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【連載完結】あなたには、もう逃げ場はありません  作者: 逆立ちハムスター


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隣国の傲慢な王子が壮大に勘違いをしております。

朝の光が、寝室の厚い遮光カーテンの隙間から一筋の黄金の糸のように差し込み、豪奢な天蓋付きベッドを優しく照らしていた。


「……ん」


微かな寝返りを打つと、私の腰に回された力強い腕が、さらにギュッと私を自身の胸へと引き寄せた。背中に当たる、硬く引き締まった胸板。そして、うなじをくすぐる規則正しい寝息と、心を落ち着かせる白檀の香り。


ゆっくりと目を開けると、そこには幸せの象徴のような光景が広がっていた。

私を腕の中に閉じ込めるようにして眠る、セオドア様の端正な寝顔。普段の、他者を寄せ付けない「氷の宰相」としての冷酷なまでの威圧感は鳴りを潜め、今はただ、愛する妻を抱きしめて安心しきっている一人の青年の無防備な顔がそこにあった。


あの大聖堂での歴史的な結婚式から、三ヶ月。

私、リリアーナ・フォン・クラリネス(旧姓ヴァンデルヴァルト)は、クラリネス王国の大公妃として、そしてセオドア様のただ一人の最愛の妻として、これ以上ないほど幸福で、そして目まぐるしい日々を送っていた。


「……見惚れているのかい?私の美しい大公妃殿下」


不意に、頭上から甘く、少し掠れた低い声が降ってきた。

見上げると、いつの間にか目を覚ましていたセオドア様が、その美しい銀色の双眸を細め、私を愛おしそうに見つめている。


「おはようございます、セオドア様。……ええ、見惚れておりましたわ。寝顔はあんなに可愛らしいのに、目が覚めるとどうしてこんなにも色気があるのかしら、と」

「ふ……朝から随分と大胆な妻だ。僕を煽っているのかな?」


セオドア様は低く笑うと、私の額、鼻先、そして唇に、小鳥がついばむような優しいキスを何度も落とした。

彼の体温が直に伝わり、胸の奥が甘く痺れる。十年間、誰にも甘えることが許されなかった私にとって、朝目覚めた瞬間に愛する人の温もりを感じられるこの時間は、何にも代えがたい宝物だった。


「煽ってなどおりませんわ。ただの事実です。……ですが、そろそろ起きませんと。今日は午後から、隣国ヴァロリア帝国の使節団を迎える重要な歓迎式典と晩餐会がございますでしょう?」

「ああ……憂鬱だ。せっかくの君との甘い朝の時間を、あんな野蛮な連中のために切り上げなければならないとは」


セオドア様は心底嫌そうに眉をひそめ、私の首筋に顔を埋めた。


ヴァロリア帝国。

我がクラリネス王国の東に位置するその国は、強大な軍事力を誇る武闘派の国家である。近年、彼らは領土拡大の野心を隠さなくなっており、我が国とは国境付近の魔石鉱山の採掘権を巡って、冷戦状態が続いていた。

今回の使節団の訪問は、表向きは「新たなる大公妃誕生への祝賀」となっているが、その実、我が国の内情を探り、あわよくば不当な貿易協定を結ばせようとする腹積もりであることは明白だった。


「仕方ありませんわ、セオドア様。……それに、使節団の代表は、あの『狂犬』と名高いヴァロリアの第二皇子、レオンハルト殿下だとか。彼らがどのような難癖をつけてこようと、私たちが完璧に返り討ちにして差し上げればよいのです」


