第五話 雨の日のアルゴリズム
朝、ソユンが店を開けた。
ドアの上のベルが鳴る。同じ音が、もう何年も鳴り続けている。
雨は降っていなかった。曇り空だった。春先の空気が、少しだけ重かった。
棚の埃を軽く払って、店先の看板を出した。「今日のおすすめ」のチョーク文字を書き直した。古本屋の朝の仕事は、いつも同じ動きの繰り返しだった。
ドアの上のベルが、もう一度鳴った。
ミニョクだった。
「おはようございます」
「早いね」
「……普通です」
ミニョクが棚の前に立った。背中に少しだけ、ぴんとしたものがあった。何かに似ていた。何だろう、と思って、ソユンは思い出した。
——犬が、散歩のリードを持って待ってる時の背中。
ソユンが少し笑った。
「ミニョクくん」
「……はい」
「……来るなら鍵、渡した方がいい?」
ミニョクの手が、棚の本の上で、止まった。
長く、止まった。
「……いただきます」
ソユンが目を細めた。
「冗談だよ」
ミニョクは、しばらく動かなかった。少しして、棚の整理に戻った。
ソユンはカウンターに戻った。インスタントコーヒーの粉を、瓶から匙ですくった。
——いただきますって、本気だった気がする。
そう、思って、ソユンはまた少し笑った。
ミニョクは棚の前で、目を細めていた。
——本気なんですけど。
そう、心の中で言った。誰にも届かない声だった。
☆
管理局の午前。
ドユンは部下を伴って、視察に出ていた。市内の三つの施設を回る予定だった。一つ目は北部の福祉センター、二つ目は中心部の図書館、三つ目は西部の更生施設。
その経路で、ドユンは「少し遠回りになるが、こちらの道で」と指示を出した。
部下が運転している黒い公用車の後部座席で、ドユンは窓の外を見ていた。
部下が、ハンドルを握りながら、独り言のように言った。
「局長、この道、昨日も通りましたよ」
ドユンは前を向いたまま、答えた。
「……交通量の調査だ」
部下が、少しの間、何も言わなかった。それから、頷いた。
「そうですか」
——二日連続で?
そう思ったが、口には出さなかった。
車は路地の入り口を通り過ぎていく。窓の外に、一瞬、古本屋の看板が映った。『記憶の栞』。
ドユンの目は、看板を追わなかった。前を向いたまま、何も見ていなかった、ふりをした。
しかし、看板が視界から消えた後、ドユンは少しだけ、シートに身体を預け直した。
それが、何を意味する動きなのか、ドユンは自分でも分かっていなかった。
☆
昼休み、ドユンは「外で食事する」と部下に告げて、一人で公用車を降りた。
向かった先は、記憶の栞の路地から二筋ほど離れた、小さな公園だった。
ベンチに座った。手にコンビニで買った弁当を持っていた。膝の上で開いた。
弁当の蓋の隣に、書類のファイルがあった。
ドユンはそれを開いた。
『記憶の栞 オ・ソユン(30)』
登記情報、業種、面積、補償金。事務的な情報が並んでいた。文化財指定の検討資料。「再評価」のフラグ。
風がページをめくった。次のページにいった。次の次。
ドユンの目は、文字を追っていなかった。
弁当の蓋は、開いたままだった。一口も食べていなかった。
ふと、ドユンは自分に問いかけた。
——何を確認しているんだ、俺は。
その問いに、答えはなかった。
ドユンは弁当の蓋を、静かに閉じた。書類のファイルも閉じた。
立ち上がった。食べないまま、ベンチを離れた。
公園の出口で、振り返らなかった。
☆
午後、記憶の栞。
突然、雨が降り始めた。春先の雨だった。冷たくはないが、しつこい。窓を打つ音が、店の中に響いてきた。
ソユンが顔を上げた。
「……あれ」
ミニョクが棚の前で振り返った。
ソユンは天井を見ていた。店の奥、棚の上の方の天井に、水滴が垂れてきている。
「やっぱり」
ソユンが立ち上がって、店の奥に向かった。古いバケツを探していた。カウンターの下、棚の隙間、それから、奥の倉庫。
ミニョクも棚から離れて、ソユンを目で追った。
少しして、ソユンが古いバケツを抱えて戻ってきた。錆びかけた金属のバケツ。底にうっすらと、過去の水跡が残っていた。
