スキルツリーがあるなんて聞いていない
紅茶は、少しぬるくなっていた。
聖女専用の応接室は今日も静かで、窓から差し込む昼の光が、白い壁と磨かれた机をやわらかく照らしている。花瓶に活けられた花は侍女の趣味だろう。富士宮ひとみの趣味ではないが、別に嫌いでもない。だが、今はそれどころではなかった。
侍女が、少しだけ興奮した顔で報告に来たからである。
「先日の、あの……宮廷貴族の夜会で護衛に就いていた王国騎士たちですが」
「はい」
富士宮は紅茶のカップを持ったまま、静かに返した。
「問題の貴族家の本家筋が、できるだけ噂が広がらないようにと、当日の護衛の者たちをまとめて解任したそうです」
「そうですか」
富士宮は、表面上いつもどおり落ち着いていた。
黒髪の聖女は、こういう急な報告にも動じない。
だが、内心はそうでもなかった。
え。
解任?
え、じゃあイニゴどうなるの。
待って、そこかなり大事な情報では?
いや、かなりじゃない。めちゃくちゃ大事。最重要。
侍女は続ける。
「その結果、イニゴ・マルティネス殿は現在、どこの任にも就いていないそうで……」
カップを持つ指に、少しだけ力が入った。
フリー個体。
これなら最初っから簡単に獲得できたのでは?いや違うか、条件達成によってフリーになったってことだ。
ここでさらに侍女は、とどめの一言を放った。
「今、大聖堂の前まで来ておられます。教会騎士への叙任を願い出ているとのことで」
富士宮は、一拍だけ黙った。
外から見れば、それは聖女らしい静かな沈黙だろう。神意でも測っているみたいに見えたかもしれない。
実際のところは、違う。
なんで直接来ないの!?
心の中で机を叩いた。
いやそこは私のところに直接来なさいよ!
教会騎士に志願って何!
そのまま他の聖職者に取られたらどうするの!
待って、それ普通に困る。かなり困る。
ちょっと、早く通して。今すぐ。最優先。
しかし口から出たのは、静かな一言だけだった。
「……まずは、私のところへ通してください」
「かしこまりました」
侍女は深々と頭を下げて出て行く。
扉が閉まった瞬間、富士宮は紅茶をひと口飲んだ。
落ち着け。
落ち着いている。
私は落ち着いている。
たぶん。
少なくとも見た目は。
数分後、イニゴ・マルティネスが応接室へ通された。
前回会った時より、ほんの少しだけ身なりを整えている。くたびれた雰囲気そのものは変わらないが、今日はさすがにきちんとした顔をしていた。長身で、肩が広く、疲れているように見えるくせに、立っているだけで戦える男だとわかる体格をしている。
富士宮は、椅子を示した。
「座ってください」
だがイニゴは座らなかった。
背筋を伸ばし、まっすぐに富士宮を見る。その視線に、前回より迷いは少ない。
「それは、できません」
「どうしてですか」
「これからのことを申し上げるのに、座ったままでは失礼だと思ったので」
言ってから、イニゴは静かに礼を取った。
「これからは、聖女様のためにハルバードを振るいたい」
光の差し込む応接室。
黒髪の聖女。
長身の騎士。
静かな誓いの言葉。
客観的に見れば、かなり絵になる場面だった。誰か絵師が見ていたら、たぶん一枚絵にしていたと思う。信仰画っぽい構図で。
富士宮は静かにイニゴを見つめ返した。
しかし内心は、信仰画どころではない。
うわあああ来たああああ!!
すごい。
すごいすごい。
最初っから好感度高っ。
高いどころじゃない。これかなり上振れてる。
好感度が高ければ高いほど育成バフが乗るんだけど。え、何これ、お得。
精神Aも近いのでは?
