第2話:王都への旅路と襲撃
長年住み慣れた開拓村を後にして、数日。
バルダス・グリフは、王都へ向かう馬車の中にいた。
窓の外を流れていくのは、見慣れた北方の景色。
深い森。
荒れた街道。
時折姿を見せる小さな集落。
王都で暮らしていた若い頃なら、胸を躍らせて眺めていただろう。
だが、四十二歳になった今のバルダスにとっては、どこか落ち着かない光景だった。
「……本当に俺が行くのか」
ぽつりと呟く。
「本当に行くんですよ」
向かいに座るシエナが即答した。
バルダスの荷物は少ない。
使い古した一本の鉄剣。
最低限の着替え。
そして村を出る直前、長年世話になった村人たちから渡された小さな包み。
それだけだった。
「最高師範になるんだろう? もう少し何か、こう……立派な装備とか必要じゃないのか?」
「必要ありません」
「王立騎士団だぞ?」
「はい」
「俺みたいな田舎のおっさんが行ったら、笑われるんじゃないか?」
「誰も笑いません」
「でもなぁ……」
バルダスは腕を組み、深く考え込む。
「騎士団といえば、代々騎士の家系だったり、幼い頃から英才教育を受けていたり、魔力に恵まれていたり……そういう連中の集まりなんだろう?」
「その通りです」
「だったら、なおさら俺なんかが――」
「先生」
シエナが静かに言葉を遮った。
「才能も、血統も、家柄も」
その瞳には、一切の迷いがなかった。
「先生が積み重ねてきた『時間』の前では、何の意味もありません」
「……時間?」
「はい」
シエナは微笑んだ。
「先生は二十年間、一日も欠かさず剣を振ってきたのでしょう?」
「まあ……そうだな」
「それだけです」
「それだけ?」
「二十年です」
シエナは指を一本立てた。
「一日千回なら、七百万回以上」
「……そんなに振ったのか?」
「計算上はそうなります」
「……」
バルダスは少し遠い目をした。
言われてみれば、確かに長い。
だが、本人にとってはただの日課だった。
朝起きて剣を振る。
仕事が終われば剣を振る。
雨の日も。
雪の日も。
体調が悪い日でさえ、最低限の型だけは繰り返した。
特別な才能がなかったからこそ、やめなかった。
「まあ……才能がなかったから、続けるしかなかったんだけどな」
「……」
シエナは何も言わなかった。
ただ、苦笑した。
「何だ?」
「いえ」
――この人は、本当に自分が何を言っているのか理解していない。
そう思っただけだった。
◇
それからしばらくして。
馬車は、険しい峡谷へと差しかかった。
街道の両側に切り立った岩壁が迫り、空が細く見える。
周囲には巨大な獣の爪痕のような傷が刻まれた岩肌。
不気味な静けさが漂っていた。
「……ここは?」
バルダスが窓の外を眺める。
「黒骨の峡谷です」
シエナの表情が険しくなった。
「魔獣の生息地として有名な場所です。通常なら王国軍が警戒しているはずなのですが……」
その時だった。
――ゴゴゴゴゴゴ……。
「……ん?」
地面が揺れた。
馬車が大きく揺さぶられる。
「な、何だ!?」
馬が怯えたように嘶いた。
次の瞬間。
――ドォォォンッ!!
大地が爆発した。
岩壁の一部が崩れ、土煙が舞い上がる。
その向こうから――。
巨大な影が姿を現した。
「……あれは」
シエナが息を呑む。
全長五メートルを超える巨体。
分厚い外殻。
大地を踏み砕く四本の脚。
そして巨大な顎。
「地竜……!」
バルダスが目を丸くする。
「グラン・レックス。Bランク指定の魔獣です」
シエナが剣に手をかける。
「本来なら複数の騎士で討伐する魔獣ですが……」
地竜が咆哮した。
――グオオオオオオオッ!!
