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第三話 システムの外側

朝の光が、まだ路地の奥まで届いていなかった。


ソユンは店の前で箒を持っていた。古い藁箒だった。石畳に落ちた前夜の塵を、ゆっくりと掃いていく。春先の冷たい空気が、シャツの袖から入ってきた。


隣のパン屋の前で、煙草の煙が立ち上っていた。


「ソユンちゃん」


キム老人だった。七十歳を超えている。三十年このパン屋を守ってきた、と聞いたことがある。


「おはようございます」


ソユンは箒を止めた。


老人は煙草を一口吸って、灰皿のない地面に灰を落とした。


「来週、店じまいすることになった」


ソユンの手が、止まった。


「立ち退きですか」


「仕方ないさ。時代が変わったんだ」


老人は笑っていた。諦めた笑い方だった。ソユンはその顔を見ていた。


「……それ、本当に仕方ないんですか」


老人が驚いた顔をした。煙草を口から離す。


ソユンは続けた。


「最後の日、私もここに来ます。客として」


老人が、しばらく黙った。


それから、笑った。今度は本当に笑った顔だった。


「ありがとう」


ソユンは小さく頷いた。それから、また箒を動かした。


老人が煙草を吸い終えて、店の中に戻っていく。ドアの上のベルが、小さく鳴った。


路地の奥で、看板が風に揺れていた。『記憶の栞』。


ソユンは箒を動かし続けた。



管理局の最上階。


ドユンは執務室の窓辺に立っていた。スーツの上着のボタンを留めて、ガラスに片手をつけて、ソウルを見下ろしている。


朝の街は、もう動き始めていた。ホログラム広告が無数に流れている。「あなたの運命の人、教えます」。「今日の適合率チェック、お済みですか」。


ドアがノックされた。


「失礼します」


セラだった。ホログラム端末を片手に持っている。


「カン主任からの報告書です。先月分のシステム精度評価」


「机に置いておいてくれ」


「あと、もう一つ」


セラがホログラム端末を操作した。空中に書類が浮かぶ。


「部門の方針として、局長にも一度、システムを使っていただきたいと」


ドユンが振り返った。


「俺がか」


「精度確認です。運用部門のトップが、自分のシステムを把握していないのは問題だ、と」


「俺は把握している」


「数値として、ではなく、ユーザーとしてです」


ドユンが黙った。窓に映る自分の顔を、一瞬だけ見た。


「業務か」


「業務です」


「……分かった」


ドユンはデスクに戻った。椅子に座る。ホログラムスクリーンを起動した。光の粒子が空中に広がる。


セラが画面を覗き込まずに、少し離れて立った。


ドユンが自分の名前を入力した。生年月日。基本データ。指紋認証。


検索ボタンを押した。


光の粒子が集まってくる。数千万人のデータベースから、最も相性の高い相手を抽出している。


数秒の処理が続いた。


結果が表示された。


オ・ソユン


——98.9%


金色の光が、執務室を照らした。


ドユンは画面を見ていた。動かなかった。


セラが少し首を傾けた。


「珍しいですね、95%以上」


「……」


「写真、表示しましょうか」


「いい」


ドユンが手を伸ばして、画面を閉じた。粒子が霧散する。


「業務は終わりだ」


「はい」


「報告はしておく」


「はい」


セラが小さく頭を下げて、出ていった。ドアが閉まる音がした。


ドユンは少しの間、デスクに座っていた。


——オ・ソユン。


聞き覚えのある名前のような気がした。一秒、考えた。思い出せなかった。


——よくある名前だ。


それだけ思った。


韓国にオ・ソユンという名前の女性は、数万人いるはずだ。


ドユンはデスクの上の書類に手を伸ばした。別件の決裁案件が積まれていた。


書類をめくる手は、いつも通りだった。


オ・ソユンという名前は、もう頭の片隅に追いやられていた。


——業務は、業務だ。


そう、ドユンは思った。



セラが廊下を歩いていた。


朝の管理局は活気がある。研究員たちが端末を操作している。誰かが「おはようございます」と声をかける。セラは「お疲れ様」と返した。


カン主任のデスクの前を通りかかった。主任は今日も早く来ている。ホログラムスクリーンに何かを表示させて、長い間、見つめていた。


