父親たち
カッシーニ家の中庭にあるベンチの背もたれに軽く体重を預けて、富士宮は初夏の澄んだ空を見上げ、ゆっくりと息をついた。強くなってきた日差しが、季節がこれから本格的な夏に向かう気配を漂わせている。富士宮の脇腹の傷はこの1ヶ月で驚くほど回復した。メルキオールとベアトリーチェの治療の腕には感心するしかない。
ラウル・ヴァレンテを仲間に加えた富士宮は、一旦王国領を離れ、魔王領北部の大都市デミトリスへ向かうことを決めていた。デミトリスは多人種都市であり、人族も普通に行き交う場所らしく、富士宮たち一行が道中を歩いていても誰も気に留めないらしい。またゴンサロやラウルの重要拠点でもあったので、ラウルに案内を任せられることも心強い。
デミトリスへの旅路は、王国の外側を自分の目で見る初めての旅になる。富士宮自身はこれから先の身の振り方を決めきれていない。王国に戻って復権を図るのか、王国の外側から世界に手を伸ばそうとするのか、それとも他の別の道か。行き先はまだ芒としてわからず、ただこのまま留まっていてはいけないという危機感にも似た何かに突き動かされた結果、デミトリスに行く決意をした。
王国に残してきたイニゴたちのことが心配でないわけはない。だが王国にはオーエンという腹心がいる。彼に任せておけば大丈夫、と心の中で信じている自分がいた。何よりメッシーナ街道の空の風景を思い返せば、オーエンは富士宮たちの現状も把握している可能性が高く、それにも関わらずヘルプコールもないことから、恐らく順調に物事が進んでいるのだろうと推察できた。
また、これは趣味も兼ねた行脚になることは否定できない。デミトリスは、魔族や人族だけでなく獣人や妖精族、さらにはその混血たちが暮らす人種の坩堝であり、職種を見ても商人も傭兵も技師も芸人も密偵も何でもいる都市だ。都市の人口はおおよそ250万人と推計されているので、日本で言えば名古屋市ぐらいの規模ということだろう。そんな場所に有能個体が眠っていないわけがない。
◇
今朝、富士宮は鍛錬終わりのレオナルドの居室を訪問し、率直に今後の方針を伝えた。
アントニオたちを連れてデミトリスに向かうという話をした時、レオナルド・カッシーニは静かに頷いただけだった。いつものように口数は少なく、表情も大きくは変わらない。けれど彼の眼差しには、出会ってから芽生えた富士宮に対する信頼感のようなものが感じられた。
「アントニオのこと、くれぐれもよろしく頼む。何かあれば、遠慮なくこのカッシーニ家を頼ってくれ」
それは短い言葉だった。だが、その短さの中にある重みを富士宮はよく分かっていた。
富士宮は姿勢を正して一礼した。
「ありがとうございます。王国に戻ってきた際には、またアントニオを連れてお邪魔させていただきますね」
するとレオナルドは、ほんのわずかにだけ口元を緩めた気がした。
◇
次に富士宮が挨拶に向かったのは、ゴンサロ・ヴァレンテのところだった。
彼はラウルと違い、デミトリスへは同行しない。表向きは今までどおりの商人として動きながら、王都方面の情勢を探る役を引き受けてくれることになった。特に大きいのは、イニゴたちの様子を見てきてくれると約束してくれたことだ。
富士宮はその話を聞いた時、オーエンに任せておけば大丈夫と考えていながらも、やはり強く胸を締めつけられる思いがした。イニゴ、ハリー、アルバロ、エリー、ジョン。全員、王都に残してきた大事な個体たちだ。自分の身を最優先にしろと命じてはあるものの、それで心配が消えてくれるわけではない。
ゴンサロはそんな富士宮の表情を見て、商人らしい柔らかい笑みを浮かべた。
「王都は今、かつてない政争の只中にあると聞いております。聖女様やその従者の方々の処遇は後回しにされている可能性が高いのではないでしょうか。恐らく、皆様は無事に生きておいでだと思います。できる限り情報を集めて参りますので、聖女様はご自身のなすべきことに集中なさってください」
「……ありがとうございます。どうか、よろしくお願いいたします」
富士宮がそう答えると、ゴンサロは「それに」と言って、少しだけ視線を横へ向けた。そこには荷の積み込みを手伝っているラウルの姿がある。
「愚息のことも、改めて礼を申し上げねばなりません。あれは一度、心が折れてしまった子でした。軽薄そうな顔をしておりましたが、心が回復したのではなく、ただもう何も望まぬようにしていただけなのです」
ゴンサロの声は穏やかだった。だがその言葉の下にある父親としての痛みがよく伝わった。
「ですが今は違います。昔の才気がようやく戻ってきました。こんな息子の姿を見るのは一体いつぶりでしょうか」
そこでゴンサロは富士宮に祈るように深く一礼する。
「聖女様には感謝しております。息子に、また前を見る理由を与えてくださった」
なんだろう、最近親から礼を言われがちである。
富士宮は照れくささを押し隠しながら自分も頭を下げる。
「ラウルは、私にとってとても頼もしい戦力です。必ず、彼の力が役に立ってくれると信じています」
「ええ、恥ずかしながら、あれの才能はもはや私では扱いきれません。聖女様のもとで、大きくなってくれることを願っております」
ゴンサロの言葉は、商人というよりは、やはり父親が愛する息子に向けるものだった。




