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【連載完結】あなたには、もう逃げ場はありません  作者: 逆立ちハムスター


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2/6

愚かな王子が真実を知る時

「……んっ……」


重なり合った唇から、微かな吐息が漏れる。

夜風の冷たさを完全に忘れさせるほどの、熱く、そしてひどく優しい口付けだった。セオドア様の腕の中にすっぽりと包み込まれ、彼の纏う白檀と夜の冷気が混ざったような凛とした香りが、私の鼻腔をくすぐる。


十年間、「氷の薔薇」として感情を殺し、ただ国のために完璧な淑女であろうと努めてきた。誰かに甘えることなど許されず、常に背筋を伸ばし、己を律し続けてきた。

しかし今、私の心と体は、長年の呪縛から解き放たれた安堵と、目の前の男性から注がれる圧倒的な熱量によって、まるで春の陽射しを浴びた雪のように溶け出していた。


「……セオドア様」

「驚かせてすまない。だが、もう我慢の限界だった。あの愚か者が君を面罵している間、僕がどれほど彼をその場で斬り捨てたい衝動に駆られていたか、君にはわからないだろう」


ゆっくりと唇を離したセオドア様は、私の額に自身の額をコツンと当て、苦笑交じりにそう囁いた。その銀色の瞳には、私への底知れぬ執着と、隠しきれない愛情が揺らめいている。

王宮の影の支配者であり、冷徹無比と恐れられる「氷の宰相」が、私にだけ見せるこの熱に浮かされたような表情。それが私の自尊心をどれほど満たし、心を震わせるか、彼自身は気づいているのだろうか。


「私は大丈夫ですわ。むしろ、あの茶番劇のおかげで、私の心は完全に彼から離れましたもの。……それにしても、随分と騒がしいですね」


私が視線を広間の続く扉の方へと向けると、セオドア様もまた、冷酷な笑みを口元に浮かべて顔を上げた。

分厚いマホガニーの扉越しでもわかるほど、広間の中は異様な熱気と騒騒しさに包まれていた。先ほどまでの優雅な夜会の空気は完全に消え失せ、怒声と悲鳴、そして甲冑が擦れ合う無骨な金属音が入り混じっている。


「ちょうどいい。君に見せておこうか。僕たちが丹念に育て上げた『破滅の種』が、見事に花開く瞬間を」


セオドア様はそう言うと、指先で小さく空中に魔法陣を描いた。

空間の魔術。彼の特異な魔力によって、バルコニーの壁面に、広間の中の様子を映し出す水鏡のような映像が浮かび上がる。


そこに映し出されていたのは、私が退場した直後から一変した、阿鼻叫喚の光景だった。


『な、なんだお前たちは!俺を誰だと思っている!第一王子であるぞ!』


広間の中央で、エリオット殿下が顔を真っ赤にして怒鳴り散らしている。

彼を円陣を組むように取り囲んでいるのは、王宮の治安維持と不正を糾弾する権限を持つ「王立監査局」の黒い鎧を着た局員たちと、完全武装した近衛騎士団の精鋭たちだった。


その先頭に立つのは、厳格で知られる監査局長、ギースバッハ侯爵である。白髪混じりの頭を真っ直ぐに上げ、氷のような冷ややかな視線を殿下に浴びせていた。


『エリオット・フォン・クラリネス殿下。国王陛下の勅命により、貴方を国家反逆未遂、並びに国庫金横領の容疑で拘束いたします』

『なっ……!?反逆だと!?横領!?馬鹿なことを言うな!俺は次期国王だぞ!俺が国の金を使って何が悪い!』

『その発言自体が、王権を侵奪する不敬にあたります。さらに……』


ギースバッハ侯爵は、懐から分厚い書類の束を取り出し、無慈悲に読み上げ始めた。


『過去二年間において、殿下が視察や公共事業の名目で引き出した国庫金のうち、実に八割が使途不明となっておりました。我々の内偵の結果、その資金はすべて、私的な遊興費、高級娼婦館への出入り、そして……そこにいるクロエ・マーティン男爵令嬢への華美な装飾品やドレスの購入、別荘の贈与に充てられていたことが判明しております』