セラはそれを横目で見て、通り過ぎた。


——カン主任が完成させたシステムは、十年前の旧式とは比べものにならない。


セラは独り言のように、心の中で言った。


——表層相性しか測れなかった旧式は、結婚後の悲劇を防げず、社会問題になった。性格と趣味だけで、人を結びつけていた。だから、何度も間違えた。


廊下の窓の外を見た。ホログラム広告が街を覆っていた。


——今のシステムは違う。性格、ライフスタイル、家族関係、遺伝子、感情の安定性。あらゆる側面から、関係維持確率を算出する。


——一人の人間に対して、最も相性のいい一人を見つけ出す。


セラは少し立ち止まった。窓ガラスに自分の顔が映った。


——カン主任。


——あなたが作ったシステムは、完璧なんですよ。


そう、心の中で告げた。


それから、また歩き出した。



午前、記憶の栞のドアの上のベルが鳴った。


ソユンが顔を上げると、ミニョクだった。


「……おはようございます」


「早いね」


「……普通です」


ミニョクが棚の前に立った。


ソユンはコーヒーを淹れ始めた。インスタントの匙が、瓶の縁に当たる小さな音がした。


「今日はね」


ソユンが背を向けたまま言った。


「……はい」


「お客さん、もう一人来ると思う」


「……お客さん」


「役所の人。立ち退きの話」


ミニョクの手が、棚の本の上で、止まった。


長く、止まった。


「……立ち退き」


「うん。再開発の話、知ってるでしょ」


ミニョクは何も言わなかった。


ソユンがコーヒーを差し出した。


「ミニョクくん」


「……はい」


「もし、来てくれたら、ありがたいなって」


ミニョクが顔を上げた。


「立ち退き、私一人だと、ちょっと心細いから」


ミニョクは、しばらくソユンを見ていた。


「……今日は」


「うん」


「……難しそうです」


ソユンの手が、少し止まった。


「そう」


ミニョクは、視線を下げた。


「……すみません」


「いいよ。仕事?」


「……はい」


「忙しいんだ」


「……システムの、調整日です」


「ふうん」


ソユンはそれ以上、聞かなかった。カウンターに戻った。


ミニョクは、コーヒーを両手で包んだ。マグカップの温度が、手のひらに伝わってきた。


——その人を、来させてしまったのは、たぶん僕だ。


——でも、僕は、行けない。


——僕が、僕の権限で、まだ店を守るために、できることがある。


——だから、今日は、行けない。


ミニョクは目を細めた。



昼の管理局。


ミニョクは自分のデスクに座っていた。誰もいない時間を選んだ。フロアの端、ホログラムスクリーンを最小限にして、誰にも見られないように画面を展開していた。


都市再開発計画。第三フェーズ。記憶の栞。


立ち退き対象。第三フェーズの最終段階。


ミニョクは画面を操作した。三年間、月に一度、こうしてきた。優先度を下げる。他の地区を先に進めるように調整する。文化財指定の検討資料を「保留」のステータスに置く。


でも、今日は違った。


第三フェーズの責任者の項目に、新しい名前が登録されていた。


『パク・ドユン 局長』


ミニョクは画面を見ていた。


ドユンが直接担当することになっていた。これまでの担当者は、もっと末端の役人だった。ドユンが入ってきたら、簡単に動かせなくなる。


——どうする。


ミニョクは指を止めた。


ハッキングを続ければ、いつかバレる。ドユンがハッキングに気づく確率は、これまでの何倍にもなる。


ハッキングを止めれば、立ち退きが進む。


——僕は、システムを作った。


——僕が作ったシステムが、彼女の店を奪おうとしている。


——僕は、システムを裏切ることでしか、彼女を守れない。


ミニョクは画面を閉じた。粒子が霧散した。


長い間、フロアの天井を見ていた。


それから、立ち上がった。


——選ぶしかない。


——僕が作ったものと、僕が守りたいものの、どちらかを。


ミニョクは管理局を出た。



午後、ソユンが路地を歩いていた。


郵便局に行く用事があった。記憶の栞から十分ほどの距離。歩きながら、ソユンは時々、店の看板を見ていた。古い看板を出している店、ホログラム看板に切り替えた店、看板自体がなくなった店。


