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第六話 記憶の栞、封鎖危機

朝の空気が、まだ冷たかった。


ソユンが店の前で鍵を出した。指先がかじかんでいた。春先の朝は、思っているより冷える。


扉の隙間に、白い封筒が挟まっていた。


ソユンは指でそれを抜いた。封筒の紙が乾いていて、少しざらついた。区役所の朱印が、表に押してあった。


『建築・都市再整備法 第十七条に基づく立入検査通知』


——また。


胸の中で、短く息が落ちた。


封筒を持ったまま、店に入った。古い木の床が、いつものように軋んだ。古紙の匂いが、朝の空気の中で目を覚ましたばかりだった。


カウンターに封筒を置く。鞄を置く。コーヒーを淹れる前に、もう一度、封筒を見た。


封を切った。


『標記建築物について、建築・都市再整備法に基づく増築部分の許可申請の漏れが確認されました。是正措置が完了しない場合、当該建築物の使用停止を命じる場合があります』


ソユンは書類を、二回読んだ。


それから、一度、書類を裏返した。何も書いてなかった。表に戻す。判子の朱色が、新しかった。


カウンターの椅子に座った。座面が冷たかった。


——立ち退きが止まったと思ったら、今度はこれ。


少しだけ、笑い方が変だった。


窓の外で、路地の石畳が朝の光を返していた。雨は降っていない。



管理局の朝。


セラが書類を持って、ドユンの執務室に入った。


「失礼します」


「ああ」


「先日ご報告した路地裏店舗の件です」


ドユンが顔を上げた。


「建築記録を照合したところ、再整備法上の増築部分に許可申請の漏れが確認されました」


セラが書類をデスクに置いた。紙が革張りのデスクに触れて、乾いた音がした。


「手続きの問題か」


「適法に処理すれば問題ありません。ただ、放置すれば封鎖要件に該当します」


ドユンの指が、書類の上で、わずかに動いた。


「担当部署に回せ」


「はい」


セラが書類を戻そうとした。ドユンが、もう一行、読んだ。


「処理担当者は誰だ」


「区役所の建築指導課です。通常通り」


「そうか」


セラが少しの間、ドユンを見た。


「決裁、お願いします」


「あとで見る」


セラは書類を、デスクの端に置き直した。ドユンの手元から、少し離れた位置に。それから、退室した。


ドアが閉まる音がした。


ドユンは書類に手を伸ばさなかった。


担当部署に回せ、と言った。回せば、手続き通りに進む。進めば、店が封鎖される。


ドユンは窓の外を見た。


朝の街が動いていた。ホログラム広告が、青白く流れていた。「あなたの運命の人、教えます」。


書類は、デスクの端に置いたままだった。



記憶の栞。


ドアの上のベルが鳴った。ミニョクが入ってきた。


ソユンはカウンターに座っていた。コーヒーは、淹れていなかった。


「おはようございます」


「おはよう」


ミニョクが棚の前に立とうとして、止まった。ソユンの手元の封筒を見た。


「何ですか、それ」


ミニョクが歩み寄った。


「封筒」


「……」


「役所から」


ミニョクが、棚の前で止まった。


ソユンが封筒を、カウンターに置いた。


「ミニョクくん、来てくれてよかった。コーヒー、淹れてないの。今日」


ミニョクがカウンターに近づいた。封筒の朱印を、見た。


「立入検査通知」


「うん」


「再整備法の」


「増築なんてしてないんだけどね」


ソユンが少し笑った。


ミニョクが封筒を、もう一度見た。それから、ソユンを見た。


「いつ届きましたか」


「今朝」


「扉の隙間に」


「うん」


ミニョクの目が、わずかに細くなった。


「手続きを確認します。少し時間を」


「ミニョクくん」


「はい」


ソユンが立ち上がった。コートを羽織り始めた。袖を通す。襟を直す。指先が、まだ少し冷たかった。


ミニョクが、ソユンを見た。


「どこへ」


