泥船の沈没と極上の甘やかし
王宮の奥深く、限られた者しか足を踏み入れることのできない大公専用の執務室。
壁一面を覆う豪奢な装丁の蔵書と、磨き上げられた黒檀の執務机。重厚なビロードのカーテン越しに差し込む朝の光が、空気中に舞う細かな埃を金色の粒子のように輝かせている。
静寂の中、羽根ペンが上質な羊皮紙の上を走る「カリカリ」という心地よい音だけが響いていた。
「……これで、北方領の治水工事に関する予算案の承認と、隣国からの関税引き下げ要求に対する回答書の草案は完了いたしましたわ」
私がふうっと一息ついてペンを置くと、向かいの席で書類に目を通していたセオドア様が、ふっと目を細めてこちらを見た。
「驚異的な仕事ぶりだ。我が大公府の優秀な文官たちが束になっても、君一人には敵わないかもしれないな。僕の有能で美しい大公妃殿下」
「からかわないでくださいませ。私はただ、今まで……ええ、あの方の尻拭いのためにやっていた裏仕事を、表立ってやらせていただいているだけですわ」
私が苦笑しながら答えると、セオドア様は立ち上がり、ゆっくりとした足取りで私の背後へと回った。
そして、私の肩にそっと両手を置き、耳元へと顔を寄せる。彼特有の、凛とした白檀の香りが私を包み込んだ。
「からかってなどいないさ。君が今までどれほどの重圧の中で、あのような愚か者のために才能を浪費させられてきたか。それを思うと、今でも彼を北方の修道院ではなく、ギロチン送りにするべきだったと後悔するよ」
「セオドア様ったら、物騒ですわね」
くすりと笑いながら彼の手に自分の手を重ねると、セオドア様はその手をすくって手の甲に甘い口付けを落とした。
婚約破棄騒動から一週間。
私の日常は、劇的な変化を遂げていた。
王家からの正式な謝罪と共に、私とセオドア様の婚約は国内外に大々的に発表された。
元第一王子エリオットの愚行と横領、そして彼をそそのかしたマーティン男爵令嬢の悪逆非道ぶりは、あっという間に社交界の知るところとなり、私への同情と、新たな婚約への祝福の声が王都中を駆け巡ったのだ。
私は今、大公府の特室を与えられ、セオドア様の「補佐官」兼「婚約者」として、水を得た魚のように政務をこなしている。
誰の顔色を窺う必要もなく、私の提案が正当に評価され、国の発展に直結していく。何より、隣には私が心から敬愛し、愛してやまない男性がいる。これ以上の幸福があるだろうか。
「さて、甘い時間は一時お預けだ」
セオドア様が名残惜しそうに身を離し、銀色の瞳に冷徹な光を宿した。
「これから、特別法廷が開かれる。例の『男爵令嬢』と、その一族への判決を下すためのね」
「……クロエ・マーティン、ですね」
「ああ。君も同席してくれるかい?彼女が自分の撒いた種の刈り取りをさせられる様を、君自身の目で見届ける権利がある」
「ええ、もちろん。喜んでお供いたしますわ」
私は優雅に立ち上がり、サファイアブルーのドレスの皺を伸ばした。
愚鈍な王子の自滅はすでに見届けた。次は、彼に取り入り、私を陥れようとした哀れな小鳥の末路を見届ける番である。
────
王宮の地下に設けられた、厳粛なる特別法廷。
冷たい石造りの壁に囲まれたその空間は、罪人を裁くための重苦しい空気に満ちていた。高い天井からは魔法石の光が冷ややかに降り注ぎ、中央の被告人席を無慈悲に照らし出している。
最前列の傍聴席にセオドア様と共に腰を下ろした私の視線の先には、両手両足を重い魔封じの鎖で縛られたクロエ・マーティンが立たされていた。
「ひっ、ぐすっ……どうして、どうして私がこんな目に……」
彼女の姿は、一週間前の夜会での華やかな様子からは想像もつかないほど惨めなものだった。
ふんわりと結い上げられていたピンク色の髪は脂で汚れ、ボサボサに乱れている。着せられているのは粗末な麻の囚人服で、その顔からはすっかり血の気が失せていた。
しかし、彼女の腐りきった根性は、まだ完全には折れていなかったようだ。
裁判長であるギースバッハ侯爵が、マーティン男爵家の多額の負債と、それによる国家予算の横領教唆の罪状を読み上げ始めると、彼女は突然顔を上げ、金切り声を上げた。
「違います!私は何も知りません!お父様が勝手に借金を作っただけです!それに、エリオット様が……あの馬鹿な王子が、勝手に私に貢いできただけなんです!」
「静粛に。被告人、発言の許可は出していない」
