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ガルディア帝国に身を寄せてから、五日が経過した。
私の新しい日常は、控えめに言っても『最高』の一言に尽きた。
「アウレリア。根を詰めるのもいいが、そろそろ休憩にしないか? 君のために、南方の領地から取り寄せた新作の茶葉を淹れさせたのだが」
「まあ、ヴァレリウス様。わざわざ執務室までお越しくださったのですか?」
帝城内に与えられた、太陽の心地良い日差しがたっぷりと降り注ぐ私の専用執務室。
書類から顔を上げると、帝国の実質的なナンバーツーであるはずの大公閣下が、自らティーセットを運んでくる姿があった。
「君が淹れてくれる茶も絶品だが、たまには私が君を労いたいからな。……それに、あまり仕事に没頭されると、私が嫉妬してしまう」
彼は少しだけ拗ねたような、甘い声音で囁きながら、私の頬に軽くキスを落とした。
冷酷無比と恐れられる北の狼が、私にだけ見せるこの過保護で甘やかな態度は、何度経験しても胸の奥がくすぐったくなる。
帝国での私の仕事は、主に財務省と魔術省の業務改善のアドバイザーだった。
王宮で一人ですべての国政を回していた私にとって、細分化され、優秀な官僚たちが揃っている帝国の仕事は、驚くほど簡単で効率的だった。私が一つ助言をするだけで、彼らは十を理解し、あっという間に形にしてくれる。
感謝され、正当に評価され、そして何より——愛する人が常に気遣ってくれる環境。
王宮での十五年間が、まるで悪い夢だったかのように思えた。
「お楽しみのところ失礼いたします、アウレリア様、大公閣下」
ノックと共に静かに部屋に入ってきたのは、護衛のシオンだった。
彼のその声のトーンに、私はピンとくるものがあった。
「……着いたのですね?」
「はい。先ほど、我が国の正門前に、王国の使節団が到着いたしました。どうやら、随分と長旅でお疲れのようですが」
「使節団の代表は誰かしら」
シオンは、酷薄な笑みを口元に浮かべた。
「ユリアン・フォン・エルメリア第一王子殿下、ご本人です」
ピクリ、とヴァレリウス様の眉が動いた。
王国の危機に際して、ついに国王が愚息の尻を蹴り上げ、直接謝罪に寄越したというわけだ。
しかし、一国の王子が事前の根回しもなしに大国へ押し掛けるなど、外交上の無礼も甚だしい。
「追い返そう。今の君があんな男の顔を見る必要はない」
ヴァレリウス様が不快そうに言い捨てたが、私はそっと彼の手を取り、首を振った。
「いいえ、ヴァレリウス様。お会いしましょう。彼がどれほど滑稽な顔で私の前に現れるのか……少しだけ、興味がありますわ」
「……君がそう望むなら。だが、少しでも不快な思いをしたら、一秒で首を刎ねるからな」
「ふふ、頼もしいですこと」
こうして、私たちは皇帝陛下にも事の次第を伝え、大謁見の間へと向かった。
────
大理石の柱が並び、黄金と鮮やかなタペストリーで彩られたガルディア帝国の『太陽の謁見の間』。
中央の最も高い玉座には、皇帝アレクサンドル陛下。
その一段下、右側の大公の座にはヴァレリウス様が座し、私は彼の隣に用意された美しい彫刻の椅子に腰を下ろしていた。
重厚な扉が開かれ、案内役の騎士に連れられて、数名の男たちが入ってくる。
先頭を歩くのは、見慣れた金髪の青年——ユリアン殿下だった。
しかし、その姿は数日前の卒業パーティーでの輝かしさとは打って変わっていた。
豪奢な礼服は馬車旅の埃で薄汚れ、目の下には深い隈ができている。金糸のような髪もパサパサで、どこか怯えたように視線を泳がせていた。
