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【連載完結】あなたには、もう逃げ場はありません  作者: 逆立ちハムスター


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待ちに待った喜劇の幕開け

王宮の中央に位置する、最も豪奢な『白百合の間』。天井から吊るされた巨大なクリスタルのシャンデリアが放つ無数の光の矢が、磨き上げられた大理石の床に反射し、眩いばかりの空間を作り出している。


弦楽四重奏が奏でる優雅なワルツの調べに乗り、色とりどりのドレスを纏った貴婦人たちと、正装に身を包んだ紳士たちが歓談の輪を作っていた。香水の甘い香りと、上質なワインの匂いが混ざり合い、この国の富と権力の象徴とも言える夜会の空気を醸し出している。


私、リリアーナ・フォン・ヴァンデルヴァルトは、壁際の目立たない場所で、シャンパングラスを手に静かにその光景を見つめていた。

ヴァンデルヴァルト公爵家は、建国から王家を支え続けてきた名門中の名門である。その長女として生まれた私は、物心ついた時から「次期王太子妃」となるべく育てられてきた。


七歳の時、一つ年上の第一王子、エリオット・フォン・クラリネス殿下との婚約が正式に整ってからというもの、私の人生は「完璧な王太子妃」になるためだけのものだった。

礼儀作法、歴史、政治、経済、語学、芸術、魔力制御。寝る間を惜しんで知識を詰め込み、いかなる時も感情を顔に出さず、優雅に微笑む術を身につけた。血のにじむような努力の末、私は社交界において「完璧な淑女」「氷の薔薇」と称されるようになった。


すべては王家のため、国のため、そして……私の婚約者であるエリオット殿下を支えるためだった。


しかし私の献身に対する殿下の評価は、惨憺たるものだった。

『お前は可愛げがない』『正論ばかりで息が詰まる』『もう少し隙を見せたらどうだ』

それが、私が寝食を忘れて政務の代行を行い、彼の尻拭いをした後に投げかけられる言葉だった。


エリオット殿下は、見た目こそ金髪碧眼の典型的な王子様だが、その中身は驚くほどに空虚だった。努力を嫌い、遊びを好み、耳障りの良い言葉だけを吐く取り巻きに囲まれることを好んだ。私が彼の将来を案じて諫言すればするほど、彼は私を疎んじ、遠ざけた。


そして半年ほど前、彼は一人の女性を見つけた。

クロエ・マーティン男爵令嬢。

ふわふわとしたピンク色の髪に、大きな潤んだ翡翠色の瞳。小柄で庇護欲をそそる容姿に、ころころとよく変わる表情。私の正反対を行くような、少し計算高くて、けれど男の自尊心を満たすのがひどく上手な子だった。


殿下は彼女を「真実の愛」と呼び、公的な場にさえ私ではなく彼女を伴うようになった。

今日もそうだ。本来であれば、婚約者である私が殿下のエスコートを受け、この夜会に入場するはずだった。しかし、私は殿下の馬車に乗ることを拒否され、一人で公爵家の馬車に揺られてこの場にやってきたのだ。


「……遅いわね」


私は誰にも聞こえないほどの小さなため息をつき、手元のグラスを見つめた。

悲しいという感情は、もうとうの昔に枯れ果てている。あるのは、長年手塩にかけて育てた花壇が、見知らぬ野良犬に踏み荒らされたような、徒労感と呆れだけだった。


その時、大広間の入り口の扉が重々しい音を立てて開かれ、会場を包んでいた音楽がピタリと止んだ。

案内役の声が高らかに響き渡る。


「第一王子、エリオット・フォン・クラリネス殿下!ならびに、クロエ・マーティン男爵令嬢!」


その名が呼ばれた瞬間、広間の空気が一変した。

どよめきがさざ波のように広がり、人々の視線が一斉に入り口へと注がれる。

そこには、王家の象徴である青い軍服をだらしなく着崩したエリオット殿下と、彼の腕にこれ見よがしに胸を押し当ててしなだれかかる、派手なローズピンクのドレスを着たクロエの姿があった。


「まあ、殿下ったら……」

「リリアーナ様を差し置いて、あのような……」

「マーティン男爵家の娘など、王族の夜会にふさわしい身分ではありませんのに」


扇で口元を隠しながら、貴婦人たちがヒソヒソと囁き合う。その声は、非難と好奇心に満ちていた。

しかし、エリオット殿下はそんな周囲の反応を全く理解していないようだった。彼は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、胸を張り、まるで自分がこの世の神であるかのように堂々と広間の中央へと歩を進めていく。

