第2話 天才の0.1%
ミニョクは、管理局のフロアにまだいた。
夜が明けかけていた。窓の向こうのソウルが、青みを帯び始めている。デスクのホログラムスクリーンは、もう閉じてある。0.1%の赤黒い光は、消えていた。
引き出しを、もう一度開けた。
昨日買った絵本があった。表紙の絵が少しかすれている。記憶の栞で、3,000ウォンで買った絵本だった。
ミニョクは絵本を取り出した。最後のページを開いた。
余白に、子供の字が薄く残っている。
『また来ます』
ミニョクは長い間、それを見ていた。
自分の字だった。十歳のときに、自分が書いた字だ。書いた瞬間のことも覚えている。短くなった鉛筆を握って、ランドセルを足元に置いて、机に向かって書いた。
絵本を、そっと閉じた。
引き出しの奥に、もう一つ、紙が入っていた。何度も折り目がついた、古いメモだった。
ミニョクはそれを取り出して、開いた。
『また会えたら読もうね。——ソユン』
——古びた図書室の匂い。夕暮れの窓。
☆
その夜の管理局は、いつもより賑やかだった。
三年前の秋だった。最終チェックが通ったのは、夕方のことだった。三年間動かしていたシステムが、ようやく完成した。フロアに小さな拍手が起こって、誰かがシャンパンを開けた。研究員たちが紙コップを掲げて、ミニョクの肩を叩いた。
「お疲れ様、カン主任」
「歴史に残るね、これ」
「主任の名前、教科書に載るんじゃないですか」
ミニョクは小さく頷いた。それ以上は、しなかった。
研究員たちの拍手が一段落した頃、フロアの奥のエレベーターが開く音がした。誰かがすっと入ってきた。シャンパンの席までは来ない。離れた場所から、軽く挨拶だけする。
「お疲れ様。あとはよろしく」
低い声だった。それだけ言って、また出ていった。誰かが「局長だ」と小声で言った。ミニョクは小さく頭を下げた。顔は見なかった。
セラだけが、その背中を少しの間、見ていた。
それから、また同僚たちのざわめきに戻った。
セラがミニョクの近くに来た。
「カン主任は乾杯しないんですか」
近くにいた研究員が笑った。
「いつものことだろう。主任は静かに飲む人だ」
別の誰かが言った。
「何考えてるか分からないけど、まあ、そういう人だよ。すごい人っていうのは、そういうもんだ」
悪意はなかった。むしろ、尊敬に近いものだった。ミニョクは曖昧に頷いて、紙コップを受け取った。中身を一口だけ飲んだ。味は分からなかった。
夜が更けていった。一人、また一人と、研究員たちが帰っていった。窓の外で、秋の風が建物に当たる音がしていた。
セラが帰り際に振り返った。
「カン主任、お先に失礼します」
「……ああ」
「あまり遅くならないように」
「ああ」
セラが出ていった。フロアにミニョクだけが残った。
紙コップの中身を、捨てた。誰もいないフロアに、シャンパンの泡だけが、まだかすかに残っていた。
ミニョクはデスクに座った。最高権限のIDでログインした。
ホログラムスクリーンが展開した。光の粒子が空中に広がって、入力フォームが浮かんだ。
指を、止めた。
引き出しを開けた。十五年前のメモを取り出した。
『また会えたら読もうね。——ソユン』
ミニョクは長い間、それを見ていた。
☆
——蝉の声がしていた。
廃止予定の地域図書館。元の小学校の建物を、地域の図書館として使っていたところだった。夏だった。窓が開いていて、誰もいない校庭から、蝉の声だけが届いていた。
十歳のミニョクは、隅の机に一人で座っていた。膝を抱えて、俯いていた。制服のシャツが少し汚れていた。校庭で誰かに突き飛ばされた跡だった。理由は、もう覚えていない。たぶん、何かを聞かれて答えなかった。何かを言われて返事をしなかった。それで十分だった、当時の彼にとっては。
足音がした。
ミニョクは顔を上げなかった。誰でもよかった。誰でもよかったし、誰も来ないでほしかった。
ドアが開いて、本を抱えた女の子が入ってきた。
少し驚いた顔をした。ミニョクを見て、止まった。
ミニョクは目を伏せた。出ていけと言われると思った。怒られると思った。少なくとも、何か言われると思った。
女の子は何も言わなかった。
代わりに、隣の机に本を置いた。少し離れた席を選んで、椅子を引いて、座った。本を開いた。
