千年賢者からのDM
トーマス・トゥヘルが社交界へ放り込まれてから、一ヶ月が経った。
聖女の私室で一人、静かに紅茶を飲みながら、富士宮はこの一ヶ月間の成果を整理していた。表面上は、朝の祈りを終えて思索に耽る神秘的な聖女そのもの。だが頭の中では、当然ながら攻略情報の精査が高速で回っている。
まず結論から言うと、トーマスは想像以上だった。トーマスは、地下迷宮に潜るための決済に関わる上位騎士数名と、すでにコンタクトを取っていたのだ。しかも、富士宮の従者たちが地下迷宮へ入ることについて、事実上の了承を得てしまっている。
王都地下迷宮は、神代から存在するとまで言われる王国最大級の危険地帯だ。建前としては騎士団が警護し、賢者たちが管理しているので、国家そのものが厳重に扱っていると言っていい。そこへぽっと出の従者集団を入れるなど、本来ならあり得ない。
だが、騎士団側にも思惑はあるらしい。教会を迷宮へ関与させることで、騎士団にとって賢者たちへの牽制になるということのようだ。賢者の塔の引きこもり連中があまりに独自の権限を持ちすぎるのは、騎士団としては面白くないのだろう。そこへ教会という第三勢力を差し向けることで、力関係を再調整するという理屈自体は理解できる。
しかも、トーマスの躍進はそこで終わらなかった。何と、賢者たちとも接触していたのである。
富士宮がその報告を受けた時は、さすがに耳を疑った。
いや待って
誰と繋がったらそうなるの?
どういう攻略ルートで、あの気難しそうな迷宮管理者たちへ辿り着いたの?
しかもトーマスは具体的な条件交渉まで進めていた。賢者側の提示した条件は、聖女が賢者秘蔵の呪文書を鑑定するなら、聖女の従者が地下迷宮へ入ることを黙認する、というものだった。
もちろん黙認という言い方からして、公式に全面許可するわけではないのだろう。だが、地下迷宮という閉じられた空間において、賢者側が見て見ぬふりをする、というのは事実上の通行許可に近い。
ただ顔が良くて常識のある若者を送り込んだだけで、何で迷宮管理者との取引まで終わってるの
怖っ、【リヴァイアサン】怖っ
富士宮がそんなふうに軽く引きつつ感心していた数日後、事態はさらに動いた。賢者自身が大聖堂までやってきたのである。
*
その老人は、実に賢者らしい見た目をしていた。白髪白髭に真っ白なローブを着込み、顔には長年月を思わせる深い皺が幾重にも刻まれている。長年の修練と経験を、これでもかと顔面へ刻みつけたような男だった。立っているだけで、そこらの高位聖職者たちが一歩引きたくなる種類の圧がある。
老人の名はヒッポグリフ・ド・モルガン。大層な名前だ、と富士宮は思った。
場所は、教皇の間に準じる規模の応接空間だった。教皇は当然ながら同席しているが、富士宮の意識はほとんど賢者へ向いていた。もっと正確に言えば、賢者を鑑定しようとして、しかし奇妙な感触に思考を止めていた。
《鑑定眼・宵》が発動できない。厳密にはスキルの使用そのものが阻害されているというより、発動しているのに効果だけ表示されていない感覚だ。
恐らく超高位の対魔法障壁が常時展開されていて、スキルの使用にまで影響を及ぼしているのだろう。
これほどの傑物がまだいたのか
富士宮が素直にそう感心していると、賢者は彼女ではなく、同席していたスティーナ・ブラックステニウスへ目を向け、柔らかな笑みを浮かべる。
「久しぶりじゃな」
その声音は、驚くほど優しかった。
スティーナは元々、この賢者の高弟だった。だが賢者の塔の息苦しさに耐えられず外へ出て、そのまま流れ流れて勇者パーティへ入ったと聞いている。
旧師弟は、表面上は実に穏やかに会話を交わしていた。だが富士宮には、それがただ旧交を温めているだけには見えなかった。富士宮の脳内風景では、互いに互いの頭の中を探る心理戦を高速で繰り広げている。会話の一語一句、呼吸のタイミング、沈黙の長さ、その全てが戦場で放たれる拳打かのようだ。
富士宮はそこで、異世界へ来て初めて、相手の手の内をほとんど把握できない場面へ立たされていることを自覚した。なるほど、これは慎重に行くべき相手だ。
いくつか当たり障りのない言葉が交わされた後、賢者はふっと笑って本題へ入った。
「さて、我々の管理する迷宮に従者殿たちの一団を入らせたいとのこと。教会としても迷宮攻略へ尽力しようとするお考えは、大変立派でございます」
口調は柔らかいが、その目は笑っていない。
「しかしそれ以外にも目論見があると思うのは、某の妄想にすぎないでしょうか。聖女様は人材の収集にも熱心と聞く。よもや、人の能力をも見抜く目などお持ちではないかと夢想したところでございます」
富士宮の警戒アラートが最大になる。この老人は、《鑑定眼・宵》の真の姿を知っているか、少なくともかなり近い認識を持っている。
なぜかはわからないが、スティーナですら知らない秘密をここで公にされるわけにはいかない。
「さて、何のことでしょうか」
富士宮は、聖女らしい静かな声で返した。
「確かに、人を見る目はあると褒められることはありますけれど」
外から見れば、ただのとぼけた返答だろう。だが内心では、賢者の殺し方をかなり真剣に考え始めていた。
あの障壁が厄介ね
魔法やスキル以外に、物理を弾く構造もあるかもしれない
そうすると、やはり毒か
いやでもこいつ、そういう方面も対策してそうなのよね
ほんと何者なのよ、このジジイ
その時だった。頭の中へ、ふいに声が響いた。
『あははは、冗談だよ冗談。だからそんな怖い顔しないでよ、ね? 富士宮ひとみさん?』
富士宮は一瞬だけ呼吸を止めたが、すぐに何もなかったように目を伏せる。スティーナは、この声を聞いている雰囲気ではない。目の前の賢者も、表面上は今まで通り当たり障りのない会話を続けている。
なのに、明らかに賢者からダイレクトに声が届いている。
この仕様は――まさか、DM?ルナアリスのプレーヤー間秘匿通信と同じものか?
