第1話:最果ての村の枯れた剣
王国最北端。
鬱蒼とした原生林に囲まれ、街道からも遠く離れた小さな村がある。
人の往来も少なく、王都から訪れる者など滅多にいない。
そんな辺境の村に、朝靄が立ち込めていた。
村の中央にある広場で、一人の男が木剣を握っている。
バルダス・グリフ、四十二歳。
白髪の混じり始めた髪を無造作に束ね、粗末な村人用の服を着たその姿だけを見れば、どこにでもいる中年男にしか見えない。
だが――。
「……ふむ」
バルダスは静かに木剣を振り下ろした。
ヒュッ――。
空気を裂く音が、朝靄の中に響く。
続けて一歩。
さらに一歩。
剣を振る。
止める。
踏み込む。
振り返る。
それを何度も繰り返す。
やがてバルダスは剣を下ろし、小さく首を傾げた。
「……やはり、踏み込みの瞬間に、わずかなブレが出るな」
誰に聞かせるでもなく呟く。
本人にとっては、真剣な反省だった。
二十年近く繰り返している基本動作。
それでも、まだ完璧ではない。
「もう少し腰を落とすか……いや、それでは次の動作が遅れる」
木剣を見つめながら、バルダスは考え込む。
その姿を見た村人がいれば、きっとこう思っただろう。
――また先生が一人で剣の稽古をしている、と。
それだけだ。
彼が一振りするたびに、周囲の空気が僅かに震えていることにも。
その足運びが、熟練の騎士ですら目で追えないほど洗練されていることにも。
誰も気づいてはいない。
そして何より――。
本人が、最も気づいていなかった。
◇
バルダスがかつて剣を学んでいたのは、王都だった。
若かりし頃、王立騎士養成所の門を叩いた。
剣士として名を上げる。
騎士になる。
あわよくば、王国を代表する英雄になる。
そんな夢を抱いていた。
だが、現実は甘くなかった。
周囲には、幼い頃から剣を振ってきた者。
魔力に恵まれた者。
一度見ただけで技を覚える天才。
そして――生まれながらにして人並み外れた才能を持つ者たちがいた。
バルダスは、その中に埋もれた。
何をやっても一番にはなれない。
努力しても、天才たちとの差は縮まらない。
やがて彼は、剣の道を諦めた。
故郷へ戻り、小さな村で暮らすようになった。
それから二十年。
村の若者に剣を教え。
薪を割り。
畑を手伝い。
時には森で獣を狩る。
そんな静かな生活を送ってきた。
本人は、自分の人生をこう考えている。
――大成しなかった。
――才能がなかった。
――ただ、それだけだ。
だからこそ、彼は二十年間、誰に褒められることもなく基礎を繰り返した。
天才たちのような派手な技など知らない。
特別な秘伝もない。
ただ、一つ一つの動作を見直し続けた。
踏み込み。
体重移動。
腰の回転。
剣の軌道。
呼吸。
重心。
一日。
また一日。
十年。
二十年。
その結果――。
本人が「まだまだ未熟だ」と思っている基礎動作は、いつしか人の領域を遥かに超えていた。
だが、それを指摘する者は誰もいなかった。
この村には、彼より強い剣士など存在しなかったからだ。
「……もう少しだけ、速くできるはずなんだがな」
バルダスは木剣を握り直す。
その瞬間だった。
「――相変わらずですね」
「……ん?」
背後から声がした。
バルダスが振り返る。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
純白の甲冑。
腰に吊るされた細剣。
長い金髪が朝風に揺れている。
まだ十九歳という若さにもかかわらず、その名を知らぬ騎士はいない。
王立騎士団所属。
王都最速の剣士。
その異名は――。
「……シエナか?」
「はい。お久しぶりです、先生」
シエナ・アルベルティ。
王都では「神速の乙女」と呼ばれる、王国最高峰の騎士の一人である。
バルダスは目を丸くした。
「大きくなったな。最後に会ったのは……いつだった?」
「八年前です」
「そうか。もうそんなになるのか」
懐かしそうに笑うバルダス。
だがシエナは笑わなかった。
むしろ、どこか呆れたような表情でバルダスを見つめている。
「先生」
「ん?」
「どうして、まだご自身のことを凡人だと思っているのですか?」
「…………は?」
