主の残響①
本来、ネクロスに自我はない。
自分で考えることはなく、迷うこともない。怒りも悲しみも誇りも悔恨も、本来は必要ない。ただ主の命令を受け敵を殺す。それだけが役目だった。
けれど、このネクロスだけは少し違っていた。
なぜそうなったのか、誰にも分からない。ネクロスは、ただ長かったと感じていた。
ここではないどこかの世界で、主と共に数えきれないほどの戦いを経験した。
場所はいつも違った。荒野であったり、雪原であったり、黒い城壁の中であったり、深い森、赤い空の下、白い霧の中、焼けた塔の上などであった。
どの戦いに勝ち、どの戦いが敗北だったのかはもう覚えていない。
それでも確かなことがある。ネクロスの側には常に主がいた。
主は静かな存在だった。戦いにおいても慎重で、とにかく無駄を嫌った。だが戦いの深みへ踏み込む時だけ、少しだけ熱が生まれていたように思う。他者には見えないほんの小さな勝ち筋を見つけた時、主の中で何かが灯るのをネクロスは何度も感じていた。
ネクロスはあれが好きだった。主が静かに高揚している時、ネクロスもまた己の在り方が正しいと思えた。
主が望む局面を作ること、主のために自分の身を裂くこと、主が待つ瞬間まで耐えて相手を破壊すること、それがネクロスのすべてだった。
いつ、この世界へ来たのかは覚えていない。
気づいた時には戦場の風景が変わっていた。空気の重さも魔力の流れも違っていた。それでも主はいた。
――いる、はずだった。
その感覚が奇妙だった。
主の気配は確かにある。完全に消えてはいないし、命令も届く。だから理屈では、主は近くにいると理解していた。
だが同時にいない気がした。すぐそばにいるはずなのに、深く深くどこか届かない場所へ閉じ込められているような気がした。まるで深い牢屋に囚われた主が、遠くからこちらへ指示だけを飛ばしているかのような。
その違和感を、ネクロスはうまく言語化できなかった。
それでもネクロスは戦った。この世界でもたくさん戦い、人を殺し、魔獣を屠り、兵器を破壊し、魔術を浴び、矢を受け、刃を受け、それでも前へ出続けた。
共に来た同胞たちもいた。彼らと共に進み、この城へ辿り着いた。
やがて、この城は主のものになった。その時、ネクロスは確かに嬉しかった。
ようやく主の居場所ができた、と感じた。この世界にも主の支配が及んだのだと。ここを拠点にまた戦いが続いていくのだと。それがとても満たされていることのように思えた。
だがそれは長く続かなかった。何年経ったのかは分からない。こちらに来てから時間の感覚は常に曖昧だ。
強大な敵が来た。その敵が誰だったのか、ネクロスには分からない。人だったのか、人の皮を被った別の何かだったのか。ただそれはとても強かった。同胞たちは壊され、タルタロスですら突破されて、主の気配は小さく、さらに遠くなった。
主も同胞も滅びた。この城を満たしていたあの静かな熱もなくなった。
なぜか自分だけが取り残された。なぜ残ったのか分からない。命令があったわけではない。気づけば戦いの後に立っていたのは自分だけだった。
私はどうしたらいい?
その問いが生まれた時、ネクロスはすでに本来のネクロスではなくなっていたのかもしれない。
自律した人格のないアンデッドには、本来なら問いなど生まれない。命令がないなら停止するだけだ。だがこの個体は停止することを拒否するように思考を始めた。
どうしたらいい
主はもういない
同胞も一人も残っていない
タルタロスは沈黙している
なのに自分だけが動いている
結局できることは一つしかなかった。
主の思い出を抱いて、この城に留まること。それだけだった。
誰かを待っていたわけではないし、誰かが来るとも思っていなかった。
ただ、この場所に残るしかなかった。この主がいた場所に。主の気配が最も濃かった場所に。
主の時代の残響が、かすかでも残っている場所に。
そして今夜、タルタロスに闇が現れた。
それは女の形をした闇だった。
人の姿をしているのに、死の淵に両足を沈めているような存在だ。
ネクロスはその存在を見て戸惑い、しかし同時に懐かしさも感じていた。
この闇は主と同じ気配を纏っている。主の方がもっと静かでもっと暖かいが、戦いの深みに触れた者だけが持つ覇気のような気配をその闇は放っていた。
その闇は自分を見て驚き、主の名前を口走った。その瞬間、ネクロスの中で何かが繋がった。
私はこの闇を知っている