ありがとう私。ありがとう略奪貴族。いやお前には全然感謝しないけど、イベント素材としては完璧だった。
富士宮はかろうじて顔を保ったまま、短く頷いた。
「そうですか」
それだけ返してから、改めてイニゴに《鑑定眼・宵》を向けた。
前回は、屋外だった。
高位聖職者もすぐそばにいて、発動の気配を長く晒すのは危険だった。
だから表層だけを見て終えている。
だが今は違う。応接室に二人きりで、邪魔者はいない。
そして何より、イニゴはもうこちらへ来ると決めている。
視界に浮かぶ情報表示に意識を集中させる。
まず確認されるのは、従来どおりの平面的な情報板。
氏名、年齢、現職、現在ステータス、潜在値、取得済みスキル。
しかし、今回は違和感があった。
表示は、厳密には“板”ではない。
正面に見えている文字列の左右に、微細な湾曲が存在する。視界の中で奥行き方向へ連続し、側面部にも文字が走っている。さらに背面にも別種の情報群がある気配がある。
形状としては、薄い透明な円柱。
従来は正面投影のみを視認していたに過ぎない。
富士宮は、心の中で「回せる」と思った。
円柱を回転させるイメージを明確に構成する。
操作対象を情報体として認識し、正面軸を維持したまま横回転を指示する。
すると、表示が実際に回転した。
「……!」
思わず息が止まりかけた。
イニゴの方は、ただ聖女にじっと見つめられているだけなので、少し怪訝な顔をしている。
一方、富士宮の視界には、新しい世界が開いていた。
出現したのは、膨大な分岐構造だ。
王国騎士というジョブのスキルツリー。
それは単一の直線的成長モデルではない。
少なくとも二百以上のスキルノードが確認できる。各ノードは前提条件、到達ランク、分岐相性、派生先ジョブの適性補正と結びついている。既知スキルはその最外層、すなわち表層的運用スキルに過ぎない。
分類可能な系統だけでも、
前線火力特化、
対装甲破砕、
集団制圧、
迎撃防衛、
持久戦補助、
兵站適応、
対魔物派生、
隊列維持、
下士官指揮補助、
教官適性分岐、
など多数。
さらに、歴史上に確認例のある名称がほとんどを占める一方、明らかに既知の戦史・伝承に存在しないスキル名もごく一部に混在している。
王国騎士は、一般的には突出した高位ジョブではない。中堅下位に位置づけられることが多い。
しかし、内部構造は想定以上に深く、単純な平凡ジョブではない。
むしろ“選択と運用で化ける余地を残されたジョブ”と定義するべきだった。
富士宮ひとみの内心は、ここで完全に爆発した。
なにこれなにこれなにこれ。
ちょっと待って。
王国騎士でこれ?
中の下ジョブでこれだけツリーあるの?
え、じゃあ上位ジョブどうなってるの。森? 迷宮? 宇宙?
ルナアリスでもここまでは見えなかったんだけど。
いや、運営の裏設定にはあったのかもしれない。でもプレイヤーとしては確認不能だったでしょうこんなの。
見えるの私だけ!?
忙しい。
これ今晩絶対に整理しないと。
イニゴのビルド案組まないと。
あ、そうだ。ナビルのツリーも探せるのでは?
奴隷ジョブにも潜在的な強スキル埋まってる可能性ある。やばい、仕事が増えた。最高。
富士宮はそのまま数秒、いや十秒近く黙り込んでしまった。
イニゴからすると、かなり妙な時間だった。
自分は決意をもって仕官を願い出て、聖女様は静かにこちらを見ていた。ここまではいい。
だが途中から、明らかに視線の焦点が少しずれた。じっと見てくるかと思うと、今度はふいに下を向いて考え込み始める。顔色は変わらないし、感情も読めない。
何か失礼だったか。いや、怒っているようには見えない。
むしろ、ものすごく集中しているような。
でも何に?
イニゴは少しだけ困った。
まさかその間、聖女の内心で「スキルツリーだーーー!!!」と祭りが起きているとは、夢にも思わない。
やがて富士宮は顔を上げた。
「……受け入れます」
短く告げる。
イニゴの顔が、わずかに緩む。
「ありがたい」
「ただし、すぐに働いてもらいます」
「望むところです」
言い切るところが、やはりいい。
富士宮の内心で、また小さくガッツポーズが生まれた。
よし、加入確定。最高。
次はナビルとの接続テスト。
「中庭へ行きましょう」
*
中庭は明るかった。日差しがやわらかく、石畳の上には若い木々の影が落ちている。訓練用の木刀も、すでに侍従に用意させてあった。
ナビルはそこに立っていた。
以前よりだいぶ健康的になっている。頬のこけ方は薄れ、肩も少しだけ開いた。だが、控えめな雰囲気そのものはまだ変わらない。自分が前に出ていい人間だと思っていない立ち方だ。