バルダスは間の抜けた声を漏らした。
「いや、何を言っているんだ。俺は昔から大したことはないだろう」
「昔から?」
シエナの眉が僅かに動く。
「先生が王都を去ってから、二十年です」
「そうだな」
「その二十年間、先生は毎日剣を振っていた」
「まあ……暇だったからな」
「……」
シエナは深く息を吐いた。
「先生。あなたは昔から、才能のある者には勝てないと言っていましたね」
「実際そうだったからな」
「違います」
シエナは即答した。
「先生は、才能のある者と同じ土俵に立とうとしなかっただけです」
「?」
バルダスが首を傾げる。
シエナは腰の細剣に手を添えた。
「言葉で説明するより、実際に見ていただいたほうが早いでしょう」
「……何を?」
「先生。構えてください」
「俺と?」
「はい」
「いやいや。お前、王都の騎士団で――」
「構えてください」
有無を言わせぬ声だった。
バルダスは困ったように頭を掻く。
「……仕方ないな」
そして木剣を構えた。
その瞬間。
空気が変わった。
シエナの表情から、一切の私情が消える。
足が僅かに沈む。
次の瞬間――。
姿が消えた。
いや。
消えたように見えた。
王都でさえ、防ぐことは不可能と評される神速の突き。
狙いはバルダスの胸元。
一直線。
迷いはない。
――速い。
だが。
「……そこだな」
バルダスの身体が動いた。
本人には、考える時間などなかった。
ただ長年染みついた感覚に従っただけだった。
木剣が僅かに傾く。
細剣の軌道を、ほんの数センチ逸らす。
そして――。
パキィン!
乾いた音が響いた。
シエナの細剣が弾かれる。
同時に、バルダスの木剣が彼女の喉元で止まっていた。
「…………」
「…………」
二人の間に、静寂が落ちる。
バルダスは自分の手元を見た。
そしてシエナを見る。
「……あれ?」
本人だけが、何が起きたのか理解していない。
「今の……たまたまだろう?」
「…………」
シエナは答えなかった。
ただ静かに細剣を収める。
そして――。
深々と頭を下げた。
「やはり……」
「?」
「先生は、何も変わっていません」
顔を上げたシエナの瞳には、尊敬とも畏怖ともつかない光が宿っていた。
「王都で誰も防げなかった私の突きを、先生は木剣一本で受け流した」
「いや……受け流したというほど大したことでは」
「大したことです」
きっぱりと言い切る。
「先生。あなたは自分が何者なのか、まだ理解していない」
「何者って……」
シエナは胸元から一枚の羊皮紙を取り出した。
そこには王家の紋章が刻まれている。
「王国国王陛下の勅命です」
「……勅命?」
「はい」
シエナは姿勢を正した。
「バルダス・グリフ殿」
そして、正式な口調で告げる。
「あなたを王立騎士団最高師範として、王都へ招聘する」
「…………」
「王都へお越しください」
「…………いや」
バルダスは困ったように頭を掻いた。
「俺はただの村の剣士だぞ?」
「違います」
「薪割りと畑仕事しかしてないぞ?」
「それも知っています」
「王都には俺より凄い奴がいくらでもいるだろう」
「いません」
「……本当に?」
「本当に」
シエナは即答した。
そして、ほんの少しだけ微笑んだ。
「先生。二十年間、誰にも知られることなく磨き続けたその剣を――」
一歩、前へ出る。
「今度は世界のために使ってください」
朝靄の向こう。
遠くに広がる原生林から、鳥の鳴き声が聞こえた。
バルダスは手にした古びた木剣を見つめる。
これまでの二十年間。
ただ、自分には才能がなかったと思っていた。
だから人目につかない場所で、ひたすら基礎だけを磨き続けた。
それがまさか――。
「……俺が、最高師範?」
「はい」
「王立騎士団の?」
「はい」
「……俺が?」
「先生以外に誰がいるんですか」
シエナの返答に、バルダスはしばらく黙り込んだ。
そして。
「……参ったな」
困ったように笑った。
こうして。
本人だけが自らの強さに気づいていない、最強の凡人――バルダス・グリフの、遅すぎる立身出世劇が幕を開ける。
四十二歳。
人生の盛りをとうに過ぎたと思っていた男の第二の人生が、今まさに始まろうとしていた。




