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第四話 先生と呼ばれた日

朝の光が、本の背表紙を斜めに照らしていた。


ミニョクはいつものように、棚の前に立っていた。手に古い文庫本を持っている。ソユンが「整理を手伝ってほしい」と頼んだのは昨日のことだった。


ミニョクは店の常連になっていた。客として来るのではなく、開店前の時間に手伝いに来る。賃金は出ない。「コーヒー一杯と、本を見ていく権利」がミニョクの報酬だった。


ソユンはカウンターの奥で、別のお客が置いていった本を確認していた。


棚の奥、誰の手も届いていなかった場所に、ミニョクの指が触れた。


薄い本だった。


ミニョクは引き出した。


表紙の絵が、かすれていた。


——


ミニョクの手が、止まった。


長く、止まった。


知っている本だった。十五年前、図書室で読み聞かせてくれた本と、同じシリーズの一冊。違うタイトル、違う絵。でも、同じシリーズだとすぐに分かった。装丁。紙の質感。インクの色。


ページをめくる手が、わずかに震えた。


——ここにある。


——この、シリーズの本が、ここにある。


ミニョクは本を胸の前に抱えた。


呟いた。


「……先生」


声に出していた。出すつもりはなかった。


ソユンが顔を上げた。


「先生?」


ミニョクが、我に返った。


「……」


「ミニョクくん、今、先生って」


ミニョクは何も言えなかった。本を胸に抱えたまま、ソユンを見ていた。


ソユンが少し首を傾けた。


「この本、いくらですか」


ミニョクが、財布を出した。


手が、少し震えていた。


「……5,000ウォンです」


ソユンが言った。ミニョクが財布から紙幣を出した。震える指で、カウンターに置いた。


ソユンが受け取った。


「ありがとう」


ミニョクは本を、コートの内ポケットにしまった。一冊目の絵本と、二冊が、コートの内側で重なった。


ソユンはミニョクを見ていた。


——先生。


——なんで、私に向かって、先生って。


その問いを、ソユンは口に出さなかった。



その後、二人は何も言わなかった。


ミニョクは棚の整理を続けた。ソユンはカウンターの本を続けた。


時々、目が合った。同時にそらした。


朝の光が、店の中で少しずつ角度を変えていった。


ソユンはコーヒーを淹れた。マグカップを二つ、カウンターに置いた。ミニョクが棚の前から戻ってきて、一つを受け取った。


両手で、包んだ。


ソユンはそれを見ていなかった。自分のカップに視線を落としていた。


「ミニョクくん」


「……はい」


「今日、夕方、うちの食堂で食事しない? 父が、会いたいって」


ミニョクの手が、止まった。


「……お父さん」


「うん。よく来るお客さんって、ミニョクくんのこと言ったら、一度連れてきなさいって」


「……」


ソユンが少し笑った。


「断ってもいいよ」


「……行きます」


「そう」


それ以上、何も聞かなかった。ソユンが店の奥の整理に戻った。


ミニョクはコーヒーカップを両手で包んだまま、しばらく動かなかった。


——食堂。


——お父さん。


——家族の、食卓。


ミニョクは目を細めた。



管理局の午後。


セラがドユンの執務室に呼ばれていた。


ドユンは椅子に座っていた。デスクの上にホログラムスクリーンが展開している。立ち退き対象リストの第三フェーズの詳細だった。


「セラ」


「はい」


「この件、進捗を確認している」


「記憶の栞、ですか」


「ああ」


ドユンが画面を一つ操作した。新しい項目が表示された。


「立ち退き命令に処理保留のフラグが立っている」


セラが画面を見た。


ドユンが続けた。


「文化財指定の検討資料に『再評価』のフラグ。誰かが、進捗を意図的に遅らせている」


セラは画面を見たまま、答えなかった。


「システム上の操作履歴を追えるか」


「……権限が高すぎて、追えません」


ドユンが顔を上げた。


「俺の権限よりも高い、ということか」


「設計者バックドアの操作だと思われます」


「設計者」


「カン主任しか、行使できません」


ドユンが少しの間、黙った。


セラはドユンの表情を見ていなかった。画面を見ていた。


——局長が、気にしている。


——記憶の栞のことを。


——そして、それを守ろうとしている人物が、管理局内にいる。


セラは、その二つの事実を、心の中で並べていた。


ドユンが画面を閉じた。


「調査しろ」