水滴が落ちる位置に、ソユンがバケツを置いた。
「毎年この時期、ここだけ漏るんだよね」
ミニョクが天井を見上げた。
「……修理は?」
「業者に頼むと高くて。来月の売り上げ見てから」
ソユンが少し笑った。慣れた口調だった。
ミニョクは、天井を見ていた。それから、バケツの位置を、わずかにずらした。水滴が、バケツの真ん中に落ちるようになった。
ソユンは、その動きを見ていなかった。カウンターに戻っていた。
ミニョクは、しばらく天井を見上げていた。
——三秒で直せます。
そう、心の中で言った。
——でも、僕がここで「直せる」と言うのは、変だ。
——僕は、ただの古本好きの客で、ありたい。
——僕の正体を、先生に、知られたくない。
ミニョクはバケツの位置から、目を離した。
棚の整理に戻った。
雨音が、まだ続いていた。
☆
夕方、雨が小降りになってきた。
ソユンは郵便を出すために、店を一度離れることにした。傘を持って、店のドアを開けた。
通りに出ると、軒下で老婆が困っているのが見えた。買い物袋を抱えて、傘を持っていない。雨が、軒の隙間から、老婆の白い髪に降りかかっていた。
ソユンは立ち止まった。
それから、老婆に近づいた。
「これ、使ってください」
自分の傘を、差し出した。
老婆が顔を上げた。少し驚いた目だった。
「お嬢さんが濡れるよ」
「私、すぐそこの店なので」
ソユンが笑った。老婆が傘を受け取った。少し遠慮しながら。
ソユンが店に戻ろうとして、振り返った。老婆は傘を持ったまま、戸惑って立っていた。
「返さなくていいですよ」
ソユンが言った。
「誰かに渡してください。また濡れている人がいたら」
老婆が、しばらくソユンを見ていた。
それから、頷いた。
「ありがとう」
ソユンは雨の中を、店まで小走りで戻った。
肩が少し濡れていた。シャツの上から、雨水が滲んでいた。
店のドアを開けて、中に入った。ベルが鳴った。
ミニョクが棚の前から振り返った。ソユンを見て、少しの間、止まった。
「……傘」
「あげちゃった」
「……」
ソユンがタオルを取って、肩を拭いた。
ミニョクが、コートのポケットからハンカチを出して、差し出した。
「これも、使ってください」
「ありがとう」
ソユンがハンカチを受け取った。古いハンカチだった。何度も洗って、少し色が褪せていた。
ソユンは少しの間、それを見た。
「ミニョクくん」
「はい」
「ハンカチ持ってる男の人、初めて見た」
「……普通です」
「いまどき、ティッシュもホログラム端末から出るのに」
「……」
ミニョクが、少しだけ、目を細めた。
ソユンが少し笑った。それから、ハンカチで髪の先を拭いた。
☆
夕方の管理局。
ミニョクが自分のデスクで、ホログラムスクリーンを開いていた。最高権限のIDで、別のシステムにアクセスしている。
『建築修繕補助申請』
書類のフォームが空中に展開されていた。ミニョクの指が、フォームの各項目を埋めていく。申請者名:オ・ソユン。物件:記憶の栞。修繕箇所:屋根の防水補修。理由:老朽化による雨漏り。緊急度:中。
セラが、横の通路を歩いていた。
足を止めた。
「カン主任」
ミニョクが顔を上げなかった。
「……ああ」
「建築修繕補助申請のフォーム、なぜ開いているんですか」
「業務の効率化を研究している」
セラが画面を覗き込んだ。
「路地裏の古本屋向けに?」
「……小規模店舗の現状調査だ」
セラが、少しの間、ミニョクの顔を見ていた。
ミニョクが、申請ボタンを押した。
セラが、独り言のように言った。
「毎回、理由が違いますね」
ミニョクは何も答えなかった。画面を閉じた。
セラが歩き出した。少し離れたところで、振り返らずに言った。
「補助申請、通すには、市の修繕担当部署の承認が必要です」
「……」
「セキュリティチェックの方は、私が見ておきます」
ミニョクの手が、少し止まった。
セラは振り返らなかった。
「失礼します」
去った。
ミニョクは、しばらく、その背中を見ていた。
