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シャンデリアの眩い光が、磨き上げられた大理石の床に反射し、色とりどりのドレスを身に纏った貴族たちの姿を万華鏡のように映し出している。
王立魔法学園の大広間は、卒業という人生の節目を祝う若き貴族たちの熱気と、甘い香水、そして優雅な管弦楽の音色に包まれていた。
王国の未来を担う者たちが集うこの場所は、さながら権力と欲望、そして希望が入り交じる巨大な社交の舞台である。
そのホールの中心に近い壁際で、私は静かにグラスを傾けていた。
私の名前は、アウレリア・フォン・ローゼンベルク。
建国時から王家を支え続ける筆頭公爵家であるローゼンベルク家の長女であり、そして——この国の第一王子、ユリアン殿下の『婚約者』である。
「アウレリア様、本日も大変お美しいですね。その夜空のような深い藍色のドレス、あなたの白磁の肌にとてもよくお似合いですわ」
「ありがとうございます、オクタヴィア様。あなたのお召し物も、春の訪れを感じさせる素晴らしい刺繍ですね」
取り巻きの令嬢たちと当たり障りのない会話を交わしながらも、私の思考は全く別のところにあった。
(明日は、隣国との魔石輸出に関する関税交渉の最終会議。そして午後には、王都の地下水路の魔力結界の更新手続き。あぁ、そういえば東部領の不作に対する特別給付金の決裁書類も、まだ殿下の署名が頂けていなかったわね……)
卒業パーティーという華やかな場にありながら、私の頭の中を占めているのは色気のない政務と数字ばかりだ。
無理もない。本来であれば王太子となるユリアン殿下がこなすべき公務の実に八割を、婚約者である私が代行しているのだから。
私が彼と婚約を結んだのは、わずか八歳の時。
魔力、知能、そして家柄。全てにおいて王妃となるにふさわしいと判断された私は、幼い頃から厳しい王妃教育を受け、己の感情を殺し、ただ国のため、王家のために尽くしてきた。
ユリアン殿下は、金糸のような美しい髪と、空色の瞳を持つ、絵に描いたような王子様だ。しかし、その中身はといえば、努力を嫌い、責任から逃げ、ただ己の虚栄心を満たすことだけを優先する、見事なまでの『飾り物』であった。
それでも、私は耐えてきた。それがローゼンベルク公爵令嬢としての義務であり、私が国を支えなければ、罪のない領民たちが苦しむことになると分かっていたからだ。
——だが、その私の献身も、どうやら今日で終わりを迎えるらしい。
ふと、ホールの入り口がざわめき、演奏が不自然に途切れた。
人々が海が割れるように道を開け、その中心を二人の男女が歩いてくる。
「アウレリア・フォン・ローゼンベルク! そこへ直れ!!」
大広間に響き渡ったのは、優雅さなど微塵も感じさせない、怒気を孕んだユリアン殿下の声だった。
彼は豪奢な王族の礼服を身に纏い、その腕には、一人の小柄な少女を抱き寄せていた。
桃色のふわふわとした髪に、潤んだ大きな瞳。庇護欲をそそるような儚げな容貌を持つ彼女は、最近学園で話題になっている男爵令嬢、リリアンヌ・マクスウェルだ。
特待生として入学してきた彼女は、その「平民のような親しみやすさ」と「愛らしさ」で、殿下をはじめとする高位貴族の令息たちを次々と骨抜きにしている、と専らの噂だった。
周囲の貴族たちが息を呑み、好奇と戸惑いの視線を私たちに向ける中、私はゆっくりとグラスを置き、完璧なカーテシー(淑女の礼)をとった。
「お呼びでしょうか、ユリアン殿下。卒業を祝うこの佳き日に、そのような大声をあげられずとも、私は逃げも隠れもいたしませんわ」
「ふん、白々しい。その仮面のように冷たい顔の下に隠された、お前の嫉妬深く醜い本性は、とうに暴かれているのだぞ!」
殿下は私を指差しながら、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。その腕の中で、リリアンヌが「殿下、もうやめてくださいませ……私が我慢すればいいだけですから……」と、わざとらしく涙ぐんでみせる。
「聞け、皆の者! ここにいるアウレリアは、我が愛するリリアンヌに対し、数々の卑劣な嫌がらせを行ってきた! リリアンヌの書物を破り捨て、階段から突き落とそうとし、さらには先日の茶会で彼女のドレスに泥水を浴びせたのだ!」
殿下の言葉に、広間は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
「あの完璧な公爵令嬢が?」「まさか、嫉妬に狂って?」「恐ろしい……」と、心無いヒソヒソ話が耳に届く。
しかし、私はただ静かに、酷く冷めた心で殿下を見つめていた。
(書物を破った? 階段から突き落とした? ドレスに泥水?)