彼の後ろに続く数名の随員(かつて私を陥れる証言をした取り巻きの令息たちだ)も、一様に顔面を蒼白にしている。
「王国第一王子、ユリアン・フォン・エルメリア殿下。ならびに使節団の皆様方。よくぞ参られた」
皇帝陛下が、威厳に満ちた声を響かせる。
ユリアン殿下はビクッと肩を震わせると、ぎこちなく頭を下げた。
「は、ははっ。ガルディア帝国皇帝陛下におかれましては、ご健勝で……」
そこまで言って、彼の視線が、玉座の隣に座る私を捉えた。
「ア……アウレリア……!?」
ユリアン殿下の目が、限界まで見開かれる。
無理もない。かつて自分の前で地味な色のドレスを着て、徹夜明けの青白い顔で書類と睨めっこをしていた女が、今は最高級のシルクと宝石で着飾り、帝国の大公の隣で、優雅に微笑みを見下ろしているのだから。
「お久しぶりですわね、ユリアン殿下。何日ぶりでしょうか」
私が扇で口元を隠し、冷ややかに微笑むと、殿下はハッとして顔を真っ赤にした。
「アウレリア! 探したぞ! なぜこのような所にいる! 今すぐ荷物をまとめろ、国へ帰るぞ!」
謁見の間が、シンと静まり返った。
帝国の騎士たちも、文官たちも、あまりの狂態に言葉を失っている。
皇帝陛下の御前で、しかも大公の婚約者に向かって、他国の王子が「帰るぞ」と言い放ったのだ。外交問題どころの騒ぎではない。
「……頭でも打ったか、愚物」
ヴァレリウス様が、地を這うような低い声で呟いた。その手は、すでに腰の剣の柄に掛かっている。
「アウレリア! 聞こえなかったのか! お前がいなくなってから、王宮はめちゃくちゃだ! 水路は臭いし、金庫の鍵は開かないし、あのクソ親父(国王)は俺を殴るし……! お前がちゃんと引き継ぎをしないからこうなったんだぞ!」
あぁ、本当に。
人間というのは、こうも成長しない生き物なのか。
彼は自分が置かれている状況を、まだ「婚約者同士の痴話喧嘩の延長」程度にしか考えていないらしい。自分が怒ってやれば、私が反省してついてくると思い込んでいるのだ。
「お前が俺に謝罪し、リリアンヌを牢から出すよう父上に懇願するなら、今回の無断欠勤は許してやる。婚約破棄も撤回してやってもいい。だから、さっさと俺の隣に来——」
「黙れ」
ズンッ!!!
ヴァレリウス様から放たれた圧倒的な魔力の圧が、謁見の間を支配した。
ユリアン殿下とその随員たちは、目に見えない巨大な手に上から押し潰されたように、無様に床に這いつくばった。
「ひぃっ……!? な、なんだこれは……!」
「我が愛しき婚約者に対する暴言、万死に値する。貴様ら、自分がどこで、誰に向かって口を利いているのか理解しているのか」
冷酷な黄金の瞳に見下ろされ、ユリアン殿下はガチガチと歯を鳴らした。
「こ、婚約者……? な、何を言っている……アウレリアは、俺の……」
「殿下」
私は、床に這いつくばる彼を見下ろしながら、静かに立ち上がった。
魔力の圧を受けないようヴァレリウス様が私だけを守ってくれているため、私の足取りは羽のように軽い。
「五日前の夜、殿下は皆の前で高らかに宣言なさいましたね。『もはや未来の王妃にふさわしくない。今この時をもって、婚約を破棄する』と」
「そ、それは……ただの勢いで……!」
「私は受諾いたしました。そして、ローゼンベルク家は正式に王国との縁を切りました。現在の私は、ガルディア帝国大公、ヴァレリウス様の婚約者です。殿下が私に命令を下す権利など、ただの一欠片も残ってはおりません」
「う、嘘だ……! アウレリア、お前は俺を愛していただろう!? 俺の気を引くために、こんな帝国まで逃げてきたんじゃないのか!?」
