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第1話 0.1%の男

二〇七五年のソウルは、朝から光に満ちていた。


空中にホログラム広告が流れていく。


「おはようございます。今日のあなたの適合率は——」


立ち止まった男が手首を翳すと、空中に数字が浮かんだ。隣の女性も腕を上げる。二人の数字が重なって、パーセンテージが弾き出される。


「87.3%。本日のカップル優待、適用可能です」


二人が笑い合った。


カフェのガラス扉に「適合率80%以上のカップル優待・本日限定」と金色のシールが貼ってある。その隣に「適合率認定席」の表示。窓際の若い男女がスマートウォッチを重ね合わせて、写真を撮っていた。ホログラムのハートが二人の頭上で弾けて、消えていく。


横断歩道で、ソユンはその光景を眺めていた。


春先の風が、髪の先を揺らした。


三十歳のオ・ソユンは、スマートウォッチをしていない。手首には何もない。


隣に立つ女性二人組が小声で話している。


「ねえ、チェ部長の娘さん、また別れたんだって」


「また? 今年三人目じゃない」


「95%以上じゃないと嫌らしくて」


「うちの親も、私に紹介しようとしてくるんだけど——」


信号が青になった。ソユンは歩き出した。


路地に一本入ると、ホログラムが消えた。


広告の光も、自動音声も届かない細い道。古びた石畳の上を、ソユンは迷いない足取りで進んだ。路地の奥に、木の看板が一枚、風にゆっくりと揺れている。


『記憶の栞』


それだけが書いてある。


ソユンは白いシャツの袖をまくった。段ボール箱から古本を取り出して、表紙の埃を払う。背表紙を確かめて、値札を確認して、店先の棚に並べていく。


通りかかる人々が横目で見て通り過ぎる。


「まだこんな店あるんだ」


誰かがそう言う気配がした。ソユンは気にしない。並べ続けた。


古紙の匂いがした。かすかな埃と、長い時間の重さ。



店の中に入ると、壁一面に本棚がある。


ホログラムはない。電子機器もほとんどない。古い木の床が、踏むたびにわずかに軋む。窓から入る朝の光が、本の背表紙を斜めに照らしていた。


ソユンがカウンターの奥でコーヒーを淹れていると、ドアが開いた。


「ソユンさん、おはよう」


ジウだった。近所の花屋を営む二十八歳。両手に花束を抱えている。


「これ、売れ残り。飾って」


「ありがとう。コーヒー飲んでく?」


「インスタントでしょ」


「インスタントしかない」


「じゃあいい」


ジウが花束をカウンターに置いて、店内を見渡した。


「相変わらず、ここだけ時間が止まってるみたい」


「褒め言葉として受け取っておく」


「もちろん褒め言葉だよ」


ジウがスマートウォッチを見た。通知が来ている。画面に指を走らせると、空中に小さなホログラムが浮かんだ。


「また職場から。適合率の高い人紹介するって」


「行くの?」


「……どうしよう」


ジウの顔が少し曇った。ソユンはコーヒーを一口飲んで、何も言わなかった。


「ドンヒョンさんのこと、好きなんでしょ」


ジウがぱっと顔を上げた。


「な、なんで」


「毎朝、花を渡してるから」


「売れ残りを処分してもらってるだけで——」


「売れ残りなら捨てればいい」


ジウが黙った。


「やっぱり、測ったほうがいいかな?」


「測ってないの?」


「……怖くて」