——気をつけてください、と言われた、あの夜から。
——セラは、止めないと、決めたんだ。
ミニョクはホログラムスクリーンを閉じた。
☆
夜、閉店後の記憶の栞。
ミニョクが棚の整理を手伝っていた。ソユンが奥の倉庫から、古い段ボールを引きずってきた。
「ちょっと手伝って」
「……はい」
ミニョクが段ボールの片側を持った。カウンターの近くに運んだ。
ソユンが蓋を開けた。古い本が詰まっていた。表紙がかすれているもの、背表紙が剥がれかけているもの、紙の色が変わっているもの。長い時間を経た本たちだった。
ソユンが、一冊ずつ取り出して、テーブルに並べていく。
その中に、薄い絵本が一冊あった。
ソユンが、手を止めた。
「……懐かしいな」
ミニョクが、ソユンの手元を見た。
ソユンが手にしているのは、絵本だった。表紙の絵が少しかすれている。同じシリーズの、別の一冊。
ミニョクの手が、止まった。
「……」
ソユンが、絵本を開いた。ページをめくる。一枚、また一枚。
「子どもの頃、よく読んでた本」
ミニョクは、ソユンの横顔を見ていた。
「廃校の図書室に、あって」
ソユンが、独り言のように続けた。
「あの頃、ひとりでよく読んでたんだよね」
ミニョクの心臓が、一度、強く打った。
——あの頃。
——廃校の図書室。
——ひとりで。
ミニョクが、口を開いた。
「……ひとりで」
「うん」
ソユンがページをめくった。絵が懐かしそうな目で見ていた。
「友達もいなくて、よく図書室にこもってた。中学生の頃」
ミニョクは、何かを言いかけて、やめた。
少しの間、何も言わなかった。
それから、もう一度、口を開いた。
「……誰かに、読んであげたりは?」
ソユンが、顔を上げた。
「読んであげる?」
「……たとえば、ひとりで来てる、子どもとか」
ソユンが、しばらく考えた。
絵本のページに、視線を落とした。
「どうだろう」
「……」
「覚えてないな」
ソユンが少し笑った。
「子どものころのことって、細かいところ忘れちゃうよね」
ミニョクの手が、棚の本に伸びていた。一冊、棚に戻した。
顔は、ソユンの方を向いていなかった。
——覚えていない。
——僕のことを、覚えていない。
——あの夏、毎日、隣に座っていた男の子のことを、覚えていない。
——「先生」と呼んだことも、覚えていない。
ミニョクは、もう一冊、本を棚に戻した。
それから、もう一冊。
声を出さなかった。表情も変えなかった。
ソユンは絵本を、テーブルの上に置いた。それから、また段ボールから次の本を取り出した。
ミニョクが、棚の前で、目を細めていた。
——それでも。
——今、ここにいます。
そう、心の中で言った。
——覚えていなくても、今、隣にいる人として、僕は、ここにいます。
夜が、まだ続いていた。雨音は、もう聞こえなくなっていた。
☆
その夜、ドユンは一人で歩いていた。
公用車を断った。「歩いて帰る」と部下に告げて、管理局を出ていた。
ソウルの夜の街は、ホログラム広告で青白く光っていた。「あなたの運命の人、教えます」「今日の適合率チェック」。光が雨上がりの石畳に映り込んでいた。
ドユンは、無意識のうちに、ある路地に向かっていた。
記憶の栞の前で、足が止まった。
電気は、消えていた。閉店していた。
ドユンはしばらく、その看板を見ていた。古い木の看板。「記憶の栞」。雨に濡れて、文字が少し光っていた。
——……閉まっている。
そう、思った。
ドユンは踵を返した。
三歩、歩いた。
止まった。
振り返った。
看板は、まだそこにあった。
ドユンは、また振り返って、歩き出した。
スマートフォンが震えた。部下からだった。
「局長、お迎えは——」
「……歩いて帰る」
電話を切った。
ドユンは、ゆっくりと歩いた。革靴の音が、夜の路地に響いていた。
頭の中で、声が鳴っていた。
——なぜ、ここに来た。
その問いに、答えはなかった。
——閉まっていることを、確認するためか。
——閉まっていなかったら、入ったのか。
——入って、何をしたんだ、俺は。
ドユンは大通りに出た。タクシーが何台か通り過ぎていった。