ギースバッハ侯爵の冷たい声が響くが、パニックに陥ったクロエの耳には届かないらしい。
彼女は周囲をギョロギョロと見渡し、やがて特等席に座るセオドア様の姿を捉えると、その翡翠色の目を大きく見開いた。
「そ、そうだわ!大公殿下!セオドア様!助けてください!」
「……ほう?」
セオドア様は、虫ケラを見るような酷薄な視線で彼女を見下ろした。
「私、ずっと前からセオドア様のこと、素敵だなって思ってたんです!あんな馬鹿な王子なんかより、ずっとかっこよくて、勇ましい大公殿下の方が、私にふさわしいって……!私、殿下のためなら何でもします!だから、こんな不当な法廷から出してください!」
法廷内に、冷たい沈黙が落ちた。
傍聴席にいる貴族たちは、あまりの厚顔無恥さと状況の読めなさに、呆れを通り越して言葉を失っている。
私を陥れ、エリオットをそそのかして国庫を食い物にした女が、今度はそのエリオットの叔父であり、私と婚約したばかりのセオドア様に色目を使っているのだ。彼女の脳内はお花畑どころか、深刻な腐敗を起こしているとしか思えなかった。
「……おい、魔法院の者」
セオドア様が、地を這うような低い声で法廷の隅に控える魔術師を呼んだ。
「はい、大公殿下」
「この空間の空気を即座に浄化しろ。あのような穢れた汚物が吐き出した空気が、愛するリリアーナの肌に触れるかと思うと、反吐が出る」
「は、はいっ!ただちに!」
慌てて魔術師が浄化の魔法を展開し、爽やかな風が法廷を吹き抜ける。
その徹底した侮蔑の態度に、クロエの顔が信じられないというように歪んだ。
「な……ひどい!どうして!?私、こんなに美しいのに!リリアーナみたいな、愛想の悪いお堅い女より、私の方がずっと殿下を癒やしてあげられるのに!」
「黙れ」
セオドア様の一喝が、空気を震わせた。
その声に込められた圧倒的な魔力と殺気に、クロエは「ひっ」と短い悲鳴を上げて床にへたり込む。
「貴様のその安っぽい愛嬌など、ゴミだ。君はまだ理解していないようだな。君たちマーティン家が、どうしてエリオットに近づけたのかを」
「え……?」
「借金で首が回らなくなったマーティン男爵の前に、偶然、エリオットの夜遊びの情報を流した者がいた。君が王立学園でエリオットと『運命的な出会い』を果たせるように、裏で人の配置や時間を調整した者がいた。君のその拙い魅了の香水が効果を発揮するように、エリオットの魔力耐性を下げるよう食事に細工をした者がいた……。それが誰なのか、本当にわからないのか?」
セオドア様の言葉に、クロエの顔色が青から白へ、そして完全な土気色へと変わっていく。
「う、嘘……じゃあ、まさか……全部……」
「そうだ。君たち一族は、エリオットという巨大なゴミを王家から排除するための、使い捨ての『餌』として選ばれ、踊らされていたに過ぎない。最も、クズとは聞いていたが、ここまで自発的とは想定外だったがな」
セオドア様は酷薄な笑みを浮かべ、決定的な一言を放った。
「君は、自分が王子を操っている気になっていただろうが……最初から最後まで、私の掌の上で滑稽なダンスを踊っていただけの、哀れな道化だよ」
「あ……あああ……」
クロエの目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちる。
しかしそれは、先ほどまでの偽りの涙ではない。自分の浅はかさ、絶対的な権力者への恐怖、そして取り返しのつかない現実に対する、本物の絶望の涙だった。
「これにて結審とする!」
ギースバッハ侯爵が、法廷用の木槌を高く振り下ろした。
「マーティン男爵家は、国家反逆罪および横領罪により、即日爵位を剥奪!一族の財産はすべて国庫に没収し、借金の補填に充てるものとする。さらに、元男爵とその妻、および娘のクロエは、生涯にわたり北の果てにある『魔石鉱山』での強制労働の刑に処す!」
「嫌あああああっ!魔石鉱山なんて嫌!お肌が荒れちゃう!髪がパサパサになっちゃうぅぅぅ!誰か助けて!エリオット様ぁぁぁっ!」
魔石鉱山。それは、猛毒の瘴気が漂う極寒の地で、朝から晩までツルハシを振るう過酷な刑罰である。一度送られれば、二度と生きて帰ることはできないと言われている地獄だ。
床に擦り付けられ、騎士たちに両脇を抱えられて引きずられていくクロエの悲痛な絶叫が、石造りの法廷に虚しく木霊する。