富士宮は二人を見比べて、簡潔に言った。
「イニゴ。こちらがナビルです」
ナビルが頭を下げる。
「ナビル・ユーラッハです」
イニゴは一瞬、彼の眼の色に視線を止めた。だがそれ以上は何も言わない。
「イニゴ・マルティネスだ」
名前だけの挨拶。悪くない入り方だ。
富士宮は続ける。
「ナビルにも、最低限の武力を身につけさせたいと思っています」
ナビルがはっとして顔を上げた。
「わ、私に、ですか」
「はい。今のジョブは奴隷ですが、条件を満たせば大聖堂でジョブチェンジができます」
この世界では、教会がジョブチェンジの儀式を担う。だから条件さえ揃えば、場所の問題はない。
ナビルは明らかに恐縮していた。
「恐れ多いです。私は、そういう……」
「そういう?」
「戦うような者では」
富士宮は答えず、代わりにイニゴの方を見た。
「どう思いますか」
イニゴはナビルの立ち姿を改めて見る。足の置き方や重心の流れ、視線の切り方を確認する。木刀を持たせてみればもっとわかるが、見ただけでも妙な違和感がある。
素人の立ち方ではない。かといって、訓練経験があるようにも見えない。
それなのに、無駄な揺れが少ない。危険から身を引く方向が、自然と正しい。
イニゴは笑った。
「お前、真面目にやりゃあ、俺より強くなるぜ」
ナビルは目を見開いた。
「そんな……」
信じられない、という顔だ。
富士宮だけが内心で、うん、知ってる、と頷いている。
そう、知っている。
そのために今ここにいる。
侍従からナビルとイニゴにそれぞれ木刀が渡される。
イニゴが軽く構えを見せ、ナビルがおそるおそるそれを真似る。
「違う。肩を上げるな。力入れすぎだ」
「は、はい」
「足はこっち。逃げる癖が出てる」
その一言に、ナビルが少しだけ顔を強張らせる。図星なのだろう。だがイニゴは責めずに続けた。
「悪くねえよ。生き残る動きだ。だが今は、前に残る足も覚えろ」
教え方がうまい。
富士宮はその様子を見て、あらためて確信した。
イニゴを取って正解だった。
この二人、ちゃんと噛み合う。
イニゴが短く指導し、ナビルが素直に吸収する。
余計な感情のぶつかりがない。
師弟としてかなり理想的な入りだ。
その間にも、富士宮はイニゴへ再び《鑑定眼・宵》を向けていた。
目的は一つ。
SSレアランクジョブ【キャプテン】のジョブチェンジ条件を探ること。
スキルツリーのさらに奥、ジョブ派生条件の層へ意識を潜らせる。
すると、条件欄と思われる箇所が現れた。
しかし全ては読めない。
表示の一部に、すりガラス様の不透明領域が存在する。文字情報はそこに埋もれ、輪郭のみが知覚されるが、判読には至らない。閲覧権限不足、あるいは解析段階不足による情報遮断と推定される。
可読域に残っていたのは、三項目。
第一。
「■人以上の上級職アップの主な原因となる」
第二。
「精神がA以上である」
第三。
「■■戦以上の人類又は魔物との実戦経験がある」
■部分は読めない。
戦闘数の具体値も不明。
それ以外にも不可視条件が存在する可能性が高い。
「……んー」
思わず、かすかに声が漏れた。
ナビル一人を育てるだけでは足りない。
そこがまず、少し残念だった。
いや、かなり現実的に言うと、育成コストが上がる。
複数人の上級職アップの主因。
精神A。
相当数の実戦経験。
つまりイニゴをキャプテンへ至らせるには、ナビルだけを鍛えていても足りない。
ほかにも逸材を見つけて、イニゴに育てさせる必要がある。
一瞬だけ、富士宮は机に突っ伏したい気分になった。
うわ、条件重い。
重いけど、逆に燃える。
そう来たか。
つまり人材発掘フェーズ継続確定。
やること増えた。
最高では?
残念、と同時に、闘志が湧く。
むしろ目標がはっきりしたぶん、テンションは上がった。
中庭では、イニゴの木刀が風を切る。
ナビルがそれを真似し、ぎこちないながらも、前より良い動きを見せている。
富士宮はその光景を見ながら、内心で次の育成計画を組み始めた。
ナビルのジョブチェンジ。
イニゴの精神A到達。
上級職アップ対象の新規発掘。
王国騎士ツリーの分岐研究。
奴隷ジョブの潜在スキル確認。
できれば近接火力型、タンク型、魔法攻撃型も早めに拾いたい。
忙しい。
だが、それがどうしようもなく楽しかった。
富士宮ひとみは、表面上は相変わらず静かな聖女のまま、木刀を交える二人を見つめていた。
そして内心では、わりと本気で思っていた。
あー、忙しい。
どうしよう私。
最高に忙しい。
最高。