ソユンは窓の外に目をやった。路地の向こうで、ホログラム広告の光がゆっくりと流れている。


「測らなくていいんじゃない」


「でも、低かったら」


「低かったら何?」


ジウが答えられない。ソユンは続けた。


「低い数字を知る前と後で、ドンヒョンさんのことが変わる?」


「……変わらないと思う。たぶん」


「じゃあ、測らなくていい」


ジウが少し笑った。花束を整えながら、小声で言う。


「ソユンさんって、なんでスマートウォッチしないの?」


「必要ないから」


「でも今の時代、してないと不便でしょ」


「お父さんがよく言ってた。機械に決めてもらった人生は、自分の人生じゃないって」


ジウが少し考えてから、うなずいた。


「……そういうお父さんが作った店か、ここ」


「そう」


ソユンは棚に視線を戻した。今日並べる本がまだある。



夕方になって、雨が降り始めた。


春の雨だった。冷たくはないが、しつこい。路地の石畳が濡れて、薄く光った。


ソユンが店じまいの準備を始めると、外からホログラム広告の音が聞こえてきた。雨の中でも音声は続いている。


「本日の適合率チェック、まだお済みでないですか? 雨の夜こそ、運命の人と——」


ソユンは窓を閉めた。音が遮断される。静かになった。


棚の本を確認しながら、帳簿をつける。今日の売り上げはまあまあだった。先週より少し良い。棚の整理をして、床を軽く掃いて、コーヒーカップを洗う。


いつもの、終わり方。


ドアの前に人影が現れたのは、そのときだった。


ガラス越しに見える。ずぶ濡れだった。


二十代半ばの男が、雨水を滴らせながら立っている。傘もなく、急いだ様子もなく、ただそこに立っている。細い目。感情の読めない顔。雨に打たれても、どこかを目指してきたような、迷いのない足取りの残像がある。


ソユンはしばらく見ていた。それから、ゆっくりと言った。


「……捨て犬みたい」


男は何も言わない。雨が降り続けている。ソユンは少し考えてから、ドアを開けた。


「入りなさい」



店の中は静かだった。


男がタオルを受け取る。古い、柔らかいタオルだった。何度も洗って色が褪せている。男はそれを両手で受け取って、頭に押し当てた。


ソユンはインスタントコーヒーを作りながら、横目で様子を見た。男が店内をゆっくりと見渡している。何かを確かめるように。本棚の配置を目で追って、棚の高さを測るように視線を上げて、背表紙の並びを読んでいく。


ただ、その目が、ひどく静かだった。


コーヒーを差し出すと、男は両手でカップを受け取った。ソユンは背を向けて本の整理に戻る。雨音が窓を叩いた。


男がコーヒーカップを両手で包む。目を細める。


——犬が、昔の家に帰ってきたときの顔だった。


ソユンはそれを見ていない。棚に向かったまま、本の背表紙を確かめていた。



しばらくして、ソユンが振り返らずに言った。


「名前は?」


「……ミニョクです」


「ここに来たことある?」


ミニョクが一瞬、答えに迷った。


「……昔、少し」


ソユンがちらりと振り返った。ミニョクの目を一瞬だけ見て、また本の整理に戻る。


「そう」


それだけだった。追及しない。詮索しない。


ミニョクが静かに店内を見ている。「昔、少し」という言葉の意味を、ソユンは問わなかった。この店に来たことがあるはずはない。父が古本屋を始めたのは十年前だ。それでも、来たことがあるような顔をしている。


