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第8話 水族館と、穏やかな休日

挿絵(By みてみん)


休日の朝。


待ち合わせ場所の駅前には、柔らかな春の日差しが降り注いでいた。


「お待たせしました。」


イノリは淡い色のワンピースにカーディガンという、ライブの衣装とはまったく違う装いで現れた。


「その服、似合ってるね。」


ユウキが自然にそう言うと、イノリは少し照れたように笑う。


「ありがとうございます。こういう格好で出かけるの、久しぶりなんです。」


二人は電車に乗り、水族館へ向かった。



館内は休日ということもあり、多くの家族連れやカップルで賑わっていた。


大きな水槽では、青い光の中を魚の群れがゆっくりと泳いでいる。


「きれい……。」


イノリは足を止め、水槽に見入っていた。


その横顔は、ステージの上とは違う穏やかな表情をしている。


「こういう場所、好きなの?」


「はい。」


イノリはうなずく。


「時間がゆっくり流れる感じがして、落ち着くんです。」


「分かる気がする。」


ユウキも水槽を眺める。


仕事では分刻みで予定が動く毎日だ。


だからこそ、この静かな空間が心地よく感じられた。



イルカショーを見たあと、二人は館内のカフェで休憩を取った。


「最近、ライブのお客さんが少し増えてきたんです。」


イノリは嬉しそうに話す。


「イベントに出演してから、『初めてライブを見に来ました』って言ってくださる方もいて。」


「それは良かった。」


「まだ小さな変化ですけど……前に進めている気がします。」


ユウキはコーヒーを口に運びながら微笑んだ。


「努力はちゃんと誰かが見ているんだね。」


「はい。」


少し間を置いて、イノリが尋ねる。


「ユウキさんは、会社を始めて後悔したことってありますか?」


「もちろんあるよ。」


ユウキは苦笑した。


「資金繰りが苦しかった時期もあったし、何度も失敗した。」


「でも、続けた。」


「続けるしかなかったんだ。」


その言葉に、イノリは静かに耳を傾ける。


「諦めなかったから、今がある。」


「……その言葉、励みになります。」



夕方。


水族館を出ると、空はオレンジ色に染まり始めていた。


駅へ向かう途中、公園のベンチで少しだけ休憩する。


「今日はありがとうございました。」


イノリが穏やかな笑顔を向ける。


「私、こんなに気を遣わずに過ごせた休日、久しぶりでした。」


「僕も楽しかった。」


ユウキは素直に答えた。


「仕事の話だけじゃなくて、いろんな話ができたし。」


イノリは少しだけ視線を落とし、それから意を決したように顔を上げる。


「また……一緒に出かけてもいいですか?」


「もちろん。」


ユウキは迷わずうなずいた。


「今度はみんなにもおすすめされたカフェに行ってみよう。」


「はい。」


イノリの表情がぱっと明るくなる。


二人は駅の改札前で別れ、それぞれ帰路についた。


帰りの電車の中、ユウキは今日撮った水族館の写真を見返す。


魚の群れ。


幻想的なクラゲ。


そして、楽しそうに笑うイノリ。


仕事がきっかけで出会った二人は、少しずつ互いのことを知り、自然な時間を共有できる関係になり始めていた。


その変化は、次に会う約束を交わすだけで嬉しく思えるほど、静かで温かなものだった。

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