「……はい」


「セラ」


「はい」


「これは俺の業務命令だ。記録しておけ」


「分かりました」


セラが頭を下げて、執務室を出た。


廊下を歩きながら、セラは独り言のように言った。


——局長と、カン主任。


——一つの小さな古本屋をめぐって、何かが、起こっている。


セラはそう思って、自分でも驚いた。


——いえ、業務だ。


そう、自分に言い聞かせた。


その言い聞かせる声が、自分の中のどこから来ているのか、セラには分からなかった。



夕方、ソユンが店じまいの準備を始めた頃、ミニョクは既に店を出ていた。「先に食堂に行ってる」と言って。


ソユンは看板を片付けながら、路地の方を見ていた。


通りの向こう側で、若い男女がスマートフォンで適合率を確認しながら歩いていた。


「85%だって、悪くないね」


「もっと高い人いるかも」


男が少し傷つく顔をした。女は気づかない。二人は通り過ぎていった。


ソユンは看板を抱えたまま、立っていた。


——あの数字で、二人は何を選ぶんだろう。


少しして、看板を抱えて、店に戻った。


ドアの鍵を閉めた。


路地の奥で、夕方の光が少しずつ赤くなっていた。


ソユンは食堂の方向に歩き出した。



オ家の食堂。


赤い暖簾をくぐる。中は煮物の匂いがした。


カウンター席に、すでにミニョクが座っていた。スーツのままだった。背筋がやけに伸びていた。


スクチャがカウンターの中で、料理を盛り付けている。


「ソユン、遅いわよ」


「ごめんね」


「ミニョクくん、もう三十分前から来てたわよ。早すぎ」


ミニョクが恥ずかしそうに頭を下げた。


「……早く来てしまいました」


スクチャが料理を並べていく。煮物、焼き魚、ナムル、キムチ、味噌汁。テーブルが、すぐに食べ物で埋まった。


ソユンが横の席に座った。


奥から、マンソクが出てきた。エプロンを外しながら、ミニョクの正面の席に座った。


しばらく、何も言わなかった。


五秒。


十秒。


マンソクは、ミニョクの目を見ていた。


ミニョクは視線を下げた。それから、また顔を上げた。マンソクの目と、合った。


マンソクが、ぽつりと言った。


「……いい目をしてるな」


開始一分で、マンソクの目が潤んでいた。


スクチャが横で、味噌汁をかき混ぜながら言った。


「あんた、何で泣いてるの」


「泣いてない」


「泣いてるじゃない」


「目にゴミが入った」


「店の中にゴミなんてないわよ」


「あるんだよ」


スクチャが目を細めた。


「あんた、四十年連れ添ってるけど、ゴミ入った時はもっと痛そうな顔するわよ」


マンソクが咳払いをした。


「煮物、冷めるぞ」


ソユンが横で、少し笑っていた。


ドアの上のベルが鳴った。ハヌルが入ってきた。大学帰りの鞄を抱えている。


「ただいま」


「あら、ハヌル。早かったわね」


「姉ちゃんが男連れてくるって聞いたから」


ソユンが目を細めた。


「誰に聞いたの」


「父さんから」


マンソクが「俺は何も言ってない」と顔を逸らした。


ハヌルがミニョクの隣の席に座った。じろじろと、ミニョクを見た。


ミニョクが少しだけ、視線を下げた。


ハヌルが、開口一番に言った。


「姉ちゃんのこと好きだろ」


ミニョクが、ぴたりと止まった。


「……本が好きです」


ハヌルが目を細めた。


「本が好きな人の顔じゃない」


ソユンが「ハヌル!」と叱った。


スクチャが山盛りのご飯をミニョクの前に置いた。


「ほら、細いんだから食べなさい。うちの子たちも最初はみんなこんな顔してたわ」


ミニョクが固まった。


「……うちの子?」


「そう。もう家族みたいなもんよ」


スクチャが、当たり前のように言った。


ミニョクは、長い間、ご飯を見ていた。


ソユンが横から、煮物を取り分けてミニョクの皿に乗せた。


「食べて」


ミニョクの背筋が、ぴんと伸びた。目が、わずかに大きくなった。何かを言いかけて、やめた。それから、また何かを言いかけて、やめた。


箸を、ゆっくりと取った。


ハヌルが横で、小声で言った。


「見たか今の顔。本が好きな顔じゃないだろ」


ミニョクが、箸を持ったまま、低い声で言った。


「……食事中です」


ハヌルがふっと笑った。


「お、初めて反論したな」


スクチャが「ハヌル、もう」と頭を軽く叩いた。


マンソクは、それをじっと見ていた。


——この男は。


——ソユンのことが、好きだ。


そう、確信した。AIや数字ではなく、自分の目で。