頭の中の声は続いた。
『気づいたみたいだね。そう、僕はあなたと同じプレーヤーだよ』
その瞬間だった。今まで見えていなかった賢者の情報が、アバターの上に重なるように表示された。
ヒッポグリフ・ド・モルガンと呼ばれていた老人の本当の名前、『佐藤道春』。それは明らかに日本人名だった。
富士宮はそこで一気に理解する。
そうか、プレーヤーだから見えなかったのか
ルナアリスの仕様では、相手プレーヤーの能力値そのものは見ることができない。プレーヤーには通常ユニットのような能力値はなく、所属国家の施設、政治体制、経済事情、保有している個体のバフ、ユニークスキル、そして本人のプレーヤースキルの総合値で、ざっくりランクF〜S相当へ分類されるだけだ。そのランク自体もプレーヤーが公開しなければ見ることができない。表示されるのは、プレーヤーネームとアバターだけだ。
頭の中の賢者――いや佐藤道春は、妙に軽い口調で喋り続けた。
『いやー驚いたよ、新しい聖女がヒトミ・フジノミヤって聞いた時はさ。だって明らかに日本人じゃん。しかも多分、あの伝説的プレーヤーのhitomiだよね? 世界ランカー七位の常連のさ』
富士宮は少しだけ眉を動かした。そんなふうに言われると、なんだか妙に気恥ずかしい。
『ルナアリス始めたばっかりの頃の、まさに伝説的プレーヤーだったんだけど、僕がランカーに乗る頃にはいなくなったんだよ。だから引退したと思ってたのに、こんな所で会うなんてさ』
富士宮は佐藤に悪意がないかどうかを測ろうとしていたが、今のところはそのような気配はなかった。
『僕? 僕はね、地球時間でいうと、あなたが転生して三年後にこっちへ転生したんだ。でも転生したのは千年前。その頃は魔王が強力でね、NPCの勇者たちと大陸中を戦って回ったよ。ほんと大変だったんだよ?』
富士宮は千年前という数字の重さに少しだけ意識を向けた。
『この世界を救ったんだから感謝してほしいよね。でも昔のことすぎて、僕が英雄だなんて誰も覚えていない。ちょっと寂しいけど、これからの世代にはいつまでも過去を引きずってほしくないからね』
『ずいぶんしゃべるわね』
富士宮は、思わずかなり素の人格でそう返した。すると頭の中の佐藤が、苦笑するような気配を返してくる。
『このモードになるの久しぶりだからね。もう千年以上生きてるんだ。僕の普段の人格は、君と話してるあの老人とまったく同じだよ。今の言葉遣いは、遥か昔に保存しておいた記憶の残滓さ』
富士宮は少し黙る。
『だからこの僕は、賢者の分身で、従属的な存在だ。この僕もいつまで保てるかわからない。だからさ、僕自身が消える前に、憧れのプレーヤーと話してみたかったんだ』
その言葉の最後だけが、ほんの少し寂しげだった。富士宮は胸の奥で、奇妙な感覚を覚える。
千年、それだけ生きれば人格も精神も摩耗するのだろう。
『今日は会えて嬉しかったよ。あなたのことを邪魔するつもりはないから、地下迷宮で思いっきりキャラクターのレベルを上げてくるといい。賢者である僕にはもう戦う力がほとんど残っていない。いくらプレーヤーでも、精神の摩耗で能力も下がるみたい』
富士宮は、その言葉を重く受け止める。プレーヤーでも摩耗し、千年の果てにはこんなふうになるのか、と。
『でも、権威だけは売るほどあるから、何かあったら頼ってよ』
その軽い言い方が逆に、長い時間を感じさせた。
『あ、そうだ。迷宮の攻略法を知りたかったら、スティーナに聞いてね。僕が育てた自慢の個体だよ。賢者の塔から飛び出して心配してたんだけど、あなたが拾ってくれたなら安心だ』
そこは理解できる。確かにスティーナは、強いし賢いし、かなりいい駒だもの。
『その娘は迷宮の最高記録保持者だから、きっと役に立つと思うよ』
そこで、DMは終わった。ほんの数秒かもしれなかったが、富士宮にとってはずいぶん長い会話のように感じられた。
目の前の賢者は、何事もなかったように笑っている。
「それでは某はこれで失礼するとしよう」
老人の声でそう言って、静かに席を立つ。現実へ引き戻された富士宮は、ほんの一拍遅れてそれに応じた。
賢者が退出すると、スティーナが少しだけ首を傾げる。
「聖女様。心ここに在らず、といったご様子でしたが、何かありましたの?」
相変わらず鋭いが、ここで本当のことは言えない。
「迷宮の攻略法を考えていました」
富士宮は平静を装って答えた。この答えはあながち嘘でもない。
「そうでしたら、後ほど詳細をお伝えいたしますわ」
「お願いします。イニゴたちにも共有を」
「承知しました」
スティーナはそれ以上詮索しなかった。賢明だ、そしてありがたい。驚きから回復しきれていなかった富士宮は素直にそう思った。