「役所」


「今からですか」


「うん」


「待ってください。手続きを確認してから——」


「ミニョクくんが確認してから、って言ってる間にまた書類が来る」


ミニョクの手が、止まった。


ソユンが、コートのボタンを留めながら、ミニョクの方を見た。


「私が行く」


ミニョクは答えなかった。


「自分の店のことだから」


ミニョクが、何かを言いかけた。言葉が、出てこなかった。


ソユンが鞄を肩にかけた。封筒を、鞄の中にしまった。


「店、開けないで出ちゃうけど。ミニョクくん、いる?」


「います」


「ありがとう」


ソユンがドアに向かった。ベルが鳴った。


ドアが閉まる前に、ソユンが振り返った。


「コーヒー、淹れていいよ。インスタントの瓶、いつものとこ」


ドアが閉まった。ベルが、もう一度鳴った。


ミニョクは、しばらく、ドアを見ていた。


先生は、いつも僕より先に動く。


カウンターに置かれた、封筒の角の朱印が、薄く残っていた。



区役所の建築指導課。


ソユンは番号札を取った。プラスチックの札が、指の腹にひんやり当たった。


椅子に座る。隣で、年配の男性が職員と話していた。「だからね、それは三十年前の図面で——」「お父様、それは記録が——」。声の高低が、規則的に上下していた。


蛍光灯の白い光が、書類の山と人の頭頂を平らに照らしていた。役所特有の、紙の乾いた匂いがした。


二十分待った。


「七十二番の方」


ソユンが立ち上がった。窓口に向かった。


職員は四十代の男性だった。眼鏡の奥の目が、書類を見ていた。ソユンの顔は、見ていなかった。


「『記憶の栞』のオ・ソユンさんですね」


「はい」


「立入検査通知の件で」


「はい」


職員が、画面を操作した。空中にホログラムのファイルが展開した。光の粒子が、職員の指先で組み立てられていく。


「申請漏れの事実は、記録上、確認されています」


「父が始めた店で、もう三十年です。増築の記憶もありません」


「記録上は、増築部分があると」


「どこの部分ですか」


職員が画面を動かした。図面が浮かんだ。店の奥の、倉庫部分が赤くなっていた。


ソユンが、画面を見た。


「あそこは、父の時代から、ありました」


「申請記録がないんですよ」


ソユンは、少しの間、画面を見ていた。


「三十年前は、申請が必要じゃなかったんじゃないでしょうか」


職員の手が、画面の上で、止まった。


「と、いいますと」


「建築・都市再整備法って、最近できた法律ですよね。父が店を始めたのは、その前です」


職員が、ようやくソユンを見た。眼鏡の奥の目に、わずかに困った色があった。


「現行法では、当時の建物も再確認の対象になっておりまして」


「当時はなかった法律で、今、申請漏れと言われても、父も困ると思います」


ソユンは、責めていなかった。ただ、聞いていた。


職員が、画面を、もう一度見た。


「既存不適格物件としての扱いになる可能性があります」


「それは、どういう扱いですか」


「法施行前から存在する建物は、申請義務の遡及対象外とする規定が、別にあります」


「じゃあ、申請漏れではないんじゃないでしょうか」


職員が、答えなかった。画面のファイルを、もう一度操作した。古い登記情報を、呼び出していた。


「お父様のお名前、オ・マンソク様、ですか」


「はい」


「登記、確かに、再整備法施行の十二年前です」


職員が、画面から目を上げた。困った顔は、もう、なかった。


「これは、こちらの記録の側で、確認漏れだった可能性があります」


「そうですか」


「ただ、是正措置の通知が出ている以上、上位機関への照会が必要です」


「どれくらい、かかりますか」


「通常、三週間から四週間——」


「三週間後には、検査が入ります」


「ええ」


「その前に、動ける方法は、ありませんか」


職員が、少しの間、ソユンを見た。


「ご相談を、上司に確認してきます」


「お願いします」