通りの端で、子供たちが集まっていた。ホログラム端末を操作して、何かを見ている。声が漏れてきた。


「ねえ、お父さんとお母さんの適合率、見たことある?」


「あるよ、95%。だから結婚したんだって」


「うちは87%。微妙だよね」


「……」


「ねえ、ねえ、ねえ、私の運命の人、もう登録されてるかな」


「あんた、まだ早すぎ」


ソユンは通り過ぎた。


郵便局の前で、店内のテレビが点いていた。音声は絞ってある。ニュースの画面の隅に、テロップが流れた。


『アナログの声 ── 適合率の任意化を求める市民運動、署名活動を開始』


ソユンはちらりと見た。それから、目を逸らした。


郵便局の中に入る。窓口で書類を出す。係員がスマートウォッチで処理した。


「適合率カップル割引、ご利用ですか?」


「……いえ」


「あ、未測定ですね。失礼しました」


「はい」


係員が一瞬だけ、変な顔をした。


ソユンは書類を受け取って、出てきた。


外の空気が、少し冷たかった。



午後遅く、管理局。


ドユンが部下に書類を持ってこさせた。


「第三フェーズの立ち退き対象、最終確認だ」


部下が書類を渡す。ドユンは黙って目を通していく。リストの中に、ある名前があった。


『記憶の栞 オ・ソユン(30)』


ドユンの指が、止まった。


——朝の。


一秒、考えた。


——いや。


韓国にオ・ソユンという名前の女性は数万人いる。これが朝のシステム結果と同一人物だという確率は、計算するまでもなく低かった。


——同姓同名だろう。


ドユンは書類の続きに目を通した。住所、業種、面積、補償金。事務的な情報が並んでいた。


でも、指は次のページに進まなかった。


ドユンは書類を畳んだ。


「俺が直接、行く」


部下が驚いた顔をした。


「局長が、ですか」


「業務だ」


「ですが、これは末端の業務範囲では」


「俺が、行く」


部下が引き下がった。


ドユンは執務室を出た。


——確認するだけだ。


そう、自分に言い聞かせた。


——同姓同名なら、それだけのことだ。


——もし、同一人物だったとしても、業務には関係ない。


ドユンの革靴の音が、廊下に響いた。



夕方、ソユンが店に戻ると、入り口の前に男が立っていた。


スーツ。革靴。完璧に手入れされた身なり。手に封筒を持っている。


ソユンは少し離れたところで立ち止まった。


男が振り返った。


落ち着いた目だった。三十代半ばに見えた。


「オ・ソユンさんですか」


「はい」


「パク・ドユンと申します。AI管理局の局長です」


ソユンは何も言わなかった。


男が一歩、近づいた。


「先にお伝えしておきたいことがあって、参りました。立ち退きの件です。書面は、こちらに」


封筒を差し出してきた。ソユンは受け取った。


「中に、再開発計画の詳細と、退去期限、補償金の概要が記載されています。法的な手続きは、改めてこちらから連絡いたします」


ドユンの声は静かだった。事務的だった。同情も、押しつけも、何もない。


ソユンは封筒を見ていた。


「中で、お話、できますか」


ドユンが少し驚いた顔をした。


「業務的にお伝えするだけのつもりでしたが」


「コーヒー、淹れます」


ソユンが店のドアを開けた。


ドユンは少しの間、立っていた。


それから、店に入った。



店の中は静かだった。古い木の床が、ドユンの革靴の下でわずかに軋んだ。ドユンが見渡している。本棚の高さ、本の並び、窓から入る夕方の光、カウンターのコーヒー機械。


ソユンがコーヒーを淹れた。インスタントの粉が、湯気の中に溶けていく。


カウンターの椅子を、ドユンに勧めた。ドユンが座った。スーツのまま、姿勢を崩さなかった。


ソユンがマグカップを差し出した。


「インスタントですが」


「ありがとうございます」


ドユンが受け取った。一口だけ飲んだ。


少しの沈黙が落ちた。


ソユンが封筒を開けた。中の書類を取り出した。数枚あった。


「これ、もう、決まっていることですか」


「行政的には、決まっています」


「いつまでに、出ていく必要が」


「半年後を、目処にしていただきたい、と」


ソユンが書類のページをめくった。補償金の額が書いてあった。常識的な金額だった。少なくはなかった。


「お客さんから預かっている本も、ありますし」


「はい」


「父が始めた店です」


「存じています」


ソユンが顔を上げた。


「調べたんですか」


「業務として」


「そうですか」


ソユンが書類を、封筒に戻した。


少しの間、何も言わなかった。


ドユンも、何も言わなかった。コーヒーを飲んでいた。


ソユンが、口を開いた。


「私、立ち退きません」


ドユンが、ソユンを見た。


「補償金が問題ですか。それなら、相談に応じます」


「お金じゃありません」


「では」


ソユンが少しだけ笑った。


「自分で選びたいので」


ドユンが、何かを言いかけて、やめた。


「機械が決めたから出ていけって、私には言えません」


「……機械が決めたのではありません。再開発計画です」


「再開発計画も、AIが優先度を決めたものでしょう」


ドユンが黙った。事実、その通りだった。


ソユンは続けた。


「それは私が選んだ答えじゃない。だから、私は従いません」


