宵闇は消えず〜Side Khadija Shaw〜
王国騎士団の地下牢は、相変わらず最低の空気をしていた。
湿気をたっぷりと含んだ冷たい石壁に、どこかで腐った水が染み出しているような臭いが満ちている。松明の火は弱々しく、影だけがやけに不吉に濃い。牢の奥へ目を凝らしても、何かが潜んでいるよう闇が広がっているだけだ。
カディジャ・ショーは、その薄汚い床へ半ば投げ出されるような姿勢で拘束されていた。
全身が痛い。骨の芯にまで鈍い鉄杭を打ち込まれたような重さがあり、少し息を吸うだけで肋骨のあたりが軋む。腕を動かそうとすると肩から先が熱を持ったように痺れ、脚をずらそうとすると膝の奥で割れた骨が擦れる感覚があった。
口の端も切れていて、まだじんじんする。舌で探ると、切れた皮膚に鉄っぽい血の味が触れた。だがそんなものは、全身の骨が何箇所も折れている痛みに比べればまだマシな方だった。
久しぶりの完敗だ。何より悔しかったのは勝ち筋が全く見えなかったことだ。
カディジャは、自分が戦場へ立つ時、どこかに必ず突破口はあるはずだといつも信じていた。相手の呼吸の荒さ、足捌きの癖、肩の入り方などを読んでいけば、必ず何かが見える。実際、そうやって今まで生き延びてきたのだ。
だが昨日だけは、何も見えなかった。
痛む頭を無理やり働かせながら、カディジャは昨日の記憶を呼び起こす。
最初の迷宮潜入の際、十一層でミノタウロスが現れた件について、聖女とスティーナは一つの結論を出していた。あれは偶然ではなく、地下迷宮の管理者である賢者とその徒弟たちが管理者権限を濫用した結果だ、と。
カディジャには、そもそもなぜ賢者が聖女を消そうとするのか、その動機が理解できなかった。聖女は教会の象徴であり、この国にとっても表向きは必要な存在だ。賢者が聖女と敵対するメリットなど、普通に考えれば存在しない。
だが、聖女――富士宮ひとみは、それをまるで当然のことのように受け止めていた。
「やっぱり来たか、ピーブイピー」
そんなふうに、面倒なイベントが予定どおり発生したぐらいの口調で呟いていたのを覚えている。
ピーブイピーは何のことなのか、カディジャには分からない。おそらくあの女だけが知る異界の言葉だろう。時々、富士宮はそうやって、自分たちの知らない理で世界を解釈しているような瞬間があった。
だが、不思議と不安にはならなかった。むしろ、あの黒髪の聖女が静かに燃えている時は、その味方でいる限りどんな敵にも勝てるのではないかと、そんな気分にさせられるのだった。
ともあれ、地下迷宮へ管理者権限で介入するには、迷宮裏手にある管理棟の宝珠室で操作をしなければならない。管理棟は大貴族の屋敷ほどの大きさがあり、警備も厳重だ。だがその侵入ルートは、すでにオーエンの手によって確保されていた。
カディジャは痛む頭で今さらながらに思う。
あの事務屋、私から見てもやばすぎるな
他者を武力で制圧する類の怪物ではないが、それとは別種の恐ろしさがある。剣で斬り合う相手ならまだ読みようがあるのだが、オーエンのような男は、最初から環境そのものをこちらの知らない形へ組み替えるようなことをしてくるから厄介だ。
さらに、天井裏からはジェシカが侵入する手筈になっていた。
ジェシカ・パーク、最初に会った時は素人丸出しだった。刃物を持たせれば危ない女だということは分かるが、それだけだと思っていた。だが今では様相が全く違う。カディジャが集中してようやく、かろうじて気配を捉えられる程度にまでなっていた。
人はこれほど急成長するのだな、とカディジャは素直に感心した。もっとも、その成長の仕方があまりにも歪で、しかも本人が幸せそうなので、少し怖くもあるのだが。
主人である聖女からカディジャとスティーナへ与えられた命令は明快だった。
聖女たちが迷宮へ潜入している間に、迷宮の管理権限を発動させないよう阻止すること。もし賢者側が実力行使に出てくるなら、それを排除して事態を政治案件へと変え、トーマスに引き継ぐこと。
スティーナからも言われていた。
賢者にはすでに大した戦闘能力は残されていない。高弟たちも、自分を超えるほどではない。だから、もし実力勝負になっても問題はない、と。
今思えば、この時、カディジャは少し気が緩んでいたのかもしれない。
黒髪の聖女の神懸かり的な指導力、鬼才たちをまとめ上げるカリスマ、何より配下に向ける深い慈愛。カディジャはいつの間にか、それらを心地よいと感じていた。
聖女のそばにいる限り、この満ち足りた時間がいつまでも続くのではないか。
そんなふうに、どこかで思ってしまっていたのだ。
勇者パーティにいた頃は、毎日が腐臭のする泥沼だった。あのアホ勇者と、売女のような聖女と、それを見て見ぬふりをする王国。そういうものへ嫌気が差していた。だが今は違う。今の陣営なら、自分はただ前を向いて剣を振るっていればいい。そう思えた。
その甘さが、たぶんよくなかった。
管理棟への侵入自体は、拍子抜けするほど容易かった。宝珠室の見張りをしていた騎士と魔法使いを昏倒させ、拘束する。制圧は一瞬だった。あとは数日間守り切ればいいだけ。
いまや王国最高戦力である自分なら容易い。
カディジャは、そう安易に考えていた。
異変は、そこから半日後に起こった。
ふいに、天井裏に潜んでいたジェシカの気配が変わる。次の瞬間、あの少女は脱兎の如く逃走し、管理棟を飛び出していった。
訳が分からず、カディジャはスティーナと顔を見合わせた。
だがすぐに理解する。ジェシカが自分の判断だけで動くはずがない。ならば、オーエンの指示だろう。そして、こちらへ何も告げず去ったということは、ここに自分たち二人が残ることすら、オーエンの意図なのだ。
カディジャは、短い付き合いの中で、あの元官吏の深謀遠慮だけは信用するようになっていた。聖女への狂信ぶりには毎度引いているが、それでも局面を読む力だけは本物だった。
ならば残るしかない、とそう思った。
そこから先の記憶は、妙に曖昧だ。
ジェシカが去って数十秒後、管理棟の扉が破砕されるように蹴り飛ばされた。
入ってきたのは神父服姿の黒髪短髪の男だった。手にはメリケンサックのような見慣れぬ武装をしている。にこやかな笑顔を浮かべているくせに、その奥には、この世界そのものを馬鹿にしているような底知れない悪意が見えた。
ルイ・ムラサメ
なぜか、そう直感した。そしてその瞬間、脳が沸騰したようになり、何も考えられなくなる。
ここから先は、さらに曖昧だ。
どうやって戦闘が始まったのか。
どうやって負けたのか。
そのどちらも、ほとんど思い出せない。
ただ一つだけ分かることがある。
武力Sのカディジャが、武力で真正面から完膚なきまでに押さえ込まれた。勝ち筋を拾おうと試みることすらできなかった。その事実だけが、骨の髄にまで刻みつけられている。
カディジャは悔しさのあまり奥歯を強く噛み締めた。裂けた口元から再び血が流れる。痛みなどはどうでもよかった。問題は、納得できないことだ。負けるなら負けるでいい。だが、どう足掻けば勝てたのか、その糸口すら見えない敗北は、剣士として耐え難い屈辱だった。