職員が立ち上がった。奥の部屋に入っていった。少し急ぎ足だった。


ソユンは窓口の前に立っていた。隣の窓口で、別の人が別の手続きをしていた。子供がぐずる声がしていた。母親が小声で「もうちょっとだから」と言っていた。


ソユンは、息を一度、ゆっくり吐いた。


カウンターの縁に置いた手が、少しだけ冷たかった。



廊下を、革靴の音が歩いていた。


四階の廊下。建築指導課のある階だった。書類のファイルを手に持っていた。


ドユンは、朝、デスクの端に置いた書類を、結局、自分で持ってきていた。


担当部署に回せ、と言ったのは、自分だ。自分で動けば、回せという指示と矛盾する。回せば、店が封鎖される。封鎖されれば、彼女が困る。


なぜ、それを止めたい。


ドユンは廊下を歩きながら、自分に問いかけていた。答えは、出ていなかった。


廊下の角を曲がった。


人がいた。


ソユンだった。窓口の前に立っていた。横顔だった。書類を、手に持っていた。


ドユンの足が、止まった。


ソユンが顔を上げた。ドユンに気づいた。


少しの間、二人とも何も言わなかった。


ソユンが、口を開いた。


「局長?」


ドユンが、一歩近づいた。革靴の音が、タイルに乾いた響きを返した。


「オ・ソユンさん」


「なぜ、ここに」


「手続きに不備があると聞いた」


ソユンが、首を傾けた。


「局長が、直接?」


「決裁の確認だ」


ドユンが、書類のファイルを、軽く持ち直した。


「立入検査通知の件か」


「はい。たぶん、既存不適格物件で、申請は不要だったみたいです」


ドユンが、わずかに、目を上げた。


「……自分で、調べたのか」


「いえ、職員さんと話してたら、そういう話になって」


ドユンが、少しの間、ソユンを見ていた。


「是正期間の特例申請がある」


ソユンが、ドユンを見た。


「特例申請」


「既存不適格の確認には時間がかかる。その前に検査が入る恐れがある。特例申請を出しておけば、検査自体が止まる」


「それを、教えてくれるんですか」


「指定の書式を、私が窓口に渡しておく。三営業日で処理できる」


ソユンが、少しの間、ドユンを見ていた。


「なぜ、それを知っているんですか」


ドユンが、視線を、わずかに逸らした。


「業務上の知識だ」


ソユンが、少しだけ笑った。


——この人、いつもこうやって、理由を言わない。


職員が奥から戻ってきた。書類を抱えていた。


「お待たせしました。上司に確認してきまし——あ、局長」


職員が、ドユンに気づいた。少し慌てて、頭を下げた。


「ご苦労さま」


ドユンが、職員に書類のファイルを渡した。


「文化施設特例申請、四号書式。この案件に適用してくれ」


「はい」


「処理期限は三営業日。私が確認する」


「承知しました」


職員が、書類を持って、また奥に戻った。


廊下に、ソユンとドユンが残った。



廊下の窓から、昼の光が射していた。床のタイルに、長方形の光が落ちていた。窓辺に、古い書類の埃の匂いが薄く溜まっていた。


ソユンが、書類を鞄にしまった。


「ありがとうございました」


「業務だ」


「でも、なんで助けてくれたんですか」


ドユンが、少しの間、答えなかった。


「合理的な判断だ」


「合理的、ですか」


「文化施設の保護は、行政の責務に含まれる」


ソユンが、ドユンを見た。


「それ、本当にそう思ってますか」


ドユンが、答えなかった。


ソユンは、責めていなかった。問い詰めてもいなかった。ただ、聞いていた。


廊下に、人の足音が遠くで響いていた。


ソユンが、少し首を傾けた。


「局長って、笑わないんですね」


ドユンが、ソユンを見た。


「笑う必要がない場面だ」


「笑える場面かどうかって、論理で決めるんですか」


ドユンが、口を開きかけた。


開きかけて、止まった。


何かを言おうとして、言葉が、見つからなかった。


長く、見つからなかった。


