溺愛は留まることを知らず、時代遅れの貴族は、私達の前にひれ伏す
季節は巡り、王都を彩っていた冷たい雪は溶け、柔らかな春の陽射しが降り注ぐ季節となっていた。
あの大騒動から半年。
元第一王子エリオットは北方の極寒の修道院へ送られ、毎日粗食に耐えながら厳しい戒律の中で祈りを捧げる日々を送っているという。彼をそそのかしたクロエ・マーティンとその一族は、猛毒の瘴気が漂う魔石鉱山で、二度と戻ることのない過酷な労働に従事している。
彼らの破滅をよそに、私の人生はまさに春を謳歌していた。
王家の有責による婚約破棄は、ヴァンデルヴァルト公爵家への莫大な慰謝料と領地割譲という形で決着がついた。そして何より、私、リリアーナ・フォン・ヴァンデルヴァルトは、国王陛下の正式な裁可を経て、セオドア・フォン・クラリネス大公殿下の婚約者として、王宮で確固たる地位を築いていた。
「……リリアーナ。その書類は後回しにして、少し休まないか?」
大公専用の執務室。
書類の山と格闘していた私に、甘く、少しだけ不満げな声が降ってきた。
顔を上げると、漆黒の髪を無造作に流したセオドア様が、見事な銀色の瞳を細めて私を見つめている。普段の「氷の宰相」としての冷徹な顔はどこへやら、今の彼はまるで構ってもらえない大型犬のような雰囲気を漂わせていた。
「もう少しだけお待ちくださいませ、セオドア様。南方領地からの春の税収報告書の精査が、あと少しで終わりますから。……ほら、やはり。ここの小麦の取引額、関税の計算が昨年の法改正を反映しておりませんわ。これでは国庫への納入額に誤差が生じます」
「……君のその優秀さは誇らしいが、時には僕の存在も思い出してほしいものだな。僕は君を補佐官として雇ったのではなく、愛する妻として迎えたのだから」
ため息をつきながら立ち上がったセオドア様は、私の背後に回ると、ふわりと私の肩に腕を回した。
彼の高い体温と、心地よい白檀の香りが私を包み込む。頬に唇を落とされ、私はくすりと笑いながら羽根ペンをインク壺に戻した。
「ふふ、申し訳ありません。でも、こうして自分の持つ知識を、誰の顔色をうかがうこともなく国の発展のために使えることが、楽しくて仕方ないのです。……かつては、私がどれほど完璧な計画を立てても、『可愛げがない』『理屈っぽい』と一蹴されて、挙句の果てに別の名目で横領されていましたからね」
「あの愚鈍な甥の話はしないでくれ。思い出すだけで虫唾が走る。彼をギロチンではなく修道院送りに留めた僕の寛大さを、今でも毎晩後悔しているんだ」
セオドア様の声が急に一段低くなり、本気の殺気が混じったことに、私は慌てて彼の手に自分の手を重ねた。
「冗談ですわ。それに、過去の経験があったからこそ、私はこうしてセオドア様のお役に立てているのですから」
「……君は本当に、前向きで強いな」
私の首筋に顔を埋めたセオドア様が、甘えるようにすりすりと頬を擦り付けてくる。
王宮の誰もが恐れる冷徹な大公殿下が、私にだけ見せるこの無防備な姿。これがどれほど私の胸を満たし、幸福感で溺れさせるか、彼は知っているのだろうか。
「ですがセオドア様、今日は午後から重要な『お茶会』が控えておりますよ。ゆっくりしている時間はありません」
「……ああ。ヴァレリウス侯爵か。本当に、鬱陶しい連中だ」
セオドア様の表情が、一瞬にして元の「氷の宰相」のものへと戻った。
今日のお茶会。それは単なる社交の場ではない。
セオドア様と私の婚約に異を唱える、保守派の貴族たちとの静かなる『戦争』の場である。
ヴァレリウス侯爵は、先代の国王の時代から権力を握る古い貴族の筆頭だ。彼は、かつて第一王子の婚約者であった私が、そのまま大公の正妻に横滑りしたことが気に入らないらしい。「一度婚約を破棄された傷物」である私を貶め、自身の娘をセオドア様の側室、あわよくば正妻に押し込もうと画策しているのだ。
「僕が直接叩き潰してやってもいいのだが。彼らの領地での不正の証拠は、すでにいくつか握っている」
「いいえ。これは私に対する挑戦です。セオドア様の力をお借りするまでもなく、私が完璧な『大公妃』にふさわしいことを、彼らに思い知らせて差し上げますわ」
私が自信に満ちた笑みを浮かべると、セオドア様は面白そうに目を細め、私の唇に軽くキスをした。
「……頼もしいことだ。僕の美しい氷の薔薇が、あの古狸どもをどう料理するのか、特等席で見せてもらおう」