それだけだった。
ミニョクは少しだけ顔を上げた。女の子の横顔が見えた。本に視線を落としている。長い前髪が頬にかかっていた。中学生くらいだった。制服は、別の学校のものだった。
しばらく、何も起こらなかった。
ページをめくる音だけがした。
ミニョクは、いつの間にか膝を抱えるのをやめていた。両手を机の上に置いていた。気づくと、目の前の本を一冊、引き寄せていた。表紙の絵が少しかすれている、薄い絵本だった。
本を開いた音に、女の子がちらりとこちらを見た。
「ここ、好きなの?」
ミニョクは何も言わなかった。返事の仕方が分からなかった。
女の子は答えを待たなかった。少し考えてから、言った。
「じゃあ一緒にいましょうか」
それだけ言って、また自分の本に戻った。
ミニョクは絵本を見ていた。文字が頭に入ってこなかった。隣に人がいるという感覚が、長い間なかったから、それがどういう感覚か、思い出すのに時間がかかった。
蝉の声が、窓の外で続いていた。
☆
次の日も、女の子はいた。
その次の日も、いた。
ミニョクが入っていくと、ちらりと見て、また本に戻った。ミニョクは少しずつ、女の子に近い机に座るようになった。
ある日、女の子が本を声に出して読み始めた。誰に読んでいるわけでもないような、ひとりごとのような声だった。
ミニョクは少しだけ前のめりになった。
女の子は気づかないふりをして、読み続けた。
読み終わって、本を閉じた。
「また明日も来ていいよ。ここ、誰も来ないから」
ミニョクが、口を開いた。
「……先生?」
女の子が顔を上げた。少し驚いた顔をしたあと、笑った。
「先生じゃないけど」
少し考えてから、
「……まあいいか。先生でいいよ」
ミニョクは、少しだけ笑った。たぶん、その夏で初めてだった。
——
☆
メモを、机の上に置いた。
ミニョクはホログラムスクリーンに視線を戻した。光の粒子が、入力を待ったまま空中に止まっている。
——僕が作ったシステムだ。
——僕は、その先生に会いたい。
——会う前に、確かめておきたい。
それは、システムへの信頼でもあった。彼が三年かけて作ったものが、自分に教えてくれるはずだった。自分と彼女の数字を。性格、ライフスタイル、家族関係、遺伝子——あらゆる側面から計算した、新しいシステムだった。旧式とは違う。完璧なはずだった。
自分の名前を入力した。
次に——オ・ソユン。
指は、迷わなかった。
処理が始まった。光の粒子が集まってきた。無数のデータが渦を巻いて、収束していく。ミニョクは画面を見つめたまま、動かなかった。
処理が終わった。
**0.1%**
赤黒い光が、暗いフロアを照らした。
静寂。
ミニョクは動かなかった。
——馬鹿な。
それが、最初に頭に浮かんだ言葉だった。
——0.1%とは。
画面を閉じた。粒子が霧散した。
もう一度開いた。もう一度、同じ名前を入力した。
オ・ソユン。
処理が始まった。粒子が集まった。収束した。
**0.1%**
変わらない。
ミニョクは画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。
——僕が、作った。
——僕が作ったシステムだ。
——正しいはずだ。
——正しい、はずだ。
画面を、ゆっくりと閉じた。
立ち上がった。窓に近づいた。ガラスに自分の顔が映っていた。表情は、ない。何も浮かんでいなかった。
下のホログラム広告が、青白く光って流れていた。「あなたの運命の人、教えます」——彼の声で録音されたわけではない、合成された案内音声が、夜の街に届いていた。これから普及していく予定のシステムだった。彼が作ったシステムだ。
ミニョクは長い間、窓の外を見ていた。
それから、デスクに戻った。メモを、もう一度、見た。
——
☆
——秋の始まりだった。
蝉の声は、もう聞こえなかった。
ミニョクが図書室に入ると、いつもの場所に、女の子はいなかった。
机の上に、一冊の絵本が置いてあった。ミニョクが知っている本だった。読み聞かせてもらった本だった。
ページを開くと、一枚のメモが挟まっていた。
『また会えたら読もうね。——ソユン』
ミニョクは長い間、メモを見ていた。