広間が息を呑む音で満たされた。

周囲を取り囲む貴族たちの顔に、決定的な侮蔑の色が浮かぶ。

婚約者への不実だけでも醜聞であるが、国家の税を愛人のために使い込んでいたとなれば、それはもはや王族としての資質以前の、犯罪者の所業である。


『で、でたらめだ!誰がそんな偽造書類を作った!リリアーナか!?あの女の差し金だな!』


窮地に陥った殿下が放ったのは、あまりにも見苦しい責任転嫁だった。

私は水鏡を見つめながら、冷たく鼻で笑った。

私が彼の横領を知らなかったはずがない。むしろ、私が婚約者として彼の政務を代行していた頃は、私が公爵家の私財を投げ打ってでも彼の帳簿の穴を埋め、露見しないように細心の注意を払っていたのだ。

しかし、半年前。セオドア様と手を組んだあの日から、私は一切の補填をやめた。彼が「クロエに真実の愛を見つけた」と浮かれ、湯水のように金を使うのを、ただ黙って泳がせておいたのだ。


『おいレオン!ルイス!マクシミリアン!こいつらを叩き出せ!俺の命令が聞けないのか!』


エリオット殿下は、自身を囲む「親友」たちに助けを求めた。

しかし、近衛騎士団の制服を着たレオンは、冷ややかな瞳で一歩後ろに下がった。


『……申し訳ありません、殿下。私は王国近衛騎士であり、忠誠を誓うのは国王陛下のみ。国庫を食い物にする罪人に与するわけにはいきません』

『な……!?レオン、お前、俺に借金を……』

『ええ。私の借金は、すでに”別の方”が清算してくださいました。私はもう、貴方に媚びへつらう必要はないのですよ』


ルイスとマクシミリアンもまた、嘲笑を浮かべて殿下から距離を置いた。


『殿下の無教養な思いつきに付き合うのは、本当に骨が折れましたよ。クロエ嬢のドレスをリリアーナ様が破いたという偽証も、これ以上は付き合いきれません』

『ええ。私たちはただ、貴方がどこまで落ちぶれるのか、上からの命令で見張っていただけですから』


『お前ら……裏切ったのか!?俺を、この俺を!』


信じていた取り巻きたちの裏切りに、殿下の顔が絶望と怒りで歪む。

だが、彼にとっての最大の打撃は、その直後に訪れた。


『エリオット様!』


彼の腕にしがみついていたクロエが、突然彼を突き飛ばしたのだ。

殿下はバランスを崩し、無様な音を立てて大理石の床に尻餅をついた。


『ク、クロエ……?』

『わ、私、何も知りません!エリオット様が無理やり私に貢いできたんです!ドレスも宝石も、受け取らないと罰を与えるって脅されて……!私、嫌だったのに!』


大粒の涙をこぼし、悲劇のヒロインを演じながら叫ぶクロエ。

しかし、彼女の翡翠色の瞳の奥にあるのは、純粋な保身の計算だけだった。彼女は最初から、エリオット殿下を「金づる」としか見ていなかったのだ。沈みゆく泥船から真っ先に逃げ出そうとするのは、彼女のような女の常套手段である。


『クロエ……お前まで……!俺たちの真実の愛は……!』

『嘘をつくな!』


ギースバッハ侯爵の怒声が、クロエの芝居を切り裂いた。


『マーティン男爵家が莫大な借金を抱えており、その返済のために娘であるお前が殿下に近づき、言葉巧みに横領を唆した証拠もすでにあがっている!お前も同罪だ、連行しろ!』

『いやっ!離して!私に触らないで!私は王太子妃になるのよぉ!』


騎士たちに両腕を掴まれ、髪を振り乱して泣き叫ぶクロエ。

そして、床にへたり込んだまま、呆然と宙を見つめるエリオット殿下。


もはや、広間に彼らに同情する者は一人もいなかった。

あるのは、愚かな王子の末路に対する冷酷な嘲笑と、彼を速やかに排除しようとする冷たい視線だけ。


『……連行しろ』


侯爵の短い命令と共に、二人は騎士たちに引きずられるようにして広間から連れ出されていった。彼らの惨めな叫び声が、遠く、廊下の奥へと消えていく。


「……見事な幕引きね。セオドア様」


水鏡の映像がふっと消え、私は静かにため息をついた。

十年間、私の人生を縛り続けてきた鎖が、これほどまでにあっけなく、そして滑稽に砕け散るとは。


「いや、まだ完全な幕引きではないさ」


セオドア様は私の髪を優しく撫でながら、冷酷な笑みを深めた。


「彼らには、自分がどれほど愚かな選択をしたのか、骨の髄まで理解させなければならない。それが、君の貴重な十年間を奪った代償だ。……さあ、リリアーナ。今日はもう帰ろう。明日は、忙しくなる」