────
午後三時。王宮の南庭に面した、ガラス張りの豪華なサンルーム。
用意された円卓には、最高級の茶葉の香りと、色とりどりの美しい茶菓子が並べられていた。
「本日はお招きいただき、光栄の至りに存じます、リリアーナ様。……ああ、失礼。大公妃殿下と呼ぶべきでしたかな」
恭しく頭を下げるヴァレリウス侯爵の口元には、隠しきれない嘲笑が浮かんでいた。白髪を綺麗に撫でつけた初老の男の隣には、これ見よがしに派手な黄色のドレスを着た、彼の娘であるセシリア・ヴァレリウス令嬢が座っている。
「ようこそおいでくださいました、侯爵閣下。セシリア嬢も、本日はよくいらっしゃいました」
私は春の空を思わせる淡い水色のドレスに身を包み、完璧な微笑みとカーテシーで彼らを迎えた。私の斜め後ろでは、セオドア様が腕を組み、冷ややかな眼差しで彼らを見下ろしている。
「いやはや、しかし驚きましたな。まさかリリアーナ様が、エリオット殿下に離縁された後、すぐさまセオドア大公殿下の懐に収まるとは。社交界では、少々……ええ、『はしたない』と眉をひそめる者もおりますぞ」
「お父様ったら。リリアーナ様も、拾ってくださる方がいて必死だったのですわ。殿下に捨てられた哀れな令嬢なのですから、私たちが優しくして差し上げなければ」
セシリア嬢が、扇で口元を隠しながらくすくすと笑う。
エリオットの婚約破棄が「王家の有責」であることは公式発表されているにも関わらず、彼らはあえて私を「捨てられた女」として扱い、立場を守ろうとしているのだ。
クロエ・マーティンを彷彿とさせるその浅はかな振る舞いに、私は心の中で深い深いため息をついた。十年かけて完璧な淑女の教養を身につけた私に、このような三流の嫌味など通じるはずがないというのに。
「ご心配には及びませんわ、侯爵閣下、セシリア嬢」
私は優雅にティーカップを傾け、芳醇な紅茶の香りを楽しんでから、にっこりと微笑んだ。
「王家からの慰謝料として、我がヴァンデルヴァルト公爵家には王室直轄領であった東部の穀倉地帯が譲渡されました。あの土地がもたらす利益は年間で金貨十万枚を下りません。拾われるどころか、私はむしろ実家に莫大な富をもたらした孝行娘として、父から大層褒められましたのよ」
「なっ……」
「それに比べて、ヴァレリウス侯爵領はいかがですか?最近、特産品である絹織物の生産量が著しく落ち込んでいると耳にしました。聞いたところによると、新しい紡績技術の導入を拒み、旧態依然とした製法に固執していることが原因だとか」
侯爵の顔が、ピクッと引きつった。
私は容赦なく、言葉の刃を研ぎ澄ませる。
「さらに、領内の街道の整備を怠っているため、流通のコストが他領の三倍に跳ね上がっているそうですね。これでは、いずれ侯爵領の経済は立ち行かなくなります。他家の娘の心配をしている余裕がおありなら、ご自身の領地の心配をなさった方がよろしいのではありませんか?」
「き、貴様……!たかが小娘が、我が領地の経営に口を出すというのか!」
痛いところを突かれた侯爵が、顔を真っ赤にして立ち上がりかける。
そこへ、それまで黙って聞いていたセオドア様が、絶対零度の声を発した。
「座れ、ヴァレリウス」
たった一言。
しかし、そこに込められた圧倒的な魔力と権力者の威圧感に、侯爵はカエルを睨んだ蛇のように硬直し、ドスンと椅子に尻餅をついた。セシリア嬢に至っては、恐怖でガタガタと震え始めている。
「リリアーナは、僕の正式な婚約者であり、この国の政務を僕と共に取り仕切る大公妃だ。彼女の言葉は、すなわち僕の言葉。僕の妻を『たかが小娘』と愚弄した罪、万死に値するぞ」
「ひっ……!も、申し訳ございません!大公殿下!そのようなつもりでは……!」
「君が今日ここへ来た目的はわかっている。その隣にいる愚かな娘を、僕のベッドに潜り込ませようという魂胆だろう?」
セオドア様の氷のような銀色の瞳が、セシリア嬢を射抜く。
「リリアーナの教養、知性、そして気高さ。そのどれ一つとして足元にも及ばないような派手なだけの女を、僕が抱くとでも思ったか?僕が愛し、必要としているのは、この世界でリリアーナただ一人だ。彼女の美しき頭脳と完璧な微笑みの前に、他の女など道端の石ころと同義でしかない」
「殿下……」
あまりにもストレートで、そして過激な愛の告白に、私は思わず頬が熱くなるのを感じた。
セオドア様は、呆然とする侯爵親子に向かって、最後通告を突きつける。
