第8話 水族館と、穏やかな休日
休日の朝。
待ち合わせ場所の駅前には、柔らかな春の日差しが降り注いでいた。
「お待たせしました。」
イノリは淡い色のワンピースにカーディガンという、ライブの衣装とはまったく違う装いで現れた。
「その服、似合ってるね。」
ユウキが自然にそう言うと、イノリは少し照れたように笑う。
「ありがとうございます。こういう格好で出かけるの、久しぶりなんです。」
二人は電車に乗り、水族館へ向かった。
◇
館内は休日ということもあり、多くの家族連れやカップルで賑わっていた。
大きな水槽では、青い光の中を魚の群れがゆっくりと泳いでいる。
「きれい……。」
イノリは足を止め、水槽に見入っていた。
その横顔は、ステージの上とは違う穏やかな表情をしている。
「こういう場所、好きなの?」
「はい。」
イノリはうなずく。
「時間がゆっくり流れる感じがして、落ち着くんです。」
「分かる気がする。」
ユウキも水槽を眺める。
仕事では分刻みで予定が動く毎日だ。
だからこそ、この静かな空間が心地よく感じられた。
◇
イルカショーを見たあと、二人は館内のカフェで休憩を取った。
「最近、ライブのお客さんが少し増えてきたんです。」
イノリは嬉しそうに話す。
「イベントに出演してから、『初めてライブを見に来ました』って言ってくださる方もいて。」
「それは良かった。」
「まだ小さな変化ですけど……前に進めている気がします。」
ユウキはコーヒーを口に運びながら微笑んだ。
「努力はちゃんと誰かが見ているんだね。」
「はい。」
少し間を置いて、イノリが尋ねる。
「ユウキさんは、会社を始めて後悔したことってありますか?」
「もちろんあるよ。」
ユウキは苦笑した。
「資金繰りが苦しかった時期もあったし、何度も失敗した。」
「でも、続けた。」
「続けるしかなかったんだ。」
その言葉に、イノリは静かに耳を傾ける。
「諦めなかったから、今がある。」
「……その言葉、励みになります。」
◇
夕方。
水族館を出ると、空はオレンジ色に染まり始めていた。
駅へ向かう途中、公園のベンチで少しだけ休憩する。
「今日はありがとうございました。」
イノリが穏やかな笑顔を向ける。
「私、こんなに気を遣わずに過ごせた休日、久しぶりでした。」
「僕も楽しかった。」
ユウキは素直に答えた。
「仕事の話だけじゃなくて、いろんな話ができたし。」
イノリは少しだけ視線を落とし、それから意を決したように顔を上げる。
「また……一緒に出かけてもいいですか?」
「もちろん。」
ユウキは迷わずうなずいた。
「今度はみんなにもおすすめされたカフェに行ってみよう。」
「はい。」
イノリの表情がぱっと明るくなる。
二人は駅の改札前で別れ、それぞれ帰路についた。
帰りの電車の中、ユウキは今日撮った水族館の写真を見返す。
魚の群れ。
幻想的なクラゲ。
そして、楽しそうに笑うイノリ。
仕事がきっかけで出会った二人は、少しずつ互いのことを知り、自然な時間を共有できる関係になり始めていた。
その変化は、次に会う約束を交わすだけで嬉しく思えるほど、静かで温かなものだった。




