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まだ気が付いていないんですか? あなたはもう終わりですよ?  作者: 逆立ちハムスター


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3

王都を出立する朝、空は皮肉なほどに澄み渡っていた。

ガルディア帝国の威信を示す、黒檀と黄金で設えられた八頭立ての豪奢な馬車が、石畳を滑るように進んでいく。その車窓から見下ろす王都の街並みは、たった一日の間に、目に見えて活気を失っていた。


「……酷い臭いですわね」

「ああ。王都の地下水路の浄化魔術が完全に停止したのだろう。下水が逆流し始めている臭いだ」


向かいの席で足を組むヴァレリウス閣下が、鼻先で笑う。

彼の言う通り、街のあちこちで顔をしかめ、ハンカチで鼻を覆う市民の姿が見えた。中には、突如として枯れ果てた公共の水飲み場の前で、途方に暮れている者もいる。


「たった一日でこれですか。王宮魔術師団は何をしているのでしょう」

「彼らに罪はないさ。君という『規格外の逸材』に依存しきっていたあの国のシステムそのものが異常だったのだ。……それにしても、君の抜けた穴を埋めるため、魔術師団の半数が魔力枯渇で倒れ、残りの半数もストライキを起こして逃げ出したと聞いたが?」

「ええ。殿下が『気合でなんとかしろ! 予算は出さない!』と怒鳴り込んだのが決定打だったようですわ」


私は冷めた紅茶を一口飲み、小さくため息をついた。

私が王都のインフラ維持を一手に引き受けていたのは、決して自己犠牲の精神からではない。私自身の強大すぎる魔力を定期的に放出しないと、体調を崩してしまう特異体質だったからだ。それを「国のために役立てよう」と提案したのは私自身だが、いつしかそれが「当たり前」になり、誰もメンテナンスやバックアップ体制を作ろうとしなくなった。

警告は何度もしたはずだ。「私がいなくなれば、この国の結界とインフラは崩壊しますよ」と。

だが、ユリアン殿下は「お前は一生俺の影として働くのだから、いなくなることなどあり得ないだろう」と笑い飛ばした。


その奢りが、今、この国を猛スピードで滅ぼしている。


「お嬢様。王宮の最新の状況が入りました」

護衛として馬車の御者台の近くに控えていたシオンが、通信用の魔鏡(手鏡)を通じて報告を入れてきた。

「ほう、聞かせろ。あの馬鹿王子は今どうなっている?」

ヴァレリウス閣下が楽しげに身を乗り出す。


「はい。昨夜の宝石店での騒動の後、ユリアン殿下は国王陛下から王宮の謁見の間に引きずり出されたそうです。そして、満座の貴族たちの前で、陛下から平手打ちを三発食らったとのこと」

「まあ。あの陛下が、愛していた息子を?」

「無理もありません。今朝方、隣国の通商代表から『アウレリア公爵令嬢が担当を外れるのであれば、これまでの関税優遇措置はすべて白紙に戻し、明朝より関税を五倍に引き上げる』という親書が届いたのです。さらに、東部穀倉地帯の領主たちからは『アウレリア様からの支援金が途絶えた。これ以上の国への納税は拒否し、独立も辞さない』との連判状が叩きつけられました」


私は扇を開き、口元を隠した。

想像以上に早い。私が手回しをしておいたとはいえ、あの国の貴族たちも泥舟から逃げ出す準備を虎視眈々と進めていたのだろう。私が「鎖」を引きちぎった瞬間、誰もが王家を見限ったのだ。元々、私に皆跪いていただけなのかもしれない。


「国王陛下は激怒し、殿下に『今すぐアウレリア嬢の元へ行き、土下座をしてでも連れ戻してこい!』と命じたそうです。しかし、殿下は『なぜ私が! あの女が謝るべきです!』と泣き喚き、それに同調したリリアンヌ嬢が『真実の愛があれば、困難は乗り越えられますわ!』と陛下に説教を始めたらしく……」