その声だけで大気が震える。
馬車の馬が恐怖で後退した。
「ここは私が食い止めます!」
シエナが細剣を抜く。
「バルダス先生は馬車の中に――」
「いや」
「先生?」
「馬車が壊されたら困るだろう」
バルダスはそう言って、馬車から降りた。
「先生、危険です!」
「大丈夫だ」
「相手はBランク魔獣ですよ!」
「昔、山で熊に出くわしたことがあってな」
「……熊?」
「そう。ああいうのは、正面から相手をすると面倒なんだ」
バルダスは周囲を見渡す。
そして地面に落ちていた一本の木の枝を拾った。
「……これでいいか」
「…………」
シエナは言葉を失った。
「先生」
「ん?」
「それは……剣ではありません」
「見れば分かる」
「なぜ、それを?」
「剣を抜くほどでもないだろう」
「…………」
シエナの額に、冷たい汗が流れた。
地竜が怒り狂ったように突進してくる。
巨体が地面を踏みしめるたび、大地が揺れる。
「先生!」
「大丈夫だ」
バルダスは枝を握った。
そして――。
「昔、熊を追い払った時と同じだ」
一歩。
前へ出る。
たった一歩。
それだけだった。
だが。
その瞬間――。
空気が爆発した。
――ドオオオオンッ!!
「――――ッ!?」
シエナが目を見開く。
バルダスの身体が、一瞬で地竜の懐へ潜り込んでいた。
木の枝を握った右腕が、ほんの僅かに引かれる。
「こういう時は……」
腰を落とす。
踏み込む。
肩を回す。
腕を伸ばす。
「真っ直ぐ突けばいい」
――ズドンッ!!
次の瞬間。
木の枝が、地竜の眉間へ突き刺さった。
いや。
正確には――。
枝が触れた瞬間、凄まじい衝撃波が発生した。
大気が爆ぜる。
地面が抉れる。
峡谷を覆っていた土煙が、一瞬で吹き飛ぶ。
巨大な地竜の身体が浮き上がった。
「…………」
シエナは声を失った。
五メートルを超える巨体が――。
まるで巨大な岩でも蹴り飛ばしたかのように宙を舞い。
そのまま地面へ叩きつけられた。
――ズゥゥゥン……。
地響き。
そして、静寂。
地竜は二度と動かなかった。
「…………え?」
シエナの口から、ようやく声が漏れた。
バルダスはというと。
「……よし」
手元の枝を眺めている。
「馬車は無事だな」
最初に確認したのは、そこだった。
それから倒れた地竜を見る。
「しかし……」
バルダスは首を傾げた。
「最近、木こり仕事をしているせいか、少し力が余っているような気がするな」
「…………」
シエナは答えられなかった。
視線を地竜へ向ける。
次に、バルダスの手元にある木の枝へ。
枝は――折れてすらいない。
「先生……」
「ん?」
「それは、絶対に気のせいではありません」
「そうか?」
「はい」
シエナは震える声で答えた。
今、目の前で起きたこと。
それを理解するには、彼女自身が積み上げてきた騎士としての常識を、一度すべて捨てる必要があった。
Bランク魔獣。
地竜グラン・レックス。
王国の騎士たちが、命懸けで討伐する存在。
それを――。
木の枝一本で。
一撃。
「…………」
シエナは改めてバルダスを見る。
本人は何事もなかったかのように、馬車の様子を確認している。
「先生」
「何だ?」
「王都に着いたら……」
「うん」
「絶対に、勝手に剣を振らないでください」
「……?」
バルダスは不思議そうに首を傾げた。
シエナは確信した。
この男は――。
まだ、自分の強さを理解していない。
いや。
理解していないどころか。
自分が何をしでかしたのかすら、分かっていない。
そしてシエナは、この時まだ知らなかった。
この程度の騒ぎなど。
バルダス・グリフという男が王都で巻き起こす騒動の――。
ほんの始まりに過ぎないことを。