私は心の中で深く、深くため息をついた。
あまりにも稚拙な捏造に、怒りよりも先に呆れが勝る。
「……殿下。恐れながら申し上げますが、何か誤解をなさっているのでは? 私はそのような真似は一切しておりません」
「往生際が悪いぞ、アウレリア! 証人はいくらでもいるのだ。近衛騎士団長の子息も、宰相の息子も、皆お前の悪行を見ていたと証言している!」
あぁ、なるほど。彼女の取り巻きの愚息どもが口裏を合わせているのか。
私はすっと背筋を伸ばし、凛とした声で反証を始めた。
「殿下がおっしゃる『階段から突き落とそうとした日』というのは、先月の十五日のことでしょうか? もしそうであれば、私はその日、丸一日王宮の文書庫にこもり、殿下が三ヶ月放置なさっていた『隣国との貿易協定の見直し案』の修正を行っておりました。文書庫の出入り記録と、王宮文官たちの証言が残っております」
「なっ……」
「また、『ドレスに泥水を浴びせた茶会』というのは、二週間前の火曜日のことですね? その時刻、私は北部の魔獣討伐部隊の予算編成会議の議長を務めておりました。近衛騎士団長も同席しておりましたが、彼の子息は一体どこで私を見たと言うのでしょうか? 幻覚でもご覧になったのでは?」
論理的かつ具体的な私の反論に、殿下は言葉に詰まり、顔を真っ赤にして口をパクパクとさせている。周囲の貴族たちも、私の言葉の真実味と、そもそも「王太子がやるべき仕事を婚約者が全部やっていた」という事実の暴露に、ざわめきの色を変え始めていた。
「ゆ、ユリアン様ぁ……」
分が悪くなったと察したのか、リリアンヌが殿下の胸にすがりつき、大粒の涙を流し始めた。
「アウレリア様は、私のような身分卑しい女が殿下のお側にいるのが許せないのですわ。私がいけないのです……私が、殿下を愛してしまったから……!」
「リリアンヌ、君は何も悪くない! 悪いのはこの冷酷な女だ!」
涙を見るや否や、殿下のわずかな理性は完全に吹き飛んだらしい。彼は私を力強く睨みつけ、ホール中に響き渡る声で宣言した。
「言い逃れなど無用だ! 私は真実の愛を見つけた! アウレリア・フォン・ローゼンベルク! 貴様のような冷酷で可愛気のない女は、もはや未来の王妃にふさわしくない! 今この時をもって、貴様との婚約を破棄する!! そして、ここにいる真に優しく美しいリリアンヌ・マクスウェルを、私の新たな婚約者とする!」
その瞬間、大広間は水を打ったような静寂に包まれた。
誰もが息を止め、私を見た。
私が泣き崩れるのか、それとも怒りに任せて男爵令嬢に掴みかかるのか。
しかし、私が浮かべたのは、絶望でも怒りでもなく——極上の微笑みだった。
「……婚約破棄。よろしいのですね?」
「あ、ああ! 当然だ! 泣き喚いて謝罪してももう遅いぞ!」
「いいえ、殿下。泣き喚くなどとんでもない」
私はドレスのポケットから、重厚な装飾が施された黄金の鍵束と、王家の紋章が刻まれた代理印章を取り出した。
そして、それらを近くにあった銀の盆の上に、カチャリと音を立てて置いた。
「これは、私が殿下からお預かりしていた、王家金庫の鍵、並びに政務決済用の代理印章でございます。婚約が破棄された以上、私がこれらを所持している理由はありません。謹んで、お返しいたしますわ」
「は……? お前、自分が何をされたか分かっているのか? 未来の王妃の座を失ったんだぞ!」
あっさりと引き下がった私に、殿下は拍子抜けしたような、苛立つような顔を見せた。
「ええ、十分に理解しております。ですから、殿下もご覚悟なさいませ」
「覚悟? 何の覚悟だ」
「殿下の、輝かしい未来のための覚悟でございますわ」
私は完璧なカーテシーをもう一度行い、ふわりと顔を上げた。
まだ気が付いていないんですか王子?