クロエもまた、自分に向けられる視線を「身分違いの純愛に対する羨望」とでも勘違いしているのか、うっとりとした表情で殿下を見上げていた。


痛々しい。あまりにも痛々しくて、直視するに堪えない。

私はグラスを給仕の盆に置き、姿勢を正した。いよいよ、私が待ち望んでいた……いや、私と『彼』が綿密に計画してきた喜劇の幕が開くのだ。


エリオット殿下は広間の中央で立ち止まると、ぐるりと周囲を見渡し、壁際にいた私を大声で呼びつけた。


「リリアーナ!そこへ直れ!」


演奏の止んだ静まり返った広間に、殿下の怒声が響き渡る。

私は微塵も焦る素振りを見せず、ゆっくりと優雅な足取りで彼らの前へと歩み出た。一歩進むごとに、私のサファイアブルーのドレスの裾が床を滑り、微かな衣擦れの音だけが響く。


「お呼びでしょうか、エリオット殿下」


完璧なカーテシー(淑女の挨拶)で頭を下げる。その動作一つにさえ、私の十数年の修練が詰まっていた。


「白々しい態度をとるな、この毒婦め!」


殿下は私の挨拶など無視し、指を突きつけて怒鳴り散らした。


「お前のその傲慢な態度、そして陰湿な本性にはもう我慢ならん!お前は、俺の愛するクロエに対して、数々の嫌がらせを行ってきただろう!」

「……嫌がらせ、でございますか?」

「とぼけるな!クロエの善行を泥水に沈め、階段から突き落とそうとし、さらには彼女のドレスを切り裂いた!クロエがどれほど怯え、涙を流したか、お前のような血も涙もない冷血にはわかるまい!」


殿下の腕の中で、クロエが「ひっ」と短い悲鳴を上げ、大げさに身をすくませて涙ぐむ。


「エリオット様……私、怖かったです……。リリアーナ様、なんであんな酷いことをするのかしら……」

「可哀想に、クロエ。もう案ずることはない。俺がお前を守ってやる」


まるで三文芝居を見ているようだった。

善行を泥水に沈める?階段から突き落とす?ドレスを切り裂く?

そもそも、王立学園において、公爵令嬢である私と男爵令嬢である彼女が接する機会など皆無に等しい。宿舎の棟も違えば、食堂の階層も違う。私がわざわざ自らの手を汚し、そのような幼稚な嫌がらせをする理由も、暇も、メリットも一つもないのだ。


しかし、私は反論しなかった。ただ静かに、殿下の滑稽な熱弁を聞き流していた。


「おい、お前たち!クロエがいかに苛められていたか、証言してやれ!」


エリオット殿下が背後を振り返ると、彼に付き従うように立っていた数名の青年たちが一歩前に出た。

近衛騎士団長の息子であるレオン、宰相の次男であるルイス、そして有力な伯爵家の嫡男であるマクシミリアン。彼らは皆、かつては優秀な若者であったはずなのだが、いつの間にかエリオット殿下の「取り巻き」として、夜の街を遊び歩くようになっていた。