私はこくりと頷き、彼のエスコートを受けて夜の王宮を後にした。

その夜、私は十年ぶりに、何の重圧も感じることなく、深い安らぎの中で眠りにつくことができたのだった。


────


翌朝。

ヴァンデルヴァルト公爵家の本邸は、朝から異様な活気に満ちていた。

私がゆっくりと目を覚まし、身支度を整えて食堂へと向かうと、そこにはすでに父であるヴァンデルヴァルト公爵が、分厚い書類に目を通しながら優雅に紅茶を飲んでいた。


「おはようございます、お父様」

「ああ、おはようリリアーナ。……よく眠れたようだな。顔色が、昨朝とは別人のように良い」


銀髪に鋭い青い瞳を持つ父は、私を見るとふっと目元を和ませた。

王国随一の権力者であり、厳格な性格で知られる父だが、私に対しては常に深い愛情を注いでくれていた。私がエリオット殿下の婚約者として苦労していることも、誰よりも心を痛めていたはずだ。


「ええ、おかげさまで。……あの、お父様。昨夜の件は……」

「すでに報告は受けている。というより、セオドア大公殿下から、事前に詳細な計画を聞かされていたからな」

「えっ?」


私が驚いて目を見開くと、父はティーカップを置き、静かに笑った。


「お前がセオドア殿下と内通し、愚かな王子を切り捨てる算段をつけていたことなど、親である私が気づかぬはずがなかろう。むしろ、お前がいつあの泥船を見限るのかと、ハラハラしていたくらいだ。公爵家は、お前を無能な王子の巻き添えにするつもりは毛頭なかった」


父の言葉に、私は胸の奥が熱くなるのを感じた。

私は一人で戦っていたのではなかったのだ。セオドア様だけでなく、父もまた、私を守るために裏で準備を進めてくれていたのだ。


「国王陛下から、正式な使いが来ている。エリオット王子の廃嫡と、王位継承権の剥奪。そして、王家の有責によるお前との婚約破棄が、正式に裁可された。慰謝料として、王室の直轄領の一部が我が公爵家に割譲されることも決定した」


父は手元の羊皮紙を私に押しやった。そこには、国王陛下の直筆のサインと王印がくっきりと押されている。


「そして……もう一つの勅命だ」


父の目が鋭く、しかし温かく私を射抜く。


「国王陛下とセオドア大公殿下から、正式な婚約の打診があった。相手は当然、セオドア殿下だ。……お前の意思を聞かせてほしい」


私は膝の上でぎゅっと両手を握りしめた。

昨夜の、バルコニーでの甘い口付けと、私に向けられた熱い視線が脳裏に蘇る。

打算や政治的な理由ではない。私は、一人の女性として、セオドア様を愛しているのだと、はっきりと自覚していた。


「……お受けいたします。私は、セオドア様と共に、この国を支えていきたいと存じます」


私の迷いのない返答に、父は満足げに深く頷いた。


「よし。これで、我がヴァンデルヴァルト家は、真に王家を支える磐石の態勢に入ることができる。……リリアーナ、午後から王宮へ向かいなさい。セオドア殿下がお待ちかねだ」


────


その日の午後。

王宮の地下深く、冷たく湿った空気が漂う「反省の塔」の最下層。そこは、重罪を犯した王族や貴族が一時的に収監される特別な牢獄だった。


私がセオドア様にエスコートされ、重厚な鉄格子越しに中を覗き込むと、そこには見る影もなく憔悴しきったエリオットの姿があった。

昨夜の豪華な軍服は見るも無残に汚れ、金糸のように輝いていた髪は脂でべったりと額に張り付いている。彼は暗い牢の隅で膝を抱え、ぶつぶつと何かを呟いていた。


「……エリオット」


セオドア様が冷たく低い声で呼ぶと、エリオットはビクッと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。

