ヘルメスの微笑と見えざる手
会談室を出た富士宮は、小さく息を吐く。
メルキオールからは安静を指示されている。ロイヤルナイトとの戦闘で、かつてないほど深く《タナトス》へ潜ったせいで、神経系統へ極度の負荷がかかっているらしい。見た目には普通に動けていても、急な踏み込みや細かな身体制御を試みると、身体の反応がほんの少しだけズレる。暗殺行動ではそのわずかなズレが暗殺の成功率だけでなく、自身の生存率すらも左右する。腰を据えて療養に努める必要があった。
なので、最近は日中が妙に暇だった。本来は自室に戻って夕食会まで休んでもよかったのだが、どうにも気分が落ち着かない。ゴンサロとの会談で頭が変に冴えてしまったせいもあるのだろう。そこで富士宮は、気分転換にリリアを探すことにした。
あの子と少し話していれば気持ちも優しくなれるし、何よりあの子自身が可愛い。将来的にUR《魔帝》候補で、ユニークスキル《セイレーン》持ちとかいう意味不明な大当たり個体という側面はあるが、それを抜きにしても年齢相応の無邪気さにいつも癒されているのだ。
廊下を歩いている侍女へ尋ねると、リリアは食堂でお手伝いをしているという。富士宮はそのままカッシーニ家の中央棟奥に位置する食堂へ向かった。
食堂の扉を開ける手前で、歌声が聞こえてきた。
幼いが、よく通る澄んだ声色だ。抑揚のつけ方はまだ素朴なのに、不思議と耳を引く歌声だと感じる。《セイレーン》と聞いて身構えてしまう自分がいなくなったわけではないのだが。
食堂を覗くと、リリアが若い男へ歌を聞かせていた。長身で褐色の肌を持ち、少しウェーブのかかった黒髪が特徴的だった。顔の造形がどこかで見たことのある印象だと思った瞬間、富士宮は先ほどの会談でのやり取りを思い出した。
そういえば、会談冒頭にゴンサロが、「愚息のラウルもお屋敷にお邪魔させていただいております。いやはや、二十四にもなるというのに出来の悪い息子で苦労しております」と頭を掻いていた。レオナルドが妙にしみじみ頷き、「こちらも似たようなものだ」と返していたから覚えている。
ラウル・ヴァレンテ、年齢は二十四か。
富士宮は、いつもの癖でそんな情報を思い出しながら、少し離れたところから二人を見る。
ラウルは、リリアの視線の高さまできちんと腰を落として向かい合っていた。歌を聞いているその姿勢は丁寧で、子どもへ向ける笑みも柔らかい。こういうところだけ見れば、善良そうな青年だ。少し軽薄そうな雰囲気は見え隠れしているものの、人当たりはよく、相手の気分を害しない距離感も心得ているようだ。さすがゴンサロの息子だけあるな、と素直に思った。
ただ同時に、富士宮は妙な違和感も覚えていた。
ラウルがリリアへ視線を向けている時間が、少し長い。側から見れば、歌っているリリアをじっと見つめているようにも見える。もしくは歌を真面目に聞いているだけとも取れるかもしれない。だがただ耳を傾けるというより、何かを見ようとしているような、そんな集中の仕方だった。自分もこんな風によく集中する瞬間があるから分かる…ん?