「はい、殿下。我々はこの目でしっかりと見ました。リリアーナ様が、クロエ嬢を冷たい目で見下し、優越に駆られながら暴言を吐いているところを」

「ええ。クロエ嬢のドレスが破られていた時、近くにリリアーナ様の姿があったのも確認しております」

「公爵令嬢としてあるまじき、卑劣な行為です」


彼らは口々に私を非難した。

エリオット殿下は満足げに頷き、再び私に向き直る。


「聞いたか、リリアーナ!これだけの証人がいるのだ。お前がどんなに言い逃れようとも無駄だぞ!」


周囲の貴族たちは水を打ったように静まり返り、息を呑んで成り行きを見守っている……と、エリオット殿下は思っているだろう。


だが私は見逃さなかった。

証言をしたレオンたちの瞳の奥底に、微かな嘲笑と、酷く冷めた光が宿っていることを。

そして、周囲を取り囲む高位貴族たちの口元が、扇の陰で僅かに歪んでいることを。


誰も、エリオット殿下の言葉など信じてはいないのだ。

いや、信じないどころか、彼らはこの状況を「嗤って」いる。


無理もない。

なぜなら、レオンもルイスもマクシミリアンも、そしてこの会場にいる過半数の有力貴族たちも……すでに、殿下を見限り、私たちの「派閥」に寝返っているのだから。


事の発端は二年前。エリオット殿下の浪費と政務の放棄が目立ち始めた頃だった。

私は、婚約者として彼を正すことに限界を感じていた。私がどんなに諫めても、彼は逆上するばかりで、国政は滞り始めていたのだ。


そんな私に手を差し伸べてくれたのは、国王陛下の半血兄弟の嫡男であり、大公位を継ぐセオドア・フォン・クラリネス様だった。

エリオット殿下の従兄にあたる彼は、漆黒の髪に氷のように冷たい銀色の瞳を持つ、若き俊英である。王宮の実務を裏で取り仕切り、その冷徹なまでの判断力から「氷の宰相」と恐れられていた。


『エリオットの愚行に、君が付き合う必要はない』


ある夜、執務室で過労により倒れかけた私を抱きとめたセオドア様は、耳元でそう囁いた。


『あんな愚物のために、君の才能と人生をすり減らすのは国家の損失だ。……僕が、すべてを整えてやる。君はただ、美しい作り笑いを浮かべて、舞台の幕引きを待っていればいい』


その日から、セオドア様の恐るべき暗躍が始まった。

彼はまず、エリオット殿下の取り巻きたちに目をつけた。近衛騎士団長の息子であるレオンには、彼の借金を肩代わりする代わりに忠誠を誓わせた。宰相の次男であるルイスには、彼が密かに進めていた研究のパトロンとなり、確固たる地位を約束した。マクシミリアンには、彼の一族の不祥事の証拠を突きつけ、有無を言わさず駒とした。


彼らは表向きはエリオット殿下に心酔しているように振る舞いながら、裏ではセオドア様に殿下の動向を逐一報告し、時には殿下がさらに愚行を重ねるように誘導さえした。

今回のクロエ・マーティンという女に関してもそうだ。彼女が殿下に近づきやすいようにお膳立てをしたのも、彼女の幼稚な嘘を殿下が信じ込むように仕向けたのも、すべてはセオドア様の掌の上での出来事だったのだ。


