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まだ気が付いていないんですか? あなたはもう終わりですよ?  作者: 逆立ちハムスター


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ガルディア帝国の紋章が刻まれた豪奢な馬車は、王都の石畳の上を滑るように進んでいた。

車内に施された高度な防音と振動軽減の魔術結界により、外の喧騒は全く聞こえない。最高級のビロードが張られた座席に深く腰を下ろすと、まるで雲の上にいるような心地よさだった。


「……それにしても、まさか大公閣下ご自身が、このような小国の学園のパーティーに潜入しておられるとは思いませんでしたわ」


向かいの席で長い足を組み、片手にワイングラスを揺らしている北の狼——ヴァレリウス・フォン・ガルディア大公に、私はふうっと息を吐きながら言った。


「帝国が誇る情報網を舐めないでいただきたい。ローゼンベルク公爵令嬢が、密かに自領の資産を帝国側の商会に移し始めているという報告を受ければ、私自らが出向く理由には十分すぎる」

「あら。それはどうも、お目汚しをいたしました」


私はくすりと笑った。

そう、私がユリアン殿下から婚約破棄をされるのは、今日思い立ったことではない。

あの方が男爵令嬢リリアンヌ・マクスウェルにうつつを抜かし、私の助言に一切耳を貸さなくなった半年前から、私は密かに『この国を捨てる準備』を進めていたのだ。


我がローゼンベルク家は、王家に匹敵する財力と武力を持つ。しかし、どれほど家格が高くとも、王命を直接反故にするのは反逆罪に問われる可能性があった。

だから私は、ユリアン殿下の方から私を切り捨てるように仕向けたのだ。

彼がリリアンヌと密会しやすくなるよう、あえて私が担当する公務の時間を増やし、彼を自由に泳がせた。彼の取り巻きたちが私のありもしない悪評を立て始めた時も、あえて訂正せずに放置した。

すべては、今日の良き日に、衆人環視の中で彼自身に『婚約破棄』を宣言させるため。


「見事な手腕だった。あそこまで徹底的に己を悪役に仕立て上げ、相手に引導を渡させるとは。しかも、あのアホ王子は自分が何を失ったのか、あの瞬間まで——いや、今この瞬間も理解していない様子だったな」

「殿下の頭の中は、お花畑とご自身の虚栄心で埋め尽くされておりますから。私が徹夜で組み上げた予算案も、ただ『印を捺すだけ』の紙切れとしか思っていらっしゃらないのです」


冷めた紅茶を飲むような手つきで、ヴァレリウス閣下はワインを飲み干した。

「我が帝国の財務官たちが泣いて喜ぶぞ。君のような規格外の頭脳が手に入るのだからな。……して、いつから私の手を取るつもりだった?」

「さて。それは閣下の腕次第、と申し上げておきましょうか」


強がりを言ってみたものの、正直なところ、彼の登場は予想外であり、同時にこれ以上ないほどの幸運だった。帝国という巨大な後ろ盾があれば、あの愚かな王家もローゼンベルク家に手出しはできない。


「いいだろう。君のその不敵な笑み、ゾクゾクするほど愛らしい。我がガルディアにおいて、君の才覚を存分に振るうといい」

黄金の瞳が、獲物を愛でるように細められた。


---


翌朝。

私は、王都の一等地に位置するガルディア帝国大使館の最上階、賓客用のスイートルームで目を覚ました。


目覚まし時計代わりの、文官たちの悲鳴も、山積みの書類が崩れる音もない。

窓から差し込む朝日は柔らかく、小鳥のさえずりだけが耳に届く。


「……なんて、静かな朝なのかしら」


ここ十数年、私は毎朝六時には執務室に入り、王宮中の稟議書の確認と、結界維持のための魔力供給を行っていた。それが一切ない朝が、これほどまでに体が軽く、清々しいものだとは知らなかった。