その違和感へ富士宮が気づいたのとほとんど同時に、ラウルがいきなり片手で目を押さえるようにして膝をついた。
突然の出来事にリリアがびっくりして歌を止める。
「お兄ちゃん!どうしたの、大丈夫?」
ラウルは何事もなかったように、軽薄そうな笑みを浮かべて答える。
「ん? 何でもないよ、光が当たってちょっと眩しかっただけ」
富士宮はそれを見て、胸の奥がざわつくのを感じた。
――今のリリアとの短いやり取り、似ていないか?私が黒雷の鑑定結果を見た時に。
富士宮は気づいた時には《鑑定眼・宵》を起動してラウルを凝視していた。それはある種の予感と、緊張と、そして期待を混ぜた状態でのスキルの発動だった。
予想通り、無数の黒雷が視界中を迸る。視界の中央にいるラウルの周辺から、天へ聳えるほどの漆黒の円柱が立ち上がる。ジョン・デュランの時と、まったく同じ光景。
ああ、これは本物だ
詳細を見るまでもなく、富士宮はそう確信した。
ラウル・ヴァレンテ
年齢:24
現在ジョブ:商人
ジョブレア度:R
ジョブランク:S
現在ステータス/統率B/武力B/知力S/精神A/魅力S/幸運S
商売系統へ必須なステータスをほぼカンストしつつ、戦闘面ですら熟練者の域へ踏み込んでいる。中級ジョブの器に留まるような器ではない、完成された個体だ。
だが、さらなる異常はそこから先にあった。
潜在獲得可能ジョブの最高位は、ジョブレア度URランクの《見えざる手》。
富士宮は一瞬、呼吸を忘れた。生産・製造・流通・小売を支配することで世界経済へ影響を及ぼし、そこから派生して政治・軍事・外交にまで干渉する国家規模の策謀を可能にするジョブ。ここまで来ると、もはや商人系統と呼んでいいのかすら分からない規格外の性能にして、ルナアリスでも実装されていない全くの初見ジョブだ。これを獲得できるラウルは、あのトーマス・トゥヘルとすら張り合えるのではないかと思うぐらいの、将来の国家規模の天才。
商人は前からずっと欲しかった
でもここで、こんな追いやられた果ての地で
こんなの拾う?
富士宮のガチャ脳が表面上は静かに、だが内心では全力で喝采を叫んでいた。
異常はそこで終わらない。ラウルにはすでに発動しているユニークスキルもあった。
ユニークスキル《ヘルメス》、地球の神話上の大神の一柱に由来し、商業・旅・盗賊・賭博・雄弁を守護する神の能力を具現化したスキル群の総称だ。
その効果とバリエーションは凄まじいの一言だった。
商人系統上級スキル相当の効果を持つスキル、移動時の安全バフや設営能力、各種乗り物操作の適性を上げる旅人系統スキル、さらにシーフ系統の盗賊スキルや遊び人系統の賭博スキル、加えて弁護士系統の弁論術スキルの数々が漆黒の円柱に白抜きの文字でずらっと羅列されている。
ユニークスキル一つでジョブの必要性が吹き飛んでしまうぐらい、できることの幅が広すぎる。中級ジョブに過ぎない商人であっても、このユニークスキルだけで十分ハイエンドの戦場で通用する。
そしてさらに驚くことに、ラウルは二つ目のユニークスキルまで持っていた。
ユニークスキル《鑑定眼・水》、その表記を見た瞬間、富士宮の背筋を冷たいものが走る。
鑑定眼同士では効果が阻害されるのか、「水」と表記される由来までは見て取れない。だが能力の気配だけで、恐らく自分と同格の能力であると察しはついた。
プレーヤー以外で、プレーヤーと同じ領域へ踏み込んだ個体。富士宮にとっては初めて出会う存在だ。
気づけば、リリアが富士宮へ気づいて駆け寄ってきていた。
「ひとみさま!」
その声で、ようやく富士宮の意識は現実へ戻る。漆黒の表示板からラウルの表情へと視線を移すと、彼は富士宮の顔をまっすぐ見つめていた。そしてどこか達観したような、諦めたようなため息をついている。
何も喋ってはいないのに、なぜだか富士宮にはラウルの考えていることがわかってしまった。
あーあ、バレちゃった
ラウルは、己の異能を自覚しながら、意図的にその能力を隠していたのだ。彼とはまだ言葉は交わしていないが、これほどの能力を持っている個体が、これから起こるルイや共和国との闘争に無関心でいられるはずがない。
世界の経済・政治・軍事へと間接的にでも介入できるほどの商人が、世界の表舞台で何もせず生きることを望んでいるはずがない。
富士宮はなぜかそう確信していた。そしてその確信のまま、自然とラウルへ手を差し伸べていた。
リリアは意味が分からず、きょとんとしている。ラウルは、聖女の手を見て一瞬だけ目を細めた。
富士宮はその反応を見ながら思う。
落ちるところまで落ちた、と思っていた
でも、まだだった
私はまだ死んでいない
ナビルとアントニオとラウル
彼らとここからやり直せるなら
自分の手で、この世界を掴めるかもしれない
富士宮は差し出した手をそのままに、ラウルへと話しかけていた。