目的はただ一つ。

第一王子エリオットを、誰もが納得する形で「廃嫡」に追い込むこと。

そして、私との婚約を、王家の有責として破棄させること。


「さあ、何か言ってみろリリアーナ!お前のその薄汚い本性を、この場で暴いてやる!」


エリオット殿下は、自分が完全に包囲されていることなど露知らず、得意絶頂といった顔で私を罵倒し続ける。


「お前のような嫉妬深く、心根の腐った女が次期王妃になるなど、この国の恥だ!よって俺は、真実の愛を見つけた今、この場をもって宣言する!」


広間の空気が、極限まで張り詰める。

私は胸の高鳴りを抑え、背筋を伸ばし、その言葉を待った。


「私、エリオット・フォン・クラリネスは、リリアーナ・フォン・ヴァンデルヴァルトとの婚約を破棄する!」


響き渡る宣言。

その瞬間、クロエは「ああ、エリオット様!」と歓喜の声を上げて彼に抱きつき、殿下は「愛しているよ、クロエ」と彼女をきつく抱きしめ返した。


私はゆっくりと息を吸い込んだ。

心臓の奥底から、どうしようもないほどの歓喜と、解放感が湧き上がってくる。

終わった。十年間、私を縛り付けていた呪いが、今、お馬鹿な彼自身の口から解き放たれたのだ。


私は顔を上げ、これまで見せたことのないほどの、心からの、美しい微笑みを浮かべた。


「……エリオット殿下。今のお言葉、間違いございませんね?」

「あ、ああ!何度でも言ってやる!お前との婚約は破棄だ!」


私の予想外の穏やかな態度に、殿下は一瞬たじろいだが、すぐに威圧するように声を張り上げた。


「殿下。婚約破棄という重大な決定、国王陛下のご裁可は得ておいででしょうか?」

「父上など関係ない!俺は次期国王だ!俺の決定がこの国の決定だ!」


その言葉が出た瞬間、広間の隅で控えていた書記官の羽ペンが一層激しく走る音が聞こえた。

「国王を蔑ろにし、自らを王と同列に置く発言」。これは立派な不敬罪であり、反逆罪にも問われかねない失言である。

周囲の貴族たちの目が、一斉に氷のように冷え切った。彼らの視線は、もはや愚かな王子を見るものではなく、処刑台に上る罪人を見るものへと変わっていた。


「……承知いたしました」


私はドレスの裾を優雅につまみ、深く、深く、最上級のカーテシーをした。


「第一王子エリオット殿下からの婚約破棄の申し渡し、私、リリアーナ・フォン・ヴァンデルヴァルトは、謹んでお受けいたします」

「……は?」


エリオット殿下は、間の抜けた声を漏らした。

彼はきっと、私が泣き叫び、床に這いつくばって許しを乞うと思っていたのだろう。クロエもまた、驚いたように目を丸くして私を見ている。


「な、なんだその態度は……!お前、自分がどういう状況に置かれたかわかっているのか!?王家から婚約破棄された傷物の公爵令嬢など、どこの家も拾ってくれないだろうがな!」

「ご心配には及びませんわ、殿下」


私は顔を上げ、彼の青い瞳を真っ直ぐに見据えた。そこにはもう、何の感情も湧かなかった。


「殿下こそ、これからの『試練』に耐えられますよう、心よりお祈り申し上げます。真実の愛とやらが、殿下をお救いになることを願っておりますわ」

「試練だと?負け惜しみを言うな!俺にはクロエがいる、お前がいなくなって清々するわ!」


吠え猛る殿下を一瞥することなく、私は踵を返した。

人々が、まるでモーセの十戒のように、私の行く手をスッと開けて道を譲る。彼らの視線には、私に対する深い敬意と、哀れな王子に対する冷酷な嘲笑が入り混じっていた。


広間の重厚な扉を抜け、冷たい夜気が満ちるバルコニーへと出た。

夜空には満月が輝き、王宮の美しい庭園を青白く照らし出している。


「ふう……」


小さく息を吐き出すと、張り詰めていた糸が切れ、肩の力が抜けた。

すべてが終わったのだ。

私の完璧な淑女としての演技も、殿下への虚しい忠誠も。


「見事な立ち回りだったよ、私の美しい氷の薔薇よ」


不意に、背後の暗がりから低く、甘い声が響いた。

振り返ると、バルコニーの柱に寄りかかるようにして、一人の男が立っていた。

月明かりに照らし出された漆黒の髪。高貴な顔立ち。そして、私だけを熱っぽく見つめる、銀色の双眸。


「セオドア様……」

「お疲れ様、リリアーナ」


セオドア様は音もなく私に歩み寄ると、私の右手を取り、手袋越しに恭しく口付けを落とした。


「あの馬鹿の茶番劇には反吐が出そうだったが、君が最後に放った微笑みだけは最高だった。あの瞬間、彼の廃嫡と、マーティン男爵家の取り潰しが完全に決定したよ」

「ええ……。すべては、セオドア様の緻密な計画のおかげですわ。私一人では、到底あのように綺麗に外堀を埋めることはできませんでした」


私が感謝を伝えると、セオドア様はふっと目を細め、私の腰に腕を回して引き寄せた。


「綺麗に外堀を埋めたのは、彼を確実に切り捨てるためだけじゃない」


至近距離で囁かれる彼の声に、背筋がゾクゾクと粟立つ。普段の冷徹な宰相の顔とは違う、雄としての熱情を孕んだ瞳が、私を射抜いていた。


「これで君は自由だ。王家という呪縛から解き放たれ、ただのリリアーナになった。……いや」


セオドア様の大きな手が、私の頬を優しく撫でる。


「これからは、僕のそばで君のその類稀なる才能を存分に振るってほしい。僕の、ただ一人の大公妃として」

「セオドア様……」


「返事は、もう聞いているようなものだが?」


悪戯っぽく笑う彼の唇が、私の唇に重なる直前。

広間の奥から、エリオット殿下の怒声とも悲鳴ともつかない声が微かに聞こえてきたような気がした。

おそらく、私が退場した直後に、セオドア様が仕込んでおいた監査官が、殿下の数々の不正と横領の証拠を突きつけたのだろう。


ああ、なんて滑稽で、素晴らしい夜なのだろう。

私は静かに目を閉じ、私を縛り付けていた鎖が完全に砕け散る音を聞きながら、新たなる主君であり、私が密かに心を預けていた男性の腕の中に身を委ねた。


愚かな王子の自滅へのカウントダウンは、今、高らかに鳴り響いたのである。

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国王と王弟と第一王子の関係がおかしくないですか? 国王の息子が第一王子。王弟は国王の弟。 ならば、第一王子にとって王弟は叔父にあたる。従兄なら 王弟の子供でないとおかしい。
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