「車をお呼びしましょうか」
スマートホログラム街灯が、ドユンに声をかけてきた。AI音声だった。
ドユンは、首を振らなかった。声も出さなかった。
ただ、まっすぐ歩き続けた。
☆
翌朝。
ソユンが店を開けた。
ドアの上のベルが鳴る前に、軒下で何かに気づいた。
天井に、メモが挟まっていた。職人のものらしかった。
『補助申請が通りました。施工済みです。——市の修繕担当より』
ソユンは、しばらくそのメモを見ていた。
——施工済み。
——夜のうちに、誰かが、来た。
——でも、私、申請、出してないよ。
ソユンは、店の中に入った。天井を見上げた。先日の雨漏りの場所。少し新しい防水材が塗ってあった。バケツは置きっぱなしだった。バケツの中の水は、もう、誰かが捨てていた。
ソユンは、しばらく動かなかった。
ドアの上のベルが鳴った。
ミニョクが入ってきた。普通の顔だった。
「おはようございます」
ソユンが振り返った。
「ミニョクくん」
「……はい」
「今日、晴れますね」
ミニョクが、わずかに首を傾けた。
「……はい」
ソユンが、しばらくミニョクを見ていた。
それから、少しだけ笑った。
「……犬みたいだね」
ミニョクが、目を細めた。
「……」
ソユンは、それ以上、何も聞かなかった。カウンターに戻って、インスタントコーヒーを淹れ始めた。
ミニョクは棚の前に立った。背中を向けたまま、少しだけ、目を細めていた。
——最高の褒め言葉です。
そう、心の中で言った。
☆
午後の管理局。
ドユンは執務室の窓辺に立っていた。
ある一定の方向を、しばらく見ていた。
セラが書類を持って入ってきた。書類をデスクに置く。ドユンは振り返らなかった。
セラは少しの間、ドユンの背中を見ていた。
「……局長」
「ああ」
「先ほどから、三十分、同じ方向を見ています」
ドユンが、わずかに身体を動かした。
「考えごとだ」
「そうですか」
セラは、それ以上、何も言わなかった。
書類の確認だけして、出ていった。
廊下に出てから、セラは独り言のように言った。
——あの方角は。
——路地の方だ。
セラは少し首を傾けた。
——いえ、業務だ。
そう、自分に言い聞かせた。
廊下を歩き続けた。
☆
夕方、記憶の栞。
ソユンが、絵本をもう一度、手に取っていた。昨夜の絵本だった。
ミニョクがカウンターの椅子に座って、別の本を読んでいる。
ソユンがページをめくりながら、独り言のように言った。
「ねえ」
ミニョクが顔を上げた。
「はい」
ソユンが、絵本のページに視線を落としていた。
「あの男の子、今どこにいるんだろうね」
ミニョクのページをめくる手が、一瞬、止まった。
「……」
ソユンが顔を上げて、ミニョクを見た。
「あの男の子?」
ソユンが少し笑った。
「廃校の図書室にね、毎日来てた子がいたの」
「……」
「私が中学生の頃。私はね、ひとりで本を読んでた。その子も、いつも隅の机にひとりで座ってた」
ソユンが、絵本のページに、また視線を戻した。
「……覚えてた」
ミニョクが、口の中で、小さく言った。
ソユンが顔を上げた。
「え?」
「……いえ」
ミニョクは、首を振った。
ソユンが、少し首を傾けて、また絵本を見た。
「読み聞かせをね、してあげてたんだ。気がついたら。誰に頼まれたわけでもないんだけど」
ミニョクの目が、わずかに見開いた。
「あの子、なんていう名前だったかな」
「……」
「思い出せないな」
ソユンが少し笑った。
ミニョクは、本を閉じた。
ゆっくりと、口を開いた。
「……近くにいると、思います」
ソユンが、顔を上げた。
「うん?」
ミニョクが、ソユンの目を、見ていた。
「あの男の子は……たぶん、近くに、います」
ソユンは少しの間、何も言わなかった。
それから、頷いた。
「そっか」
それだけだった。
ソユンは絵本を閉じた。テーブルの上に置いた。
ミニョクは、自分の本を、また開いた。文字は、目に入らなかった。
夕方の光が、店の中で、少しずつ角度を変えていた。
雨は降らなかった。