私が余裕の笑みを浮かべて彼の背中を優しく撫でると、セオドア様は顔を上げ、私の唇を今度は深く、熱烈に塞いだ。


「んっ……セオドア、様……」

「……本当に、君という女性は最高だ。他国の皇子を前にしても微塵も臆さず、むしろ獲物を見るような目をしている。僕が愛した女は、やはりこの世で最も美しく、恐ろしい」


セオドア様の銀色の瞳に、冷酷で好戦的な光が宿る。それは、氷の宰相としての顔だった。


「レオンハルトめ、僕の妻に少しでも無礼な口を利けば、その首を刎ねて帝国の皇帝に送りつけてやる」

「物騒なことを仰らないでくださいませ。首など刎ねずとも、彼らの経済とプライドを合法的に徹底的にへし折る準備は、すでに私が整えておりますから」


私たちが互いに悪戯っぽい笑みを交わし合った後、ようやく重い腰を上げてベッドから抜け出したのだった。


────


その頃、王都から遠く離れた北方の最果て。

一年中雪と氷に閉ざされた「贖罪の修道院」では、冷たい吹雪が荒れ狂っていた。


「ひぃっ、寒ぃ……手が、手が千切れる……!」


かつて、豪奢な絹の服を纏い、暖かい暖炉の前で美酒を飲んでいた元第一王子エリオットは、今や見る影もないほど薄汚れ、やせ細っていた。

彼が着ているのは、隙間風を通す粗末な麻の修道服一枚。凍傷で赤黒く腫れ上がった手には、重い鉄の斧が握りしめられている。彼の毎日の仕事は、修道院の暖炉で使うための薪割りと、凍った畑の雪かきだった。


「こら、手を休めるな罪人番号408番!今日のノルマが終わるまで、夕食の芋粥は抜きだぞ!」

「ひっ!は、はいぃっ!」


見張りの屈強な修道士から鞭で雪を叩きつけられ、エリオットは悲鳴を上げて再び斧を振るう。

王族としてのプライドなど、とうの昔に粉々に砕け散っていた。ここにあるのは、ただ生き延びるために地を這う惨めな男の姿だけだ。


薪割りを終え、ガタガタと震えながら冷え切った石造りの食堂に戻ると、見張りの兵士たちが暖炉の火に当たりながら談笑しているのが聞こえてきた。


「なあ、聞いたか?王都から来た手紙。今日、ヴァロリア帝国の使節団が来るらしいぞ」

「おお、あの軍事国家か。だが、心配はいらねえだろ。うちにはあの『氷の宰相』セオドア大公殿下と、あのリリアーナ大公妃殿下がいらっしゃるんだからな」

「全くだ!大公妃殿下が内政を大公殿下と分担するようになってから、この国の経済はうなぎのぼりだ。頭が切れて、美しくて、大公殿下とも熱々のご夫婦。まさに我が国の至宝だよな!」


その言葉が耳に入った瞬間、エリオットの手から、粗末な木の実が入った木の器がポロリと滑り落ちた。


「り、リリアーナ……」


エリオットの濁った瞳から、ボロボロと後悔の涙が溢れ出す。

彼女は、自分の婚約者だった。自分の隣で、自分のためにその類稀なる才能を使ってくれていたはずだった。

もし、自分があのまま彼女を大切にし、彼女の言うことに耳を傾けていれば。今頃自分は王座に座り、あの美しく完璧な妻と共に、国中から称賛を浴びていたはずなのだ。


「ああ……ああああっ!俺が、俺が馬鹿だった!リリアーナぁぁっ!俺を置いていかないでくれぇぇぇっ!」


冷たい石の床に這いつくばり、鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら泣き叫ぶエリオット。

しかし、彼の周囲にいる修道士や兵士たちは、誰一人として彼に同情の目を向けることはない。「またあの馬鹿が狂ったか」と、冷笑交じりの軽蔑の視線を投げかけるだけだった。

彼が手放した輝かしい未来は、二度と戻ってくることはないのだ。


────


一方、王宮の「白百合の間」は、かつて私が婚約破棄を突きつけられたあの夜とは比べ物にならないほどの、絢爛豪華な装飾と熱気に包まれていた。


「ヴァロリア帝国第二皇子、レオンハルト殿下!ならびに使節団の皆様の入場です!」


案内役の声が高らかに響くと、重厚な扉が開き、ヴァロリアの軍服である黒と赤を基調とした正装に身を包んだ男たちが堂々たる足取りで入場してきた。

その先頭を歩くのは、燃えるような赤い髪に、肉食獣のように鋭い金色の瞳を持つ大柄な青年。彼こそが、ヴァロリアの「狂犬」と呼ばれるレオンハルト皇子である。


広間の中央、一段高くなった玉座には国王陛下が座り、そのすぐ右側の最上席に、私とセオドア様が並んで立っていた。


本日の私のドレスは、深いワインレッドのベルベット。胸元には、セオドア様から贈られた大公家の至宝『星の涙』が青白い光を放っている。かつての「氷の薔薇」と呼ばれた冷たさを纏う水色や白のドレスではなく、大公妃としての絶対的な権力と威厳を象徴する、燃えるような真紅。それは、セオドア様の「僕の妻から目を逸らせないようにしてやる」という強い要望によるものだった。