あなたが毎日、昼過ぎまで寝て、夜は彼女と遊び歩くことができたのはなぜか。
王室の金庫が常に潤い、あなたが湯水のように贅沢をできたのはなぜか。
周辺諸国が、武力を持たないこの小国に不可侵条約を結んでくれていたのは、一体誰の交渉術と、誰の実家(ローゼンベルク家)の財力によるものだったのか。
私という防波堤を失ったこの国が、そしてあなたという無能な王子が、これからどうなるか。
(あなたはもう、終わりですよ?)
口には出さず、ただ憐れみを込めた冷たい視線だけを彼に向ける。
その視線に射抜かれ、ユリアン殿下は背筋をゾクッとさせたように一瞬だけ後ずさった。だが、すぐに己の優位を誇示するようにリリアンヌを強く抱き寄せる。
「これより、私はローゼンベルク公爵邸へと戻らせていただきます。お二人の末永いお幸せを、心よりお祈り申し上げますわ」
「ふ、ふん! さっさと立ち去るがいい、敗北者め!」
敗北者。その言葉を背中で受けながら、私は踵を返した。
ホールを出るまでの道程、群衆は私を避けるように道を開けたが、その目に浮かんでいるのはもはや嘲笑ではなかった。
一部の賢明な貴族たち——特に、国政の実務に関わっている官僚や上位貴族たちは、真っ青な顔をしてガタガタと震え始めていた。
彼らは理解したのだ。この国の「真の支配者」であり「実務の全て」を担っていた頭脳が、今、王家を見限ったのだということを。
大広間の重厚な扉が背後で閉ざされると、張り詰めていた空気がふっと緩んだ。
春の夜風が、火照った頬を撫でる。
十五年。長かった鎖が、ようやく解き放たれたのだ。
心を満たすのは、圧倒的な解放感だった。あぁ、明日はゆっくりと朝寝坊をして、紅茶でも淹れて本を読もう。面倒な決裁書類も、我が儘な王子の機嫌取りも、もうしなくていいのだから。
「——思ったよりも、随分とあっさり捨ててきたな」
夜の静寂を破る、低く、鼓膜を心地よく震わせる声。
テラスの影から姿を現したのは、黒一色の礼服に身を包んだ、長身の男性だった。
闇夜に溶けるような黒髪と、獲物を狙う鷹のような、鋭くも美しい黄金の瞳。
彼が纏う圧倒的な覇気と魔力は、先ほどの王子など足元にも及ばない。
「……立ち聞きとは、趣味がよろしくありませんわね。ヴァレリウス大公閣下」
隣国、そして大陸最大の版図を誇るガルディア帝国の実質的支配者である、冷徹なる北の狼、ヴァレリウス・フォン・ガルディア。
彼がなぜ、一介の学園の卒業パーティーの裏庭にいるのか。
「立ち聞きではない。迎えに来ただけだ」
「迎え、ですか?」
「あのような泥舟に、いつまでも稀代の才女を乗せておくのは世界の損失だからな。……我が帝国の玉座の隣が、長らく空いているのは知っているだろう? アウレリア嬢」
彼は優雅な動作で私の前に跪き、そっと私の右手に口付けを落とした。
手袋越しに伝わる熱に、私は小さく目を瞬かせる。
「国庫は破綻寸前、魔力結界は明日にも機能不全に陥り、有能な貴族たちは一斉に見切りをつける。あの愚かな王子が己の破滅に気が付くのは、明日の朝日が昇る頃だろうな」
「……閣下には、全てお見通しということですか」
「お前が手回しをしたのだろう? 鮮やかな手並みだ。私と組めば、この大陸を手中に収めることも容易いぞ」
黄金の瞳が、面白そうに私を射抜く。
どうやら、私の平穏な朝寝坊の計画は、もう少し先になりそうだ。
しかし、無能な王子の尻拭いをする人生に比べれば、この恐ろしくも魅力的な男と共に歩む人生は、どれほど刺激的だろうか。
「……私の慰謝料の請求額は、少々高くつきますわよ?」
「構わん。帝国の半分をくれてやろう」
月明かりの下、二つの影が静かに重なる。
大広間から微かに漏れ聞こえる、何も知らない哀れな王子たちの歓声を背に、私の本当の人生が、今、幕を開けた。