——昔の家を探してきた、捨て犬みたいな顔。


ソユンはもう一度、横目でミニョクを見た。彼はいつの間にか棚の前に立っていた。一冊の本を手に取っている。子供向けの、薄くて小さな絵本。表紙の絵がかすれている。


手が、止まった。


長く、止まった。


「それ、気に入った?」


ミニョクが我に返ったように、絵本を見た。


「……いくらですか」


「3,000ウォンです」


ミニョクが財布を出した。お金を払う。本を胸に抱える。両手で。コーヒーカップを包んだのと、同じ仕草だった。


ソユンがその様子を横目で見た。


——ほんとに、犬みたい。捨て犬が、昔の家を探してきたみたいな。



「……ありがとうございました」


「また来てください。傘持ってきて」


ミニョクが小さく笑った。ほんの少しだけ。ソユンは見ていない。


男が店を出ると、雨はまだ降っていた。路地の角にある無人販売機で傘を買う。ホログラムが傘の形を空中に投影している。種類を選ぶと、実物が出てくる仕組みだ。


ミニョクは傘を広げないまま、手に持って路地を歩いた。


角を曲がりかけて、振り返った。


路地の奥に、店の灯りがあった。雨の中で、ぼんやりと、温かく光っている。


ミニョクは、しばらく見ていた。


胸に抱えた絵本が、コートの内側で少しずつ温まっていく。それから、また歩き出した。傘は開かれないまま、手の中にある。



ソユンは一人で閉店作業をした。


カップを洗って、灯りを落として、鍵をかける。路地に出ると、雨はまだ降っている。スマートウォッチのない手首に、雨粒が当たった。


路地の向こうで、ホログラム広告が流れている。雨に滲んで、青白い光がにじんでいた。


「今夜の適合率チェックはお済みですか——」


ソユンは視線を落とした。石畳が濡れている。男が歩いていった方向を、一瞬だけ見た。


——捨て犬みたいだった。


それだけ思って、ソユンは家に向かった。傘を開く。雨音が頭上に広がった。適合率の広告の声が、雨音に混じって遠ざかっていった。



——その夜。


カン・ミニョクは、AI適合率管理局の最上階にいた。


広いフロアに、人はいない。深夜の管理局は静かだった。無数のホログラムスクリーンが壁に展開されているが、今は消えている。窓の外で、雨はまだ降っている。


帰り支度をしていたセラが、振り返って声をかけた。


「お疲れ様です、カン主任」


「……ああ」


「どこかへ行っていたんですか。夕方から席が」


「在庫の確認だ」


セラが少し間を置いた。


「管理局に在庫はありませんが」


「……文化的調査だ」


セラが去った。エレベーターのドアが閉まる音がした。


ミニョクは動かなかった。窓の外に、ソウルの夜景が広がっている。無数のホログラム広告が、雨の中を流れている。「適合率チェックはお済みですか」「今夜の運命の人を探しませんか」——三年前に彼が完成させたシステムが、この街を動かしていた。


ミニョクはデスクに近づいた。最高権限のIDでログインする。ホログラムスクリーンが展開した。光の粒子が空中に広がって、入力フォームが浮かぶ。


自分の名前を入力する。次に——オ・ソユン。


指が、迷わなかった。


三年間、何度も同じ入力をしてきた。月に一度。多い時は週に一度。場所はいつもこの管理局。最高権限を持つ自分だけが、誰にも気づかれずに測定できた。


結果は、いつも同じだった。


それでも、入力した。今日は、店に入った日だった。彼女のタオルで頭を拭いた日だった。コーヒーを両手で受け取った日だった。あの絵本を、買った日だった。


——もしかしたら。


そう思ってはいけないと、自分でも分かっていた。


処理が始まる。光の粒子が集まってくる。無数のデータが渦を巻いて、収束していく。


ミニョクは画面を見つめたまま、動かない。


処理が終わった。


——0.1%


赤黒い光が、暗いフロアを照らした。


静寂。


ミニョクは長い間、動かなかった。


画面を閉じる。粒子が霧散する。


もう一度開く。もう一度、同じ名前を入力する。オ・ソユン。処理が始まる。粒子が集まる。収束する。


——0.1%


変わらない。


ミニョクの目が、わずかに動いた。


——やはり。


それから、ゆっくりと、もうひとつの言葉が浮かんだ。


——それでも。


画面を、静かに閉じた。立ち上がる。窓の外を見る。


長い沈黙が続いた。


引き出しを、そっと開ける。今夜買った絵本が入っている。ミニョクはそれを一瞬だけ見て、また閉じた。


窓の外では、雨がまだ降り続けていた。ホログラム広告の光が雨に滲んで、街を青白く染めている。彼が作ったシステムが、今夜も数百万人の「運命の人」を計算し続けている。


ミニョクは動かなかった。ただ、立っていた。


胸の内側で、絵本の温もりが、まだ少しだけ残っていた。

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