必死に首を振る殿下を見て、私は心の底からの憐憫を覚えた。
「愛? 殿下、あなたは何か勘違いをなさっているようですね」
私は彼に顔を寄せ、氷のように冷たい声で真実を告げた。
「私が愛していたのは、あなたが背負うはずだった『国』と、そこに生きる『民』です。私はただ、無能なあなたを飾り物として玉座に据え、私が実権を握ることで、国を豊かにしようとしていたに過ぎません。……あなた自身には、出会ったその日から、ただの一度も愛情など抱いたことはありませんわ」
「——ぁ」
殿下の顔から、完全に血の気が引いた。
自尊心と虚栄心だけで生きてきた彼にとって、それは何よりも残酷な真実だっただろう。
「な、ならば……王国はどうなる……? お前がいなければ、水路の結界も、魔石の交易も、何も……」
「すべて、終わりです」
私が宣告すると同時に、皇帝陛下が重々しく口を開いた。
「エルメリア王国使節団よ。朕はすでに、貴国とのあらゆる同盟条約、及び不可侵条約の破棄に署名をした」
「なっ……!?」
「さらに、ローゼンベルク公爵家が貴国の王家金庫に融資していた莫大な資金の『即時一括返済』を、帝国軍を以て取り立てる決定を下した。期日は明日だ。返済できぬ場合は、東部の穀倉地帯と王都を帝国の直轄領として差し押さえる」
それは、実質的な『国家の死刑宣告』だった。
「そ、そんな……! む、無理だ、金庫は空なんだ! アウレリア、頼む! お前が皇帝陛下を説得してくれ! お前ならできるだろう!?」
ついに事の重大さを理解したのか、ユリアン殿下は鼻水を垂らしながら、私のドレスの裾にすがりつこうと手を伸ばした。
しかし、その手は私に届く前に、ヴァレリウス様の軍靴によって冷酷に踏み躙られた。
「ぎゃああああああっ!!」
「気安く触れるな。穢らわしい」
悲鳴を上げる殿下を見下ろし、私は最後に、極上の微笑みを浮かべた。
「まだ気が付いていないんですか王子? ——あなたはもう、終わりですよ?」
かつて心の中で呟いた言葉を、今度ははっきりと、彼の耳元で紡ぐ。
ユリアン殿下の瞳孔が開き、口から泡を吹いて、ついに完全に気を失った。
背後にいた随員たちも、あまりの絶望に次々と床に崩れ落ちている。
「衛兵。このゴミ共を王国の国境まで放り投げてこい。死なせるなよ、明日からの借金の取り立てには、王族のサインが必要だからな」
ヴァレリウス様が冷たく命じると、完全武装の帝国騎士たちが無言で彼らを引きずって退室していった。
静寂を取り戻した謁見の間。
私はふうっと息を吐き、扇を閉じた。
「アウレリア。不快な思いをさせたな」
ヴァレリウス様が、心配そうに私の顔を覗き込む。
私は彼に向き直り、満面の笑みを浮かべた。
「いいえ、ヴァレリウス様。とても清々しい気分ですわ。これでようやく、過去の鎖を完全に断ち切ることができました」
王国の滅亡は、もはや避けられない。
彼らは自らの愚かさの代償を、これから何十年もかけて支払い続けることになるだろう。
「そうか。……ならば、これからは私のために、その美しい微笑みを見せてくれ。私の大公妃よ」
「ええ、喜んで。……私を拾ってくださったこと、絶対に後悔させませんわ」
彼が私の腰を抱き寄せ、その温かい唇が私のそれに重なる。
皇帝陛下が「お前たち、せめて自室でやれ」と咳払いをする声が聞こえたが、私たちはしばらくの間、お互いの温もりを確かめ合うように離れなかった。
私、アウレリア・フォン・ローゼンベルクの復讐は、ここに完璧な形で完了した。
明日からは愛する人と共に、この強大で美しい帝国をさらに繁栄させるための、忙しくも甘い日々が待っているのだ。




