルダスは鼻を軽く鳴らした。
「森の獣のほうが、よっぽど隠れるのが上手い」
「…………」
三人の暗殺者が凍りついた。
気配ではない。
目でもない。
匂い。
そんなもので、自分たちの接近を見抜いたというのか。
「さて……」
バルダスは机の上へ視線を落とした。
「剣を抜くほどでもないな」
そして――。
箸を一本、手に取った。
「これでいいか」
「……は?」
次の瞬間。
バルダスの姿が消えた。
――トン。
――トン。
――トン。
ほとんど同時に、三人の身体へ軽い衝撃が走る。
「ぐっ……!」
「な、何を……!」
暗殺者たちの身体から、一斉に力が抜けた。
膝が崩れる。
短剣が床へ落ちた。
ドサッ。
三人とも、その場に倒れ込んだ。
「…………」
バルダスは手にした箸を見る。
「……箸でもいけるんだな」
本人にとっては、少し意外だった。
そして倒れている三人を見下ろす。
「大丈夫か?」
「…………」
返事はない。
「寝てるのか?」
バルダスは首を傾げた。
まさか自分が、王都でも屈指の暗殺者三人を一瞬で無力化したなどとは思ってもいない。
ただ――。
「やれやれ」
小さくため息をつく。
「王都は物騒でいかんな」
酒瓶を手に取る。
「早く村に帰りたいよ」
そう呟くと、バルダスは残った酒を飲み干した。
そして――。
「明日も早いし、もう寝るか」
床に転がった三人の暗殺者をそのままにして、さっさと寝床へ向かった。
その背中を見つめながら、意識を失う寸前の暗殺者の一人は思った。
――あり得ない。
自分たちは、幾多の修羅場を潜り抜けてきた。
気配を消す技術も。
暗殺の技術も。
毒の扱いも。
すべて一流だ。
それなのに。
目の前の男は――。
酒を一滴もこぼさず。
椅子から立ち上がることすらなく。
箸一本で。
三人を倒した。
しかも――。
本人は、それを「大したことではない」とすら思っていない。
その事実に気づいた時。
暗殺者は、最後に一つだけ理解した。
――自分たちは、暗殺する相手を間違えた。
そして翌朝。
王都の裏社会には、新たな噂が流れることになる。
『王立騎士団の最高師範には、絶対に手を出すな』
その噂が広がるまでに――。
そう時間はかからなかった。