「……で? 陛下はどうなさったの?」

「リリアンヌ嬢を『国を傾けた魔女』として、地下牢へ投獄するよう近衛兵に命じました」


馬車内に、ピシリと冷たい空気が走った。

「殿下はリリアンヌ嬢を庇って剣を抜こうとしましたが、すぐに取り押さえられ、現在は自室で軟禁状態。……彼らは今頃になってようやく、アウレリア様という存在の大きさと、己のしでかしたことの重大さに気づき、絶望の淵で震え上がっているようです」


「遅すぎるな」

ヴァレリウス閣下が、氷のように冷たい声で吐き捨てた。

「すべてを失ってから気づくなど、為政者として三流以下だ。そのまま国ごと滅びるがいい」


私も同感だった。

少しの同情も湧かない。ただ、これまで私が注いできた十五年という月日が、あまりにも下らない男のために費やされたことへの虚しさだけがあった。


「……そんな顔をするな、アウレリア」


不意に、向かいの席からヴァレリウス閣下が身を乗り出し、私の頬に優しく手を添えた。

長い指が、私の銀糸のような髪をすくう。黄金の瞳が、私を真っ直ぐに射抜いていた。


「お前が救うべき価値のない国だ。過去を振り返る必要はない。これからは、私の隣で、お前のその素晴らしい才覚を、お前自身のために使うといい」

「閣下……」

「ヴァレリウス、と呼べ。もうすぐ夫婦になるのだからな」


甘く、けれど決して拒絶を許さない強い響き。

私は頬が熱くなるのを感じながら、小さく頷いた。

「……はい、ヴァレリウス様」


────


馬車が国境を越え、ガルディア帝国の領内に入ると、風景は一変した。

広大で豊かな麦畑。空には魔力で駆動する飛行船が優雅に浮かび、街道は魔法陣で舗装され、馬車の揺れすら感じさせない。

王国の時代遅れなインフラとは比べ物にならない、高度な魔道技術と圧倒的な国力がそこにはあった。


帝都ガルディアに到着したのは、夕闇が空を紫に染め上げる頃だった。

大理石と黒曜石で築かれた壮麗な帝城の正門前には、真紅の絨毯が敷かれ、皇帝直属の近衛騎士団がズラリと整列していた。


「大公閣下! ならびに、次期大公妃アウレリア様、ご帰還であります!」


ラッパの音が鳴り響く中、ヴァレリウス様にエスコートされて馬車を降りた私を待っていたのは、信じられない光景だった。


「おおおお! アウレリア嬢! よくぞ、よくぞ我が帝国へ来てくれた!!」


豪奢なマントを翻し、涙ぐみながら突進してきたのは、ガルディア帝国第十三代皇帝、アレクサンドル陛下ご本人だった。ヴァレリウス様の兄君であり、大陸に覇を唱える冷徹な皇帝として名を馳せているはずの彼が、なぜか私の手を取り、ぶんぶんと上下に振っている。


「兄上。アウレリアが困っているだろう。少し落ち着け」

「これが落ち着いていられるか! ローゼンベルクの至宝が我が国に入ったのだぞ!? ああ、君が提出したという『王国との魔石輸出入に関する関税適正化に関する論文』、あれは素晴らしかった! 我が国の財務省の役人たちが、あの論文を読んで感動のあまり泣き出したのだぞ!」

「は、はあ……恐縮でございます」


私は戸惑いながらも、完璧な淑女の笑みを浮かべた。

「あの、私はただ、数字の矛盾を指摘し、互いの国が長期的に利益を得られるような枠組みを提案しただけでして……」

「そこなのだ! 君はただの令嬢ではない! 経済と魔術、その両方の深淵を理解している稀有な天才だ! あの愚鈍な王国は、君に書類のハンコ押しと下水道の掃除だけをさせていたと聞いた! 腹立たしい! なんという宝の持ち腐れだ!」