「クラリネス国王陛下。そして、セオドア大公殿下。我が帝国の訪問を歓迎していただき、感謝する」


レオンハルト皇子は、鷹揚に頭を下げた。しかし、その金色の瞳には明らかな侮蔑の色が混じっている。

彼の視線は国王を一瞥した後、すぐにセオドア様へ、そして……私の全身を舐め回すように這い上がってきた。


「ほう。あなたが、噂に名高いリリアーナ大公妃殿下か。いやはや……」


レオンハルト皇子は、ふっと口角を歪め、わざとらしいほど大きなため息をついた。


「美しい花だと聞いてはいたが、なるほど。しかし、一度は頭の足りない王子に『不要だ』と捨てられ、傷物になった令嬢を拾って大公妃に据えるとは。クラリネス王国の懐の深さには恐れ入る。我が帝国であれば、そのような中古品は下働きのメイドにすらいたしませんがな」


広間の空気が、ピシッと凍りついた。

我が国の貴族たちが、皇子のあまりにも無礼な発言に顔を青ざめさせる。


「おい、言葉を慎め……!」


セオドア様から、周囲の空気が一瞬で氷点下に達するほどの、凄まじい殺気と魔力が放たれた。広間の窓ガラスが、ピキピキと音を立てて凍りつき始める。セオドア様の手が腰の剣の柄にかかるのを、私は静かに、しかし確かな力で彼の腕に触れて制止した。


「セオドア様。お怒りになるまでもありませんわ」


私は、極寒の空気に包まれた広間の中で、ただ一人、大輪の薔薇が咲き誇るような、華やかで完璧な微笑みを浮かべた。


「レオンハルト皇子殿下。本日は長旅、ご苦労様でございました。ヴァロリア帝国のような『実力主義』の国からいらっしゃった殿下には、我が国の洗練された文化の機微は、少々理解が難しかったかもしれませんわね」


私の言葉に、レオンハルト皇子の眉がピクリと動いた。


「なに?」

「皇子殿下は、物事の上辺だけを見て『傷物』と判断されるご様子。ですが、真の宝石は、愚か者の手にある時はただの石ころとして扱われ、真の鑑定士の手に渡って初めてその輝きを放つものです。……それに」


私は、扇を優雅に広げ、口元を隠しながら言葉を紡いだ。


「我が国では、価値のわからない愚か者に宝石を預け続けるほど、余裕のある政治はしておりません。無能を早期に切り捨て、適材適所に人材を配置する。その結果が、現在の我が国の圧倒的な経済成長です。……ところで、ヴァロリア帝国の方はいかがでしょうか?」


私は、扇越しに彼の金色の瞳を真っ直ぐに射抜いた。


「お伺いしたところによると、ヴァロリア帝国では今年の春、東部の穀倉地帯で大規模な不作が発生したとか。さらに、軍備拡張に莫大な国費を注ぎ込んだ結果、国家予算は逼迫。このまま冬を迎えれば、国民の三割が餓死、あるいは凍死する危機に瀕している……違いますか?」


「なっ……!き、貴様、なぜ我が国の……!」


レオンハルト皇子の顔色が一瞬にして青ざめ、彼に付き従っていた使節団の文官たちが動揺の声を上げた。

他国の最高機密が、なぜ大公妃である私に漏れているのか。

理由は簡単だ。私が大公妃となってからの三ヶ月間、セオドア様の諜報網と私の情報分析能力をフル稼働させ、ヴァロリアの裏帳簿や物流の不自然な動きから、彼らの内情を完全に丸裸にしていたからである。


「今回、殿下が我が国にいらっしゃった真の目的。それは、我が国が産出する『高品質な魔石』の関税引き下げと、食糧の緊急融資の要請でしょう?」


私が核心を突くと、レオンハルト皇子は奥歯をギリッと鳴らした。


「……そうだとしたら、どうするつもりだ。強気に出るのもいいが、我が国には十万の精鋭軍がいる。もし交渉が決裂すれば、武力を行使してでも……」

「武力ですか?」


私は、心底おかしそうにくすくすと笑い声を上げた。


「殿下、計算ができないにも程がありますわ。現在、ヴァロリア帝国の軍隊が使用している兵器の魔力動力源、その六割は我が国から輸出された魔石です。もし我が国が魔石の輸出を全面ストップすれば、殿下の誇る十万の精鋭軍は、ただの鉄の塊を抱えた案山子の集団に成り下がりますわよ」

