第9話:忍び寄る魔王の影
王都武闘大会。
その一日を境に、バルダス・グリフの名は王国中へと広がっていった。
木剣一本で『首斬り獣』ボルドフを一撃で吹き飛ばした男。
王立騎士団最高師範。
その異名は、瞬く間に人々の間を駆け巡った。
「聞いたか? 木剣で巨漢を吹き飛ばしたらしいぞ!」
「いやいや、俺が聞いた話では、指一本で倒したって話だ!」
「王都じゃ、あの人を『剣聖』と呼ぶ奴までいるらしいぞ!」
尾ひれのついた噂まで加わり、バルダスの評判は日に日に大きくなっていった。
――しかし。
そんな平和な空気を、一瞬にして切り裂く知らせが王宮へ届く。
◇
「――報告!」
王宮の大広間。
血相を変えた伝令兵が、息を切らしながら駆け込んできた。
「北方の封印の地より、緊急報告です!」
「申せ!」
国王の声が響く。
伝令兵は震える声で告げた。
「古代の魔王――」
一瞬、言葉に詰まる。
「――『魔帝ガルーダ』が、復活いたしました!」
「…………!」
会議室が凍りついた。
誰も声を発しない。
数百年前。
まだ王国が現在の形になるより遥か昔。
人族を滅亡寸前まで追い込んだ伝説の魔王がいた。
その名は――魔帝ガルーダ。
幾つもの国を滅ぼし、数え切れないほどの命を奪った存在。
最後には、当時の英雄たちが己の命を代償として、ようやく封印したと伝えられている。
そして今――。
「魔帝は……一体どれほどの軍勢を?」
震える声で誰かが尋ねる。
伝令兵は、顔を青ざめさせた。
「確認できただけでも……約一万」
「一万……」
「魔物の軍勢を率い、北方街道を南下しております」
ざわめきが広がる。
「進軍速度は?」
「このまま進めば――」
伝令兵が唇を震わせる。
「数週間以内には、王都へ到達する可能性があります」
「…………」
沈黙。
誰もが理解していた。
これは、ただの魔物の襲撃ではない。
王国そのものの存亡を左右する戦いになる。
「……魔帝ガルーダ」
国王が低く呟く。
「本当に、あの魔王が……」
数百年前の記録によれば、魔帝ガルーダの力は一個軍団などでは到底対抗できないほどだったという。
数の優位など意味をなさない。
強者一人の存在だけで、戦場そのものが崩壊する。
だからこそ――。
「王立騎士団全軍を動員する!」
国王が立ち上がった。
「北方からの避難を急がせよ! 各都市へ迎撃準備を命じる!」
「はっ!」
「王都の城壁を強化せよ!」
「承知しました!」
次々と指示が飛び交う。
王宮は一瞬にして戦時体制へと移行した。
◇
王立騎士団も、すぐさま出撃準備に入った。
鎧を身につける音。
剣を確認する音。
馬の蹄が石畳を叩く音。
騎士たちの表情に、いつもの余裕はない。
誰もが覚悟を決めていた。
そして――。
「バルダス先生……」
シエナが静かに口を開いた。
その顔には、これまで見せたことのないほどの不安が浮かんでいる。
「申し訳ありません」
「何がだ?」
「先生を……こんな戦いに巻き込んでしまって」
シエナは拳を握った。
「魔帝ガルーダは、伝説の存在です」
声が僅かに震える。
「私たちが知る魔物とは、次元が違う」
いくらバルダスが強い。
それはシエナ自身が誰よりも知っている。
しかし――。
相手は伝説の魔王。
もし、万が一。
先生の身に何かあれば――。
「先生は、王都に残ってください」
「…………」
「安全な場所へ避難していただきたいのです」
バルダスはしばらく黙っていた。
そして――。
「……魔王ねぇ」
手にしていた弁当のパンを、もぐもぐと食べる。
「先生……?」
「昔、村のばあちゃんが読んでくれた絵本に、そんな奴が出てきたな」
「…………」
「角が生えてて、真っ黒で、すごく怖そうな奴だった」
「先生!」
シエナの声が大きくなる。
「冗談を言っている場合ではありません!」
「冗談じゃないぞ」
バルダスはパンを飲み込み、首を傾げた。
「魔王が強いっていうのは分かった」
「ならば――」
「だからって、弟子が命懸けで戦おうとしてるのに、師匠だけ逃げるわけにはいかんだろう」
「…………!」
シエナが目を見開く。
バルダスは、いつものように穏やかに笑っていた。
「それに――」
腰に佩いた鉄剣へ手を伸ばす。
長年使い続けた、何の変哲もない一本の鉄剣。
バルダスは、その柄を軽く叩いた。
「北の森が荒らされたら困る」
「……森?」
「ああ」
真剣な顔で頷く。
「俺の好きな薪が採れなくなってしまうからな」
「…………」
シエナは、一瞬言葉を失った。
だが――。
次の瞬間。
バルダスは立ち上がった。
「よし」
鉄剣を腰に差す。
「ちょっと散歩がてら、その魔王とやらを退治しに行きますか」
「……先生」
シエナは思わず呟いた。
その姿は、いつもの冴えない中年男と何も変わらない。
白髪の混じった髪。
使い古した服。
腰に差した一本の鉄剣。
それでも――。
なぜだろう。
今のバルダスの背中だけは。
シエナには、どんな英雄よりも頼もしく見えた。
「行きましょう、先生」
シエナは剣を握り直した。
「はい」
こうして――。
王国最北端で復活した伝説の魔王と。
二十年間、自らを「ただの落ちこぼれ」と信じ続けた男。
その二人の運命が、ついに交差することになる。
そして誰も知らない。
魔帝ガルーダがこれから相対する男が――。
数百年もの間、誰一人として到達できなかった剣の領域に、すでに立っていることを。
魔王討伐の旅が、始まった。