マンソクの目の縁が、また少し潤んだ。


スクチャが横目で見て、味噌汁を一口飲んだ。何も言わなかった。



食事が一段落した頃、マンソクが酒を一口飲んで、誰に言うでもなく漏らした。


「昔は……システムってのは、ろくでもないものだったな」


スクチャの箸が、一瞬止まった。


ハヌルが「父さん、また」と言いかけて、ちらりと母を見て、口を閉じた。


ソユンは黙って食事を続けた。


マンソクは続きを言わなかった。徳利を傾けて、もう一杯酒を注いだ。


しばらくして、マンソクが顔を上げた。今度は、ミニョクの方を見ていた。


「お前さん、何の仕事してるんだ」


ミニョクが、箸を止めた。


「……研究です」


「何の研究」


「……システムの」


スクチャの箸が、もう一度止まった。ハヌルが目を見開いた。


マンソクは、表情を変えなかった。ミニョクの目を見ていた。


長い間、見ていた。


それから、酒を一口飲んだ。


「……そうか」


それだけだった。


スクチャが、煮物の鉢をミニョクの方に押した。


「もうちょっと食べていきなさい」


ミニョクが、戸惑った顔をした。それから、頷いた。


「……はい」


ソユンが、横でそれを見ていた。父が、ミニョクが「システムの研究」と答えても、表情を変えなかったことを。それから、酒を飲んだだけだったことを。


——なんで、何も聞かないんだろう。


ソユンは思った。


理由は、聞かなかった。



食事の後、スクチャとハヌルが片付けを始めた。ソユンが手伝おうとすると、スクチャが「いいから、ミニョクくん送ってあげなさい」と手を振った。


ソユンが「分かった」と言って、店の外に出る支度をした。


その前に、マンソクがミニョクの肩を軽く叩いて、奥のテーブルに座らせた。


「少し話そう」


ミニョクが、少し戸惑った顔をした。それから、頷いた。


マンソクが酒を二つ注いだ。一つをミニョクの前に置いた。


「ソユンのことよろしく頼む」


ミニョクの手が、止まった。


「……まだそういう関係では」


マンソクが少し笑った。


「わかってる」


少しの間。


「でも、頼む」


それだけ言って、マンソクは酒を飲んだ。


ミニョクは酒に手を伸ばしかけて、止まった。それから、改めて、酒を取った。一口だけ飲んだ。


味は、分からなかった。


マンソクは、それ以上は何も言わなかった。


ミニョクが、口を開いた。


「……はい」


それだけだった。


マンソクが頷いた。


「いい目をしてる、お前さん」


二度目だった。


ミニョクは、何も言えなかった。


奥で、スクチャとハヌルが洗い物をしている音がした。流れる水の音と、皿が触れ合う音。


その音が、ミニョクには、聞いたことのない種類の音に聞こえた。



ハヌルが洗い物をしながら、スクチャに小声で言った。


「母さん」


「何」


「あの兄ちゃん」


「うん」


「何か、隠してる」


スクチャがちらりとハヌルを見た。


「分かる?」


「分かる」


スクチャが、また皿を拭きながら、頷いた。


「私も、ちょっと、思った」


「だろ」


「でも」


スクチャが少し笑った。


「ソユンが連れてきた人だから」


ハヌルが、口を開いて、また閉じた。


それから、頷いた。


「俺、見張る」


「ハヌル」


「ん」


「ソユンには言わないで」


「言わないよ」


ハヌルは皿を拭いた。蛇口の水音が続いていた。



ソユンとミニョクが食堂を出た。夜の空気は、少しだけ冷たかった。


路地を歩きながら、ソユンが言った。


「父さん、機嫌よかったね」


ミニョクが、横を歩いている。少し戸惑った顔をしていた。


「……機嫌よかった、ですか」


「うん。普段、初対面の人にあんなに話しかけない」


「……」


「ミニョクくん」


「はい」


「朝のこと、聞いていい?」


ミニョクが、少し歩みを緩めた。


「……朝」


「先生って、呼んだでしょ」


ミニョクが、口を開いて、また閉じた。


しばらく、二人とも黙って歩いていた。路地の街灯が、ぼんやりと足元を照らしていた。


ミニョクが、口を開いた。


「……昔」


「うん」


「先生と、呼んでいた人がいました」


ソユンが、横を見た。


「本が好きな人で……少し似ていたので、つい」


ミニョクは、それ以上は言わなかった。


ソユンが、しばらく考えてから、笑った。


「じゃあ、私でいいんじゃない」


ミニョクが、立ち止まった。


少し離れて、ソユンも立ち止まった。


街灯の下で、二人が向き合っていた。