皇帝陛下の背後では、文官の服を着た数十人の役人たちが、「アウレリア様万歳!」「これで我々の残業が減る!」「救世主様だ!」と、謎の熱狂をもって私を迎えていた。

……どうやら、帝国も帝国で、慢性的な「優秀な頭脳不足」に悩まされていたらしい。


「アウレリア。悪いが、我が国の財務省と魔術省は、すでに君のための執務室を用意してしまっている。もちろん、君が望めばの話だが……」

ヴァレリウス様が、少しだけ申し訳なさそうに苦笑した。


「……ふふっ」

私は思わず、声を出して笑ってしまった。

王宮では、私が有能であればあるほど「女のくせに出しゃばるな」「可愛気がない」と疎まれてきた。

だがここでは、私の知性と能力を、手放しで賞賛し、必要としてくれている。


「喜んでお引き受けいたしますわ、陛下、ヴァレリウス様。ただし、私の労働条件は少々厳しいですよ? 完全週休二日制、有給休暇は年三十日、そして——」

私はヴァレリウス様の腕にそっと触れ、悪戯っぽく微笑んだ。

「ヴァレリウス様との『お茶の時間』は、毎日必ず確保していただきますわ」


「——っ」

ヴァレリウス様の黄金の瞳が見開き、そして、耳の先がほんのりと赤く染まるのが見えた。冷徹な北の狼の、初めて見る照れた表情に、私の胸の奥底で何かが甘く溶けていく。


「……承知した。皇帝の権限において、君の要求をすべて呑もう」

皇帝陛下が高らかに宣言し、周囲の役人たちから歓声が上がった。


────


その夜。

私のために用意された、帝城内の豪奢なゲストルーム。その広々としたバルコニーで、私は夜風に吹かれていた。

帝都の夜景は、魔法の灯りに照らされて、まるで地上に星空が落ちてきたかのように美しい。


「アウレリア」


背後から、温かい外套が私の肩に掛けられた。

ヴァレリウス様だ。彼は私の隣に立ち、同じように帝都の夜景を見下ろした。


「素晴らしい夜景ですね。王都の灯りとは比べ物になりませんわ」

「……君が望むなら、この景色すべてを君に捧げよう。私と結婚してくれるか?」


唐突な、けれど直球のプロポーズ。

彼は私の前に片膝をつき、上着のポケットから小さなビロードの箱を取り出した。

パカッと開かれた箱の中にあったのは、星の輝きを閉じ込めたような、大粒のブルーダイヤの指輪だった。その石の奥底には、強大な防御魔術が精緻に編み込まれているのが、魔力を視る目を持つ私にはすぐに分かった。


「これは……」

「我がガルディア皇族に代々伝わる、守護の指輪だ。君がかつての馬鹿王子から、まともな贈り物一つ貰っていなかったことは調べがついている。……これからは、私が君に、世界中のあらゆる美しいものを贈ろう」


私のために怒り、私のために行動し、私をありのままに評価してくれる人。

ユリアン殿下と過ごした十五年間の冷え切った心が、彼の熱情によって溶かされていく。

私はそっと左手を差し出し、彼に指輪を嵌めてもらった。

ピッタリと収まった指輪は、温かい魔力で私の指を包み込んだ。


「ありがとうございます、ヴァレリウス様。……私、この国に来て本当に良かった」

「それはこちらの台詞だ、私の愛しい人」


彼は立ち上がり、私の腰を引き寄せると、その薄い唇を私の額に、そして唇へとそっと落とした。

月明かりの下、初めての口付けは、驚くほど優しく、甘かった。


「……さて」

唇を離したヴァレリウス様が、酷薄な笑みを浮かべて東の空——王国がある方角へ視線を向けた。


「明日には、あの国から悲鳴を上げるような『救援要請』の使者が到着するはずだ。飢餓、暴動、インフラ崩壊、そして隣国からの武力制裁の危機。……彼らは、君が戻ってくるとでも思っているのだろうな」

「都合のいい夢を見るのは、あの殿下の得意技ですから」


私は彼に寄り添いながら、同じように冷酷な微笑みを浮かべた。


「明日は、彼らに現実という名の引導を渡して差し上げましょう。もう二度と、立ち上がれないほどのね」

「ああ。共に彼らの絶望を鑑賞しよう、我が妃よ」


泥舟はすでに半ば沈みかけている。

明日、私たちがその頭を水底へと踏み沈める時、あの王子はどんな顔をするのだろうか。

帝都の美しい夜空を見上げながら、私は明日からの、甘く刺激的な新婚生活の始まりに、胸を躍らせていた。

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