理由は、書いていなかった。どこに行ったのかも。いつ戻ってくるのかも。ただ、いなくなった。それだけだった。
ミニョクは絵本の表紙を開いた。ランドセルから鉛筆を出した。短くなった鉛筆だった。
余白に、書いた。
『また来ます』
書き終わって、絵本をそっと机の上に戻した。
メモだけを、ポケットにしまった。
帰り道、ミニョクは振り返らなかった。振り返ったら、もう一度行きたくなりそうだったから。
その日から、何度も図書室に通った。彼女は戻ってこなかった。一度も、戻ってこなかった。
それでも、ミニョクは通い続けた。机の上の絵本は、いつかの誰かに片付けられて、別の場所に行ってしまった。図書室は廃止されることが決まっていた。
最後の日、ミニョクは何も持って帰らなかった。ポケットのメモだけが、残った。
——
☆
ミニョクはメモを、引き出しに戻した。
絵本も、戻した。
立ち上がって、フロアを歩いた。窓の外で、ホログラム広告が流れ続けていた。
「あなたの運命の人、教えます」
ミニョクは、その光を見ていた。
「……システムが、僕を否定した」
声に出して言った。誰もいないフロアに、自分の声が小さく響いた。
引き出しを、もう一度開けた。メモが、絵本の上に乗っていた。
「……それでも」
その先は、言わなかった。
——
☆
三年が経った。
その間、ミニョクは何度も、その路地の前を通った。
ある晴れた日のことだった。仕事の昼休みに、近くの食堂に行くという口実で、彼はその路地の入り口に立っていた。スーツの上着のボタンを留めて、革靴の踵を石畳に当てて、立っていた。
路地の奥に、看板が見える。『記憶の栞』。
店の灯りが、昼でも少しだけ点いている。中で誰かが動いているのが、ガラス越しに分かった。白いシャツの背中だった。
ミニョクは、動かなかった。
何分立っていたか、覚えていない。
——0.1%。
そう、思った。
——拒絶される。
——システムが、そう言っている。
——僕が、作った。
踵を返した。革靴の音が、石畳に響いた。
路地を出て、大通りに戻った。ホログラム広告が、彼を取り囲んでいた。「今日の相性ランキング」「適合率80%以上のカップル優待」——彼が作ったシステムが、街を動かしていた。
ミニョクは、その光の中を歩いた。
食堂には、行かなかった。
それから、何度も同じことをした。何度も、同じことを。路地の入り口で止まって、看板を見て、踵を返す。三年間、それを繰り返した。
昨日、雨が降った。
ミニョクは、傘を持っていなかった。
——
☆
朝が、完全に来ていた。
春先の光だった。淡くて、少しだけ青みがある。
ミニョクは管理局を出た。フロアの照明を、すべて落とした。鞄に絵本を入れた。
家には、戻らなかった。
路地に向かった。
晴れていた。今日は、雨は降りそうになかった。
☆
記憶の栞の前に立った。
店の灯りは、まだ点いていなかった。閉まっている。ソユンは、まだ来ていないのか、奥にいるのか、分からなかった。
ミニョクはしばらく、立っていた。
少しして、ドアの奥で人影が動いた。ソユンが、店の前に出てきた。バケツを持っていた。柄杓で水を汲もうとして、ミニョクに気づいた。
「……また来たの」
ミニョクは少しの間、何も言わなかった。
「本があります」
「そりゃそうでしょ、本屋なんだから」
ソユンが少し笑った。バケツを店の脇に置いて、ドアを開けた。
「ゆっくりしていって」
ミニョクは店に入った。
——三年と、一日。
それだけの時間が、扉一枚の前後で、繋がっていた。
☆
店の中は、いつも通り静かだった。古い木の床が、踏むたびにわずかに軋んだ。窓から入る朝の光が、本の背表紙を斜めに照らしていた。
ミニョクは棚の前に立った。
ソユンがカウンターの奥でコーヒーを淹れ始めた。インスタントの粉を匙ですくう音。湯気が立ち上る音。マグカップを置く音。
ミニョクは目を細めた。
ソユンがカウンター越しに、コーヒーを差し出した。
「何か探してるの?」
「……いえ」
「じゃあなんで来たの」
ミニョクは少し考えた。返事に時間がかかった。
「……本が好きです」
ソユンが少し笑った。
「そう」
それ以上、何も聞かなかった。
ミニョクは棚の前に立ったまま、コーヒーを両手で包んだ。マグカップの温度が、手のひらに伝わってきた。