「ヴァレリウス侯爵。領地の街道整備と技術革新のための計画書を、一週間以内に提出しろ。できなければ、君の領地への国庫からの補助金は全額打ち切る。……僕の妻を侮辱した代償だ。安いものだろう?」
「あ、ああ……」
「用が済んだなら、さっさと消えろ。僕たちの大切なティータイムの空気が汚れる」
侯爵とセシリア嬢は、顔面を蒼白にしながら逃げるようにサンルームから立ち去っていった。彼らが二度と私に逆らうことはないだろう。
「……やりすぎですわ、セオドア様。私がせっかく、穏便に彼らの領地経営の甘さを指摘して差し上げようと思ったのに」
「君は優しすぎるんだよ、リリアーナ。あの手の輩は、二度と立ち上がれないほど徹底的に踏み潰しておかなければ、また湧いてくる」
セオドア様はそう言うと、私の隣の席へと移動し、私の腰を引き寄せて肩に顎を乗せた。
「それに……君が僕以外のことに気を取られているのが、気に入らなかった」
「ふふ、子供のようなことを仰るのですね。……でも、ありがとうございます。セオドア様が私を誰よりも大切に思ってくださっていること、痛いほど伝わりましたわ」
私は彼の漆黒の髪にそっと触れ、優しく梳いた。
完璧な淑女としての仮面を被り、感情を殺して生きてきた十年間。
あの日、愚かな王子から婚約破棄を突きつけられた瞬間、私の人生は終わるのではなく、本当の意味で始まったのだ。
私を心から愛し、その類稀なる才能と力で私を守り抜いてくれる、この絶対的な捕食者の腕の中で。
────
それから一ヶ月後。
王都の空を抜けるような青空が覆い尽くした吉日。
王宮に隣接する壮麗な大聖堂の鐘が、高らかに鳴り響いていた。
「綺麗だ、リリアーナ。まるで、天から舞い降りた女神のようだ」
控室で、純白のウェディングドレスに身を包んだ私を見たセオドア様は、感嘆のため息を漏らし、私の手を取って恭しく口付けをした。
最高級のシルクと、王家に伝わる本真珠がふんだんにあしらわれたドレス。そして、私の首元には、あの日彼から贈られた至宝『星の涙』のブルーダイヤモンドが輝いている。
「セオドア様も、白の礼服がとてもよくお似合いですわ。いつも黒ばかりお召しになっているので、新鮮です」
「君の色に染まるのも悪くないと思ってね。……さあ、行こうか。僕たちの新しい国を、そして永遠の愛を、世界に示す時間だ」
壮大なパイプオルガンの調べが鳴り響く中、大聖堂の重厚な扉が開かれる。
ステンドグラスから差し込む色とりどりの光の束の中を、私たちは腕を組んでゆっくりと歩き出した。
参列席には、私の父である公爵をはじめ、国の重鎮たち、そして他国の王族や外交官たちがずらりと並んでいる。
かつて、エリオットの夜会で私を冷笑していた者たちの姿はない。今ここにいるのは、真の権力者であるセオドア様と、彼が選び抜いた大公妃である私に、心からの畏敬と祝福の眼差しを向ける者たちだけだ。
祭壇の前に進み出た私たちは、大司教の厳かな言葉に耳を傾け、神と人々の前で永遠の愛を誓い合った。
「病める時も、健やかなる時も、互いを敬い、愛し抜くことを誓いますか?」
「誓います」
セオドア様の力強い声と、私の澄んだ声が大聖堂に響き渡る。
彼は私のベールを静かにたくし上げ、その美しい顔を近づけた。銀色の瞳が、あふれんばかりの熱情と愛情を込めて私を見つめている。
「愛しているよ、私のただ一人の大公妃。もう二度と、君を誰にも渡しはしない」
「私もです、セオドア様。私のすべては、貴方と共にありますわ」
重なり合う唇。
その瞬間、大聖堂は割れんばかりの歓声と拍手に包まれた。天井から降り注ぐ何万枚もの白い花びらが、私たちの門出を祝福するように舞い踊る。
完璧な公爵令嬢として生きることを強いられ、愚鈍な王子の身勝手な婚約破棄によって一度はどん底に突き落とされたかに見えた私の人生。
しかしそれは、私が真の幸福を掴むための、ほんの些細なプロローグに過ぎなかったのだ。
私は、愛する夫の腕の中で、これまでで最も美しく、そして心からの笑顔を咲かせた。
遠く、はるか北の極寒の地で、惨めな元王子が身を震わせながら雪かきをしていることなど、知る由もない。私を陥れようとした男爵令嬢が、黒い煤にまみれて絶望の涙を流していることなど、思い出す価値もない。
ここにあるのは、ただ圧倒的な勝利と、氷の宰相による極上の溺愛だけだった