「っ……!?」


「さらに、食糧の融資に関しても、我が国が周辺の同盟国に手を回せば、ヴァロリアは完全に経済封鎖されます。戦争を起こす前に、貴国は内乱で自滅するでしょう」


私は扇を閉じ、冷酷なまでに美しい微笑みを皇子に向けた。


「私たちは、無駄な血を流すことを望んでおりません。ですから、特別な提案をご用意いたしました」


私は、背後に控えていた文官から分厚い書類の束を受け取り、皇子の前に突き出した。


「魔石の関税は、現在の五パーセントから『三十パーセント』に引き上げます。食糧融資に関しては、現在の市場価格の三倍で販売いたしましょう。……もしこの条件が飲めないというのであれば、今すぐお引き取りくださいませ。今年の冬、ヴァロリアの国民が凍える夜空の下で、殿下の無能さを呪わないことをお祈りいたしますわ」


「さ、三十パーセントだと!?ふざけるな!そんな暴利、飲めるわけがないだろうが!」

「おや?飲めませんか?」


私が首を傾げると、横からスッと、セオドア様が一歩前に出た。

彼の纏う圧倒的な魔力が、今度は明確な殺意となってレオンハルト皇子の喉元に突きつけられる。


「私の妻の慈悲深い提案が理解できないとは、随分と耳が遠いようだな、皇子。彼女は『三十パーセントで許してやろう』と言っているのだ。僕の計算では、五十パーセントでも君たちは縋り付いてくるはずだったのだがね」

「う……ぐっ……」


セオドア様の絶対的な威圧感の前に、レオンハルト皇子は一歩、また一歩と後ずさりし、ついに膝から崩れ落ちた。

彼の金色の瞳には、先ほどの傲慢さは欠片もなく、底知れぬ恐怖と絶望だけが張り付いている。


「私の妻を『傷物』と侮辱した罪は重い。もし今この場でこの書類にサインをしないというのなら、君の首を刎ね、帝国には『使節団は道中の魔物の襲撃で全滅した』と報告するまでだ。……どちらを選ぶ?狂犬よ」

「……っ!」


レオンハルト皇子は、屈辱に震えながらも、震える手で懐からペンを取り出し、書類に乱暴にサインを書き込んだ。


私が書類を受け取り、完璧なカーテシーで頭を下げると、周囲の貴族たちから、割れんばかりの拍手と歓声が巻き起こった。

武力に頼ることなく、知略と情報戦のみで強大な軍事国家を完全に屈服させたのだ。リリアーナ大公妃の名は、これで国内のみならず、周辺諸国にまで「不可侵の知将」として轟くことになるだろう。


「……覚えておけ。この屈辱、いつか必ず……」


捨て台詞を吐きながら、ほうほうの体で広間から逃げ出していくヴァロリアの使節団。

その滑稽な背中を見送った後、セオドア様は私の腰をグッと強く抱き寄せた。


「見事だったよ、リリアーナ。君のその容赦のない交渉術、見ているだけでゾクゾクした」

「セオドア様の威圧があってこその交渉ですわ。私一人では、あそこまで彼を追い詰めることはできませんでした」


私が彼を見上げて微笑むと、セオドア様は周囲に大勢の貴族たちがいることなど全く気に留める様子もなく、私の顎を持ち上げ、深く熱い口付けを落とした。


「っ……セオドア様、皆様が見て……」

「見せておけばいい。君が僕のただ一人の妻であり、誰にも触れさせることのない絶対的な所有物であることを、世界中に知らしめる必要があるからな」


唇を離したセオドア様は、独占欲に満ちた銀色の瞳で私を見つめ、低い声で囁いた。


「あの馬鹿な皇子が、最初に君を舐め回すように見た瞬間、本当に両目を抉り出してやろうかと思ったよ。……今夜は、覚悟しておいてくれ。君のすべてに、僕の痕を刻み込ませてもらう」


そのあまりにも甘く、そして危険な響きに、私の顔は首まで真っ赤に染まってしまった。

氷の宰相と呼ばれる冷徹な夫は、私に対する愛と独占欲となると、ブレーキというものを全く知らないのだ。


「……お手柔らかに、お願いいたしますわ」


私が恥じらいながらも彼の胸に顔を埋めると、セオドア様は満足げな低い笑い声を上げた。


愚かな元婚約者は極寒の地で絶望の涙を流し続け、他国の傲慢な皇子はその知略の前にひれ伏した。

完璧な公爵令嬢から、完璧で最強の大公妃となった私の人生には、もはや一片の曇りもない。


愛する夫の腕の中で、私はこれからもこの国を最高に豊かにし、私たちに刃向かう愚か者たちには、極上の「ざまあ」を用意して差し上げようと、心の中で密かに微笑んだのだった。

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