大河に流されて
意識が戻って最初に感じたのは、冷たさだった。肌を刺すような、骨の芯まで沈み込んでくるような冷え。
次に、激しい揺れを感じる。上下も左右も分からないまま、何か重く濁ったものに全身を乱暴に振り回されている感覚があった。水だ、と富士宮ひとみが理解した瞬間、口の中へ泥混じりの川水が流れ込み、咄嗟に息を止めようとして、肺が焼けるように苦しくなる。
そうだ、ナビルに抱えられて大河へ飛び込んだのだ。
そこまで思い出したところで、左脇腹に激痛が走った。光の斬波に抉られた傷口へ、冷たい水が容赦なく入り込んでいる。富士宮は半ば反射で右腕を動かそうとして、そこで自分が誰かに抱えられていることに気づいた。
抱えているのはナビルだった。彼は片腕で富士宮の上半身を支え、もう片方の腕で必死に水を掻いていた。だが、それは泳いでいるというより、もがいているだけに近い。ナビルの頬は青白く、額から目の横へかけて流れた血が水で薄まりながら張り付いている。それでもエメラルドの瞳だけは異様に鋭く、濁流の中でも強く見開かれていた。
「……ナ、ビル……」
富士宮の声に気づいたナビルの顔に、ほんのわずかに安堵の色が混じる。
「……よかった……」
彼の唇がそう動いたように見えた。その次の瞬間、川の大きなうねりが三人をまとめて飲み込んだ。
激流に飲まれながらも富士宮は咄嗟に思い出す。
そうだ、アントニオも一緒に引きずり込んだはずだ。
指先に意識を集中すると、張った糸のような手応えがかろうじて残っていた。自分が最後に飛ばした極細の糸はまだ切れていない。
アントニオは、近くにいる。富士宮は切れかけた糸をさらに手繰るように力を込めた。目に見えないほど細い線の先で、重いものが水流へ逆らうように引かれる感触が返ってくる。完全に気絶しているのか、反応はほとんどない。ただ糸の先に確かに重量があるだけで十分だった。
生きている、少なくともこの瞬間までは。
春先の雪解け水を集めた大河は、川というより一種の暴力だった。南方山脈から下る冷たい水は容赦なく三人を引き回し、時に沈め、時に水面へ叩き上げる。富士宮は何度か岩のようなものへぶつかり、そのたびに左脇腹の傷が開く感覚に歯を食いしばった。ナビルも何度も流木や石へ肩を打ちつけているらしく、支える腕が時々危うく緩みかける。それでも彼は富士宮を離さなかった。
富士宮は、こんな場面だというのに妙に冷静な部分が頭の中へ残っているのを感じた。いよいよ死ぬかもしれないのに、脳の一部がやけに冴えている。きっと、これもタナトスの影響なのだろう。死に近づけば近づくほど、かえって認識が鋭くなるというのは、正直あまり嬉しくない仕様だ。
その鋭くなった意識で、富士宮は周囲を見る。
富士宮たちは徐々に本流から逸れ始めていた。激しい流れは相変わらずだが、わずかに水の当たり方が弱くなったように感じる。岸辺の草や葦の群れが見えてきた辺りで、大きな木の根が水面近くへ張り出しているのを発見した。ここを逃したら、もうしばらくは浮上できないかもしれない。
「……ナビル……っ、右……!」
かろじてそれだけの言葉を絞り出す。ナビルは即座に意味を理解し、残った力を振り絞って流れへ逆らい、岸辺へ無理矢理身体をねじ込んだ。富士宮もまた、脇腹の激痛を無視して思い切り糸を引いた。アントニオの身体が水底か何かへ引っかかった感触が一瞬あり、そこで糸が切れかけた。
駄目
ここで切れたら、本当に終わる
富士宮は歯を食いしばり、ほとんど意地でその糸を手繰り寄せた。次の瞬間、何か重いものが水面を割り、濁流の中から浮き上がる。アントニオだ。全身から血を流し、まるで死体のようにぐったりしている。その姿を見たナビルが、一瞬だけ顔を歪めたが、何とか生きていることは確認できたらしい。
「まだ……っ、生きてます……!」
ナビルは誰に言うでもなく叫び、岸辺の葦へ腕を伸ばす。手に付着した泥で滑って中々うまくいかないものの、何度目かでようやく根の張った土へ手がかかった。ナビルはそのまま全身で引きずり上がるようにして富士宮を浅瀬へ押し上げ、富士宮もまた最後の力でアントニオを糸ごと岸へ引き寄せる。
三人は、泥と葦と水へまみれながら、ようやく大河の岸辺へ打ち上げられた。
しばらくは、誰も動けなかった。
富士宮は仰向けのまま、白く曇った空を見上げていた。視界の端で葦が揺れている。初夏の空気はまだ冷たいが、水の中よりはましだった。左脇腹からは相変わらず血が流れていて、服がじっとりと張り付いている。笑ってしまうほど痛いけれど、痛みを感じられているということは少なくともまだ生きているということだ。
隣ではナビルが、泥だらけのまま起き上がろうとしていた。だがその顔色は最悪だ。頬に血の筋があり、右肩は明らかに動きがおかしい。それでも、彼は富士宮を気遣うように話しかけた。
「聖女様……ご無事、ですか」
富士宮は内心で、どう見てもあなたの方が重傷っぽいでしょと言いたかったが、客観的に見れば恐らく自分の方がやばいのだろうと考え直して言葉を飲み込んだ。
「……アントニオは」
それだけ言うと、ナビルが慌てて振り返る。アントニオは少し離れたところへ投げ出されていた。無銘一文字は離さなかったらしく、右手へまだ握られている。だが、本人は完全に意識を失っていて、胸の上下もひどく浅い。
生きているが、かなり危険な状態だと思えた。富士宮が何とか身体を起こそうとした、その時だった。
遠くから馬の蹄の音が聞こえてきた。ナビルの表情が一瞬で張り詰める。
今ここで現れるとすると、敵の追手の可能性が高い。ロイヤルナイトたち本人ではなくとも、この下流域を捜索する王国兵や傭兵がいてもおかしくはない。ナビルは反射的に拳銃へ手を伸ばそうとして、途中で取り落としてしまう。体力も体温も失ってしまった影響なのか、まだ握力が戻っていないのだ。指先がひどく震えている。それでも彼は、富士宮の前へ這うように出ようとした。
「駄目です、動かないで」
富士宮はようやく声を出したが、その声色は自分でも驚くぐらい掠れていた。
だがナビルは聞く耳を持とうとしない。もはや理屈ではなく、聖女を守るという本能で動いている表情だった。富士宮はわずかに唇を噛む。
そういうところ好きだけど、今はやめて欲しいな
蹄の群れが止まる気配がして、複数の人が葦を押し分けて向かってきた。目の前に現れた一団を見て、富士宮とナビルは表情を変えた。
目の前にいたのは王国騎士団ではなかったからだ。