ソユンはもう、ミニョクのことを見ていなかった。カウンターの中で、別のお客が置いていったらしい古い文庫本の整理をしていた。
ミニョクはその背中を、少しの間だけ見た。
☆
昼前に、セラから連絡が入った。手首のホログラム端末が小さく震えた。
ミニョクは店の外に出た。指を翳すと、空中にメッセージが浮かんだ。
『主任、本日の会議。十三時です』
『……ああ』
『また行ったんですか』
ミニョクは画面を見た。
『……視察だ』
『古本屋の視察ですか』
『……文化的調査だ』
『調査結果はどこに提出しますか』
ミニョクは返事をしなかった。手を下ろすと、ホログラムが消えた。
店に戻ると、ソユンが顔を上げた。
「電話?」
「……仕事です」
「忙しいんだ」
「……普通です」
「ミニョクくん、なんの仕事してるの」
ミニョクは一瞬だけ止まった。
「……研究です」
「何の研究」
「……システムの」
「どんなシステム」
ミニョクは、コーヒーを一口飲んだ。
「……いろいろです」
ソユンが少し笑った。それ以上、聞かなかった。
——詮索しない人だ。
十五年前と、同じだった。
☆
午後、客が一人入ってきた。中年の男性で、長い間棚を眺めて、結局何も買わずに出ていった。ソユンは「ありがとうございました」と言って、また自分の作業に戻った。
ミニョクは隅の椅子に座って、絵本を読んでいた。読んでいる、というより、開いていた。
ソユンが棚の整理をしながら、独り言のように言った。
「ミニョクくん、適合率って、調べたことある?」
ミニョクの手が止まった。
「……あります」
「……そう」
ソユンが本を一冊棚に戻した。
「私、調べたくないんだよね」
少し間があった。
「なんか、機械に決められたくなくて」
ミニョクは、絵本のページに視線を落としていた。文字を見ていなかった。
「……そうですか」
「うん」
ソユンは、それ以上は言わなかった。
ミニョクは長い間、ページを見ていた。
☆
——夕方。
ミニョクが管理局に戻ると、フロアはまだ動いていた。研究員たちが端末に向かって作業をしている。セラが資料を持って通り過ぎる。「お疲れ様です」と声をかけた研究員に、ミニョクは小さく頷いた。
デスクに座った。ホログラムスクリーンを開く。
普通の業務画面だった。今日の処理件数。エラーログ。明日の予定。普通の、いつも通りの画面だった。
ミニョクは指を止めた。
——0.1%。
頭の中で、その数字が浮かんだ。赤黒い光だった。
——機械に決められたくない、と先生は言った。
ミニョクは画面を見ていた。
——機械が決めたのは、僕の方だ。
スクリーンを操作した。記憶の栞——その所在地のデータを、引き出した。新たに何かを変えるわけではなかった。ただ、見た。
ソユンの住所。店の登記情報。建築年。文化財指定の有無。再開発計画の進捗——。
ミニョクの目が、そこで止まった。
『記憶の栞 立ち退き対象(第三フェーズ予定)』
ミニョクは画面を見ていた。
長い間、見ていた。
それから、画面を閉じた。
☆
家に帰る道で、夜になっていた。
雨は降らなかった。風が少し冷たかった。春先の夜の風だった。
ミニョクは、ポケットの中の絵本を確かめた。鞄ではなく、コートの内ポケットに移していた。家まで、ずっとそこに入れていた。
——
☆
——翌朝。
ソユンが店を開ける。ドアの上のベルが小さく鳴る。
すでに、ミニョクが立っていた。
ソユンが少し驚いた顔をした。
「早いね」
「……普通です」
「六時半だけど」
「……早起きです」
ソユンが笑った。傘立てに視線をやった。ミニョクの手に、傘があった。
「……傘、持ってきた?」
ミニョクが傘を少し上げた。一昨日買った傘だった。
ソユンが空を見た。雲一つない、晴れた朝だった。
「晴れてるけど」
「……念のため」
ソユンが少しの間、ミニョクを見た。
それから、店のドアを大きく開けた。
「ゆっくりしていって」
ミニョクが店に入った。古い木の床が、わずかに軋んだ。
ソユンは振り返らないまま、心の中で言った。
——やっぱり、犬みたい。
それだけ思って、カウンターに向かった。
朝の光が、本の背表紙を斜めに照らしていた。
ミニョクは棚の前に立っていた。背中を向けたまま、目を細めていた。