ドユンが、しばらくソユンを見ていた。


「……分かりました」


立ち上がった。コーヒーを飲み終えていた。


「再度、こちらから連絡いたします」


「はい」


ドアの前で、ドユンが振り返った。


「オ・ソユンさん」


「はい」


「いいお店です」


それだけ言って、ドユンは出ていった。ドアが閉まる音がした。


ソユンはカウンターに戻った。マグカップを洗いながら、しばらく考えていた。


——変な人だった。


それだけ思った。



ドユンは少しの間、店の前に立っていた。


夕方の光が、路地の石畳に長く伸びていた。春先の風が、ドユンの髪を少しだけ動かした。


歩き出した。革靴の音が、石畳に響いた。


——いいお店です。


最後に自分が言った言葉が、頭の中で繰り返された。


——なぜ、あんなことを言った。


業務とは関係のない言葉だった。意味もなかった。ただ、口から出てしまった。


ドユンは歩きながら、自分に言い聞かせた。


——落ち着け、パク・ドユン。


——男がいきなり好意をもって近づくのは、女性にとって失礼だろう。


——彼女は今、立ち退きを命じられている。その通告を持ってきた男に、好意を持たれて喜ぶはずがない。


——いや。


——好意ではない。


——業務だ。


——朝のシステム結果の人物と、同姓同名なだけだ。


——同一人物だと確かめたわけでもない。


——意識するな。


ドユンは大通りに出た。


ホログラム広告が、彼の頭上を流れていた。「あなたの運命の人、教えます」。


ドユンは広告を見上げなかった。


ただ、まっすぐ歩き続けた。



夜、ドユンは執務室に戻った。


窓の外で、ソウルが光っていた。ホログラム広告の青白い光が、ガラスに映り込んでいた。


ドユンはデスクの前に座った。


ホログラム端末を起動した。朝のシステム結果を、もう一度呼び出した。


オ・ソユン 98.9%


その画面の隅に、「写真表示」のボタンがあった。朝、押さなかったボタンだった。


ドユンの指が、ボタンの上で止まった。


——確認だ。


そう、自分に言い聞かせた。


——同姓同名なら、それで終わる話だ。


押した。


写真が、空中に展開された。


——


夕方、店の前で見た顔だった。


ドユンは長い間、その顔を見ていた。


それから、画面を閉じた。粒子が霧散した。


執務室は、また静かになった。


ドユンは椅子の背もたれに、深く身体を預けた。天井を見た。


——同一人物だった。


——システムが選んだ相手と、立ち退きを命じた相手が、同じ人だった。


——偶然だ。


そう、自分に言い聞かせた。


——意識するな。


そう、もう一度、自分に言い聞かせた。


何回目の言い聞かせか、ドユンは数えていなかった。


「自分で選びたいので」


夕方のソユンの声が、まだ耳に残っていた。


——理屈の通った話ではない。


そう、頭で考えた。再開発は決まっている。法的には覆せない。彼女の意志に関係なく、半年後には立ち退きの執行が始まる。


——でも、彼女は知っていた。それでも、自分で選びたいと言った。


ドユンの目が、わずかに動いた。


ネクタイを少し緩めた。指の動きが、自分でも普段と違うことに、気づかなかった。


——なんでもない。


——業務だった。


そう、自分に言い聞かせた。


しかし、その言い聞かせる声が、自分の内側のどこから来ているのか、ドユンには分からなかった。



深夜の管理局。


ミニョクは自分のデスクに戻っていた。フロアには誰もいない。研究員たちは皆、帰宅している。セラも先ほど挨拶をして帰った。


ホログラムスクリーンを起動した。最高権限のIDでログインする。設計者バックドアを呼び出した。


都市再開発計画。第三フェーズ。記憶の栞。


責任者:パク・ドユン局長。


ミニョクは画面を見ていた。


ハッキングはできる。今夜も、優先度を下げることはできる。


でも、ドユンが直接担当する以上、長くは続かない。いつかバレる。


——僕が作ったシステムは、完璧なはずだった。


——人々の幸せを、計算で導けるはずだった。


——でも、僕が作ったシステムは、彼女の店を奪おうとしている。


ミニョクは指をホログラムの上で止めた。


——僕が、今、システムを裏切らなければ、彼女は店を失う。


——僕が、今、システムを裏切れば、いつかバレて、僕は終わる。


選択肢が、二つあった。


ミニョクはしばらく動かなかった。


それから、画面を操作した。再開発計画の優先度を、また一つ下げた。文化財指定の検討資料に、「再評価」のフラグを追加した。これで数週間は、立ち退きを遅らせられる。


ログを消した。完全には消えない。痕跡が残る。


それでも、押した。


画面を閉じた。粒子が霧散した。


ミニョクは立ち上がった。窓の外を見た。ホログラム広告の光が、夜の街に流れていた。


「あなたの運命の人、教えます」


ミニョクは、その光を見ていた。


「……それでも」


その先は、言わなかった。


引き出しを開けた。絵本があった。表紙の絵がかすれている。ミニョクは絵本を一瞬だけ見て、また閉じた。


夜が、まだ続いていた。

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