ソユンは急がなかった。答えを待っていたわけでもなかった。窓の光が、ドユンのスーツの肩に、薄く当たっていた。


三秒。ドユンが、視線を窓の方へ動かした。


「……」


「すみません、変なこと聞いて」


ソユンが、軽く頭を下げた。


「いえ」


「お忙しいでしょうから」


「ああ」


ソユンが、踵を返した。少し歩いて、振り返った。


「局長」


「ああ」


「インスタントコーヒー、また飲みに来てください」


ドユンが、少しの間、何も言わなかった。


「検討する」


ソユンが、少し笑った。


「検討、ですか」


「検討だ」


ソユンが、頷いた。それから、廊下を歩き出した。柔らかい靴音が、タイルに響いて、消えていった。


ドユンは、しばらく動かなかった。


ソユンが角を曲がって、見えなくなってから、ドユンは初めて、息を吐いた。


笑える場面かどうかって、論理で決めるんですか。


論理で決めてきた。三十五年、ずっと。それの、何が、悪いんだ。


自分に問いかけて、答えがなかった。


ドユンは廊下を歩き出した。革靴の音が、タイルに、重く響いた。



管理局の昼。


セラが廊下を歩いていた。資料を抱えていた。


四階の渡り廊下で、ドユンと擦れ違った。


「局長、外出されていたんですか」


「ああ」


「区役所、ですか」


ドユンが、セラを見た。


「どうして分かる」


「服に、四階の窓側のあの埃が」


セラがドユンの肩を、目で指した。窓辺に古い書類が積まれている、あの部屋特有の、白い粉のような塵だった。


ドユンが、自分の肩を見た。少しだけ、白かった。


「……」


「区役所まで局長が出向く案件は、近年、私の記録ではゼロ件です」


「記録の更新だ」


「そうですか」


セラが、軽く頷いて、通り過ぎようとした。


擦れ違いざまに、ドユンを見上げた。


「局長」


「ああ」


「お早いお戻りで」


セラは廊下を歩き続けた。


ドユンは、しばらく立っていた。


セラの背中が、廊下の奥で、エレベーターの前に消えた。


判断が、速すぎる。


朝、書類を回せと指示したのは局長だ。その日のうちに、局長自身が四階に行っている。いつから、局長は、こういう動き方をするようになった。


セラは、エレベーターのボタンを押した。


——いえ、業務だ。


エレベーターが開いた。セラが乗り込んだ。階数のボタンを押した。扉が閉まる前に、もう一度だけ、廊下の方を見た。


ドユンは、まだ、そこに立っていた。



夕方の記憶の栞。


ソユンが店に戻ったのは、四時を過ぎてからだった。


役所の帰り、郵便局に寄って、八百屋に寄って、夕方の路地を歩いて帰ってきた。封筒は、鞄の中にまだ入っていた。中の書類は、もう、怖くなかった。


春先の夕方の風が、髪の先を少しだけ動かした。


ドアを開けた。ベルが鳴った。


ミニョクが、棚の前にいた。立っているわけでも、座っているわけでもなく、本を一冊、手に取って、戻すところだった。


「ただいま」


「おかえりなさい」


カウンターの上に、マグカップが二つ、置いてあった。一つは空。一つには、まだコーヒーが少し残っていた。湯気は、もう、立っていなかった。


「コーヒー、飲んだんだ」


「はい」


「私の分も淹れてくれた?」


「淹れました。冷めました」


「淹れ直してくれる?」


「はい」


ミニョクがカウンターの中に入った。インスタントの瓶を開ける音。匙が瓶の縁に当たる、小さく乾いた音。湯を注ぐ音。湯気が、夕方の光の中に立った。


ソユンは、椅子に座った。鞄を膝の上に置いた。封筒を取り出して、カウンターに置いた。


ミニョクが、湯を注ぐ手を、止めなかった。目だけが、封筒の方に向いていた。


ソユンが、口を開いた。


「局長に会った」


ミニョクの手が、止まった。


「会いに行ったんですか」


「行ってない。廊下で会った」


「廊下で」


「うん。たまたま」


ミニョクが、また、湯を注いだ。


「何を言われましたか」