大きく伸びをすると、控えの間から私専属の侍女であるマリーが、満面の笑みで入ってきた。彼女もまた、私が事前に手配して大使館に避難させていた一人だ。


「おはようございます、アウレリア様! 昨夜はよくお眠りになれましたか?」

「ええ、マリー。泥のようにぐっすりとね。顔色も良いでしょう?」

「はい! 今までの、徹夜明けの青白いお顔が嘘のようですわ。さあ、お召し替えを。ヴァレリウス大公閣下が、ダイニングでお待ちでございますよ」


手早く、しかし完璧に身支度を整え、私はダイニングルームへと向かった。

そこには、朝陽を浴びてさらに彫刻のような美しさを際立たせているヴァレリウス閣下が、優雅にコーヒーを飲んでいた。


「おはよう、私の美しい婚約者」

「おはようございます、閣下。……その呼び方、もう決定事項なのですか?」

「当然だろう? 昨夜、私は帝国の半分を君にやると言った。皇帝陛下あにきにはすでに早馬を出してある。事後承諾で十分だ」


呆れるほどの決断力と行動力だ。だが、その強引さが今は頼もしい。

テーブルには、焼きたてのパンの香ばしい匂い、色鮮やかなサラダ、そして湯気を立てる厚切りのベーコンと卵料理が並べられていた。

王宮での、冷めきったスープを書類を読みながら胃に流し込むだけの朝食とは大違いだ。私は久しぶりに、食事の「味」というものを堪能した。


私たちが食後の紅茶を楽しんでいると、部屋の隅の影がゆらりと揺れた。

現れたのは、ローゼンベルク家の影の護衛であり、筆頭密偵でもある青年、シオンだった。


「お嬢様、大公閣下。ご歓談中失礼いたします。王宮の『現状』について、ご報告に上がりました」

「ご苦労様、シオン。どうなっているかしら?」


私が紅茶のカップを置くと、シオンは無表情のまま、しかし声の端々に隠しきれない嘲笑を滲ませて報告を始めた。


「控えめに申し上げて、『阿鼻叫喚』でございます」

「あら。詳しく聞かせて」


「まず、今朝七時。王都の地下水路の魔力浄化システムが停止しました。アウレリア様からの魔力供給が絶たれたためです。現在、王宮魔術師団が総出で魔力を注いでおりますが、お嬢様お一人の魔力出力に及ぶはずもなく、すでに数名が魔力枯渇で倒れました。このままでは三日と持たず、王都の上下水道から汚臭が溢れ出すでしょう」


ヴァレリウス閣下が面白そうに口角を上げる。

「たった一人の令嬢が担っていたインフラを、国軍の魔術師団で維持できないとは。この国の魔術レベルはどうなっているのだ?」

「ユリアン殿下が『魔術の研究など地味で金がかかるだけだ』と、魔術師団の予算を半減させたからですわ。優秀な人材は皆、他国へ流出してしまいましたから」


私が平然と答えると、シオンはさらに続けた。


「次に、午前九時。財務大臣が王家金庫を開き、卒倒いたしました」

「……空っぽだったのね?」

「はい。金庫の残高はおよそ金貨百枚。王族の一ヶ月の生活費にも満たない額です。ローゼンベルク家からの『一時的な融資』という名目で預けていた莫大な資金は、昨夜のうちにすべて引き上げさせていただきました。お嬢様の『婚約破棄』が成立した時点で、融資の契約は無効となる約定でしたから」


そもそも、あの国の財政は破綻していた。

私が婚約者として王宮に入り、ローゼンベルク家の財力と私の投資運用でなんとか黒字に見せかけていただけなのだ。


「そして極めつけは、ユリアン殿下ご自身の行動です」

シオンはここで一度言葉を区切り、わざとらしくため息をついた。

「殿下は本日正午頃にお目覚めになり、リリアンヌ嬢を連れて王都一の宝石店へ赴かれました。そこで『婚約破棄の記念』と『新たな真実の愛の証』として、総額三千万銀貨に上るダイヤモンドの首飾りを購入しようとされたのですが……」


「……ですが?」


「店主に『王家名義のツケは、今後一切お断りしております』と、にべもなく断られ、激高して店先で暴れられたとのこと。現在、近衛兵が店主を取り押さえようとしていますが、周囲の民衆からは冷ややかな視線が向けられているようです。何せ、その宝石店はローゼンベルク商会の傘下ですからね」


私は思わず吹き出しそうになるのを、扇で口元を隠して誤魔化した。

あの見栄っ張りな殿下が、愛する女性の前でクレジットカード(王室の権威)が使えずに赤っ恥をかいたのだ。その顔を想像するだけで、十年分の苦労が報われるような気がした。