濁った青い瞳が、私とセオドア様の姿を捉えた瞬間、彼は弾かれたように鉄格子へと這い寄ってきた。


「り、リリアーナ!ああ、来てくれたのか!俺を助けに来てくれたんだろう!?ごめん、俺が悪かった!あのクロエという女に騙されていたんだ!お前が俺の唯一の婚約者だ、お前がいれば俺は王になれる!頼む、父上に……いや、叔父上に言って、俺を出してくれ!」


鉄格子を掴み、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら命乞いをする元王子。

かつて、私を「可愛げがない」「毒婦」と見下していた面影は微塵もない。そこにいるのは、己の力では何もできない、惨めで哀れな一人の男だった。


私は、彼の言葉に一切の感情を動かされることなく、氷のように冷たい視線を見下ろした。


「勘違いなさらないでください、エリオット。私がここへ来たのは、貴方を助けるためではありません。貴方の廃嫡の同意書と、私との婚約破棄の正式な受理書に、貴方自身の血判を押させるためです」

「な……っ」


「貴方は言いましたね。『王家から婚約破棄された傷物の公爵令嬢など、どこの家も拾ってくれないだろう』と。ええ、その通りですわ。ですから私は、大公家に嫁ぐことになりましたの」


私がそう言って、隣に立つセオドア様に視線を送ると、彼は私の腰に手を回し、これ見よがしに私を抱き寄せた。


「そういうことだ、愚かな甥よ。お前がその手から投げ捨てた至宝は、僕がありがたく頂戴した。国王陛下も、すでに僕とリリアーナの婚約を喜んで裁可されたよ」

「お、叔父、上……?リリアーナと……?ば、馬鹿な……じゃあ、お前たちが俺を嵌めたのか!?俺の王座を奪うために!」

「嵌めた? 笑わせるな」


セオドア様の声が、絶対零度の冷気を帯びて牢獄に響き渡る。


「お前が自ら国庫の金を盗み、自ら無能な女に溺れ、自ら優秀な婚約者を遠ざけたのだ。僕はただ、お前が転がり落ちる道に、少しばかり油を塗っておいてやったに過ぎない。お前を破滅させたのは、他の誰でもない、お前自身の圧倒的な『愚かさ』だ」


エリオットは、絶望に目を見開き、口をパクパクと金魚のように動かした。

彼はようやく、すべてを理解したのだ。

自分が誰に踊らされ、何を失ったのかを。

彼を支えていたのは自分の実力ではなく、私が裏で流した血の滲むような努力だったことを。そして、その私を失った今、彼には文字通り「何も残されていない」という事実を。


「ああ……ああああっ!嫌だ!俺は王になるんだ!俺は第一王子だぞぉぉぉっ!!」


頭を抱え、獣のように狂乱して叫び声を上げるエリオット。

私たちはその無様な姿を一瞥すると、もはや何の興味もないというように踵を返した。彼が今後、北方の極寒の修道院に幽閉され、一生を終えることになることは、すでに決定事項であった。


暗く冷たい地下牢を抜け、王宮の庭園に出ると、眩しいほどの午後の陽光が私たちを包み込んだ。


「気分はどうだい、僕の美しい大公妃よ」


セオドア様が、太陽の下で眩しそうに目を細めながら私に微笑みかける。その顔は、先ほどまでの冷徹な権力者のものではなく、私を愛してやまない一人の青年のものだった。


「最高ですわ、セオドア様。……私の十年間は、今日この日のためにあったのだと、心から思えます」


私は、彼から差し出された手を取り、自らその広い胸へと飛び込んだ。

過去の重荷はすべて地下牢に置いてきた。これからは、私の才能も、時間も、そして愛も、すべてはこの腕の中にいる愛しい人のためだけに使おう。


私の退屈で苦しい仮面劇は終わった。

ここから始まるのは、愛する人と共に国を導く、最高に幸福で輝かしい未来なのだから。

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