「特例申請を使えば三日で処理できるって」


ミニョクは答えなかった。


「教えてくれた。それで、もう、職員さんが書類出してくれて、たぶん、来週には終わる」


「そうですか」


ミニョクがマグカップを差し出した。


ソユンが両手で受け取った。温かかった。


少しの間、何も言わなかった。


ソユンが、コーヒーを一口飲んだ。


「ミニョクくん」


「はい」


ソユンが、ミニョクを、まっすぐ見た。


「先に調べてたでしょ」


ミニョクの手が、棚の上で、止まった。


「立入検査の話、私が言う前に、もう知ってた」


「封筒を見たので」


「封筒見ただけじゃ、増築部分のこと、分からないよね」


ミニョクが、視線を、わずかに下げた。


「業務上の知識を——」


「局長と同じこと言ってる」


ミニョクが、ソユンを見た。


ソユンも、ミニョクを見ていた。


二人とも、しばらく、何も言わなかった。


ソユンが、少し笑った。


「二人とも、理由を言わない」


ミニョクが、目を細めた。


見抜かれている。それが、こんなに嬉しいとは、思わなかった。


ソユンがコーヒーを飲んだ。マグカップを両手で包んでいた。温度が、手のひらに伝わってきた。


ミニョクは棚の前に戻った。背中を向けたまま、目を細めていた。


夕方の光が、窓から差し込んでいた。本の背表紙が、少しだけ、金色になっていた。



——その夜。


管理局のフロアには、ほとんど人がいなかった。


ミニョクは、自分のデスクではなく、奥の端末を選んだ。最高権限のIDでログインする。光の粒子が空中に広がる。


ミニョクは、システム使用ログを開いた。


ドユンの名前で検索した。


過去一ヶ月の使用履歴が、表示された。


短いリストだった。ドユンはシステムをほとんど使わない。


リストの中に、一件、検索結果のログがあった。


朝の九時十二分。検索対象——オ・ソユン。


ミニョクの指が、止まった。


検索結果の数字を、画面に呼び出した。


光の粒子が集まってきた。


98.9%


金色の光が、暗いフロアを、淡く照らした。


ミニョクは、長い間、画面を見ていた。


少しして、画面を閉じた。粒子が霧散した。


立ち上がった。


窓の外に、ソウルの夜景が広がっていた。ホログラム広告が、青白く光って流れていた。「あなたの運命の人、教えます」。


ミニョクは、その光を、見ていた。



路地裏の夜。


管理局を出て、ミニョクは大通りを歩いていた。革靴の音が、石畳に響いていた。


局長は、なぜあそこにいた。業務なら、部下を動かせばいい。書類は朝、セラから上がっている。担当部署に回せと指示すれば終わる話だ。わざわざ、四階まで自分で行く理由は、業務上、ない。


ミニョクは大通りから、横道に入った。記憶の栞のある路地ではなかった。少し離れた、別の路地だった。古い街灯が、まばらに灯っていた。電球の橙色の光が、石畳の角を丸く照らしていた。


98.9%。


それで、分かった。局長がここに来た理由が、分かった。


ミニョクの手が、コートのポケットの中で、わずかに握られた。


でも、先生は。


数字で人を決める人じゃない。スマートウォッチをしていない。測りたくないと、言っていた。機械に決められたくないと、言っていた。


ミニョクは、立ち止まった。


街灯の光が、足元に、円い影を落としていた。


98.9%は、局長にとっては、武器になる。でも、先生には、届かない。先生は、その数字を聞いても、選ばない。先生が選ぶのは、数字じゃない。


ミニョクは、目を細めた。


先生の隣は。僕が決めます。


風が、路地を抜けていった。少しだけ、冷たかった。春先の夜の風だった。コートの裾が、わずかに揺れた。


ミニョクは、また歩き出した。革靴の音が、石畳に、規則的に響いた。


街灯の光が、ミニョクの背中から離れていった。

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