「見事な瓦解っぷりだな。砂上の楼閣とはまさにこのことだ」

ヴァレリウス閣下が愉快そうに笑い声を上げる。


「ええ。ですが、これで終わりではありませんわ。明後日には隣国との関税交渉の期限が切れますし、来週には東部領の不作に対する暴動が起きる可能性があります。殿下は、自分がどれほど精巧に組み上げられたガラスの城の上に立っていたのか、まだ理解していないでしょう」


私がそう言い切った直後だった。

大使館の重厚な扉が、慌ただしくノックされた。


「大公閣下! アウレリア様! 王宮より、ユリアン殿下の使者が参っております!」


大使館の護衛騎士が血相を変えて飛び込んできた。

私とヴァレリウス閣下は顔を見合わせ、同時に冷ややかな笑みを浮かべた。


「……来たようですね」

「ああ。少しばかり現実を教えてやるとしよう」


---


大使館のエントランスホールに足を踏み入れると、そこには王宮の近衛騎士の制服を着た男が、傲慢な態度で腕を組んで立っていた。

私の姿を見るや否や、彼は大股で歩み寄り、大声で宣言した。


「アウレリア・フォン・ローゼンベルク! 殿下からの寛大なるお言葉をお伝えする! 即刻王宮へ戻り、己の非を認めてリリアンヌ嬢に土下座で謝罪せよ! さすれば、昨夜の無礼を不問に付し、再び政務の代行を『許してやる』とのことだ!」


……あぁ、本当に。

どこまで行っても、あの男の思考回路は救いようがない。


自分が私を追放しておきながら、書類仕事が回らなくなり、金も使えなくなったからといって「謝れば仕事に戻してやる」とは。

自分が上の立場であると、まだ微塵も疑っていないのだ。


私が口を開くより早く、隣に立つヴァレリウス閣下が、氷点下の冷気を纏った声で告げた。


「……随分と威勢のいい犬だな。我がガルディア帝国の未来の大公妃に向かって、土下座しろと言ったか?」


その瞬間、エントランスホール内の空気が凍りついた。

閣下の体から溢れ出す、実戦で鍛え上げられた圧倒的な魔力と殺気。

近衛騎士の男は、まるで巨大な竜に睨みつけられたカエルのように、顔面を蒼白にしてガチガチと歯の根を鳴らし始めた。


「た、大公、閣下……!? な、なぜ、このような所に……そして、大公妃、とは……?」

「言葉の通りだ。アウレリア嬢は、我が帝国が国賓として、そして私の婚約者として迎え入れた。貴様らのような泥舟の沈没に付き合わせるつもりはない」


騎士は震える足で後ずさり、助けを求めるように私を見た。

「あ、アウレリア様……! お願いです、戻ってきてください! 今朝から王宮の政務室はパニック状態なのです! あなたがいないと、魔法陣も、予算も、他国との交渉も、何もかもが……!」


私は彼を憐れむように見下ろし、静かに、しかしはっきりと告げた。


「昨夜、殿下は『婚約破棄』を宣言なさいました。王家からの公的な婚約破棄の言葉を、私が受諾した。それが全てです。私はもはや、あの国の人間ではありません」

「そ、そんな……殿下は、あなたがすぐに泣きついてくると……!」


「お戻りなさい」

私の声は、ひどく冷たく響いた。


「そして、ユリアン殿下にお伝えなさい。『まだ気が付いていないんですか? あなたはもう終わりですよ』と。私が手放した糸が絡まり、国という首を絞め上げる様を、せいぜい愛する女の腕の中で怯えながら見ていることですね」


騎士は完全に絶望したような顔になり、腰を抜かしかけながらも、逃げるように大使館から転がり出ていった。


その背中を見送りながら、私はふうっと息を吐いた。

もう、後戻りはない。そして、後悔など微塵もなかった。


「素晴らしい啖呵だったな、我が妃よ」

ヴァレリウス閣下が、私の腰をそっと抱き寄せる。

「さあ、泥舟の沈没ショーの特等席は用意してある。帝国の力を使って、あの愚か者たちをどこまで追い詰めるか、二人でゆっくりと計画を練ろうではないか」


私の第二の人生は、どうやら最高に刺激的で、甘美な復讐劇から始まるらしい。

私は大公閣下の胸に寄り添い、極上の微笑みを返した。


「ええ、喜んで。閣下」

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