私はその姿を、ただ冷ややかな目で見送った。
『リリアーナみたいな、愛想の悪いお堅い女』。彼女はそう言った。
確かに私は、彼女のように愛想よく男に媚びることはできない。だが、私は十年間、血の滲むような努力でこの身に知性と教養、そして品格を刻み込んできたのだ。
他人の力に寄生することしか考えてこなかった女が、自らの足で立ち、国を背負う覚悟を持った人間に勝てるはずがないのである。
重い扉が閉まり、彼女の叫び声が完全に途絶えた後。
法廷内は、セオドア様の圧倒的な威圧感と、鮮やかな手腕に対する畏怖で静まり返っていた。
「……さあ、行こうか。私の美しい大公妃よ」
セオドア様は立ち上がると、まるで何事もなかったかのように優雅な微笑みを浮かべ、私に向けて手を差し出した。
「これですべての害虫の駆除は終わった。あとは、私たちの輝かしい未来を祝うだけだ」
「ええ。セオドア様」
私はその手を取り、優雅に立ち上がった。
彼と共に歩む法廷からの退出の道は、不思議と、十年間歩んできたどの道よりも明るく、輝いて見えた。
────
その日の夜。
大公府に併設された広大なガラス張りの大温室で、私たちの婚約を祝う、身内だけのささやかな夜会が開かれていた。
天井まで届くガラスの向こうには満点の星空が広がり、温室内に咲き誇る数千本の夜咲きの薔薇が、むせ返るような甘い香りを放っている。
魔石のランプが優しく周囲を照らす中、私はセオドア様と二人きり、バルコニーのソファに腰を下ろしていた。
「リリアーナ。君に、渡したいものがあるんだ」
セオドア様はそう言うと、懐から小さなビロードの箱を取り出した。
パカリと開かれた箱の中に収められていたのは、私が今まで見たこともないほど澄み切った、深く美しいブルーダイヤモンドのネックレスだった。
「これは……」
「『星の涙』と呼ばれる、我がクラリネス大公家に代々伝わる至宝だ。僕の母上が亡くなる前、将来僕が心から愛し、生涯を共にすると誓った女性に渡すようにと言い残されたものだよ」
「そんな大切なものを……よろしいのですか?」
「君以外に、誰がこれを受け取るというんだい?」
セオドア様は優しく微笑むと、ネックレスを取り出し、私の背後に回った。
冷たい金属の感触と、彼の温かい指先がうなじに触れ、思わず肩が小さく跳ねる。
「美しい……。やはり、君のサファイアのような瞳と、透き通るような肌によく似合う」
鎖骨の間に収まったブルーダイヤモンドは、星の光を吸い込んで神秘的な輝きを放っていた。
「セオドア様、ありがとうございます。一生の宝物にしますわ」
「宝物は君の方だ、リリアーナ」
セオドア様は再び私の隣に座ると、私の体をそっと引き寄せ、その腕の中に閉じ込めた。
「十年間、本当に……よく耐えてくれた。君が彼のために涙を流す必要がないとわかっていても、君が理不尽な扱いを受けるたびに、僕は狂いそうだった」
「セオドア様……」
「これからは、僕が君を誰よりも甘やかす。君の望むものはすべて与えよう。君が笑って過ごせるなら、僕はどんな手を使ってでもこの国を豊かにし、君の足元に平伏させてみせる」
彼の言葉は、まるで狂熱を帯びた誓いのようだった。
氷の宰相と呼ばれ、冷酷無比と恐れられる彼が、私にだけ見せるこの燃え盛るような執着と愛情。
それが少し恐ろしくもあり……同時に、私の胸の奥底を甘く、激しく痺れさせる。
「私は、富も権力も望みませんわ。ただ……」
私は顔を上げ、彼の頬にそっと手を添えた。
「ただ、これからもずっと、貴方の隣で、貴方と共にこの国を支えていきたい。そして、貴方のその温かい腕の中で眠りにつきたい。……それだけで、私は十分すぎるほど幸せです」
「リリアーナ……」
セオドア様の銀色の瞳が、感極まったように揺れた。
彼は私の言葉をすべて吸い込むように、深く、熱烈な口付けを落とす。
薔薇の香りと、彼の白檀の香りが混ざり合い、私の思考を甘く溶かしていく。
十年間、完璧な淑女として感情を殺し続けてきた公爵令嬢は、今、真実の愛を見つけ、誰よりも幸福な大公妃として新たな花を咲かせようとしていた。
もう、偽りの愛に泣くことはない。
私の隣には、私を世界で一番愛し、守り抜いてくれる、最強で最高の伴侶がいるのだから。
満点の星空の下、私たちは何度でも、互いの愛を確かめ合うように口付けを交わし続けたのだった。