ミニョクが、何か言いかけて、やめた。それから、もう一度言いかけて、やめた。


——


ミニョクの目が、わずかに見開いた。背筋が、ぴんと伸びた。


何かが、胸の内側で、はじけそうになった。


——


ミニョクは、頭を、少しだけ下げた。


「……」


それだけだった。


ソユンが、また歩き始めた。


ミニョクが、慌てて追いついた。


ソユンは振り返らなかった。歩きながら、少しだけ笑っていた。



ソユンの家の前で、ミニョクは「ありがとうございました」と頭を下げた。


ソユンが「うん」と頷いて、家に入った。ドアが閉まる音がした。


ミニョクは、しばらく、その場に立っていた。


それから、踵を返して、路地を歩き始めた。


——やっぱり。


——先生だ。


頭の中で、十五年前の図書室の光が、蘇った。蝉の声。夏の窓。ページをめくる音。「ここ、好きなの?」と聞かれた声。「じゃあ一緒にいましょうか」と言った声。


——同じ人だ。


——同じ、人。


ミニョクは路地の角を曲がった。コートの内側で、絵本が二冊、重なっていた。一冊目の絵本と、今朝買った二冊目の絵本。


歩きながら、ミニョクは目を細めた。


夜の空気が、少しだけ温かく感じられた。



深夜の管理局。


ミニョクがフロアに戻ると、セラがまだ残っていた。デスクの前に立って、何かを操作している。


「お疲れ様、カン主任」


「……ああ」


ミニョクが自分のデスクに向かった。セラが、画面を閉じる音が、後ろで聞こえた。


セラがミニョクの方に歩いてきた。


「カン主任」


「……」


「記憶の栞の処理保留の件」


ミニョクの手が、止まった。


「局長が、調査を命じています」


ミニョクは、振り返らなかった。


「上位権限を持つ人物は、管理局内でも限られています」


セラが、続けた。


「……気をつけてください」


ミニョクが、ゆっくりと、振り返った。


セラと目が合った。


セラは、もう何も言わなかった。デスクに戻って、鞄を取った。コートを羽織って、出口に向かった。


ドアの前で、振り返らずに、言った。


「失礼します」


エレベーターのドアが閉まる音がした。


ミニョクは、デスクの前に立ったまま、しばらく動かなかった。


——気をつけてください。


——セラが、知っている。


——いつから、知っていた。


ミニョクは、その問いの答えを、知っているような気がした。たぶん、ずっと前から、セラは知っていたのだろう。


ミニョクは、ホログラムスクリーンを起動した。


立ち退き計画の進捗を確認した。「再評価」のフラグは、まだ立っていた。ドユンが調査を始めても、まだ、彼女の店は守られていた。


ミニョクは画面を閉じた。


引き出しを開けた。絵本が二冊、入っていた。一冊目と、今朝の二冊目。


ミニョクは、二冊目の絵本を開いた。


最後のページの余白を、確かめた。


何も書かれていなかった。


——ここには、書かれていない。


——一冊目だけ、僕の字があった。


ミニョクは、しばらく、白い余白を見ていた。


——先生は、戻ってきていない。


そう、思った。


——僕の「また来ます」を、読んだ人は、いない。


絵本を閉じた。引き出しに戻した。


夜が、まだ続いていた。



——翌朝。


ドユンが執務室に入った。コートを脱いで、椅子に座る。ホログラムスクリーンを起動した。


立ち退き計画の進捗が、画面に展開された。


「再評価」のフラグが、まだ立っていた。


ドユンは画面を見ていた。


——誰かが、あの店を守ろうとしている。


そう、思った。


——上位権限を持つ人物。


——管理局内に、いる。


ドユンの目が、わずかに動いた。


カン・ミニョク。


その名前を、頭の中で、ドユンは呟いていた。設計者バックドアを行使できるのは、ミニョクだけだった。


——なぜ、ミニョクが、あの店を守っている。


——あの店主と、何か関係があるのか。


その問いに、ドユンは答えを持っていなかった。


ふと、別の問いが浮かんだ。


——なぜ、俺は、この件をこんなに気にしている。


ドユンは、その問いを、自分でも処理できなかった。


スクリーンを閉じた。


別の業務に取りかかった。窓の外で、朝の光が、ソウルの街に広がっていた。


ドユンは仕事を続けた。


——気にしていない。


そう、自分に言い聞かせた。


何回目の言い聞かせか、ドユンは、もう数えていなかった。

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